4-1 Shallow chaser
× × ×
いつものように『文庫本エリア』の床掃除をしながら、僕は大きくあくびをする。
昨日は興奮のあまり寝つけなかった。
なにせ「祝勝会」と称して五郎さんの家でお泊り会を行ったのだ。それも五郎さんのTSムービーコレクション付きだったものだから、三人でピザを注文してから日付を跨いでもなおテンションが下がってくれなかった。
おかげで僕たちは三人とも朝方のズズメの鳴き声を聴いてしまっている。こんな形で人生初の「誰かとの朝チュン」を体験することになるとは夢にも思わなかった。
ちなみに、別にみんなでTSムービーを楽しんだために眠れなかったわけではない。
というのも「性の揺らぎ」を描いた映像作品は意外に少ないのである。
仮にあったとしても「男の子になりたい女の子」だったりして「女の子になってしまった男の子」を描いたものは非常に稀なのだ。
ニッチな需要に応えがちな日本のテレビアニメでも、どちらかといえばライトにTSを楽しめる作品のアニメ化が多くなっており(『ワイポニ』『がるばるディー』など)、マンガでは揺らぎを描いていた『かしましくない』もアニメ版では要素が薄められているらしい。
おそらくストーリーがヘヴィすぎると採算が取れないのではないでしょうか――と、伏原くんは考察していた。一方の五郎さんは一人称を用いることで主人公の人格に没入できる小説とのメディアの差を指摘していた。
そんな議論ばかりしていたから、平日なのに朝チュンするはめになったのである。
ホームシアターで流されていた古今の名作たちは五郎さんと伏原くんにとって「着火剤」にすぎなかった。
「この映画……小生的に心まで乗っ取られるのは好きではないです」
「このシーンはまだハイドに人格が変わっていないから萌えられるだろ」
「小生としては主人公の人格のままで男好きになって欲しかったですね。心は拒否しているのに身体が求めてしまうんです。たまりません」
「お前こそ多くを求めすぎなんだよ。オレは峰先生の『僕は朝子』で変身してから朝子に乗っ取られる前の数コマだけで満足できるぞ」
そんな二人の後ろで、僕は「なんだこいつら」とドン引きしていた。
彼らには大いに世話になっているとはいえ、こうしてTSについてリアルで雄弁を振るう姿を見てしまうと、やはり今後の交遊の是非を考えさせられてしまう。
僕だって鳥谷部さんに熱弁していた?
とんでもない。この世には便利な言葉があるのだ。他人の振りみて我が振りなおせ。
他人と呼ぶには近づきすぎた気がするから「同志」と言い換えたいところだけど、ともあれ彼らのおかげで僕は眠たくてたまらない。
いっそ自分だけおやすみさせてもらってもよかったかもしれないな。きっと二人は怒らなかっただろうし。
でも、やはり同志たちの対話を聞き逃すわけにはいかなかった。
だって僕の知らない作品が出てくるかもしれないから。実際『ひかるひかり』の2巻が出ていたなんて知らなかったからね。今日の帰りに日本橋まで買いに行かないと。
× × ×
中二階の廊下から『文庫本エリア』全体を眺めてみる。
今日もここには大学生のお客さんがたくさんやってきていた。
彼らの目当てはライトノベルと仮眠である。机にもたれかかってイビキをかいているのが何人もいた。今の僕としては羨ましいかぎりだけど、あんなことをしたら一発で退部になるのでやめておこう。
お掃除グッズをロッカーに戻して、僕はまたもや大きなあくびをする。
「ずいぶん眠たそうだね」
ピエロがいた。
うん。ピエロがいた。それも黒い化粧のピエロだった。
往々にしてハリウッド映画では「ピエロは子供の味方でありながら殺人鬼」というキャラクターをつけられがちだけど、あれは著名なシリアルキラーの影響であって、本来ピエロは「善」なる存在である。客を楽しませる道化のはずだ。
しかしながら、こんな禍々しい化粧ではとても善い人には見えない。そもそも『文庫本エリア』にピエロがいること自体がおかしい。
もしかして僕が「選ばれし者」だから、このエリアのモデルになっているロサンゼルスからハリウッド・ピエロが来てしまったとか?
どうしよう。逃げるべきかな。怖くなってきた。
「あれあれ。先輩にあいさつしてくれないの?」
「へ、先輩なんですか」
「だって君は明佳(はるか)のところの新人でしょ。あの『第2保管室』の新入り。だったらボクは先輩だよ」
ピエロはポンポンとこちらの肩を叩いてくる。
まさか自分の人生でピエロから上下関係を問われることになるとは思わなかった。
それにしても、伏原くんやあの部屋を知っている上に「先輩」となると、ひょっとしてこの人も「同志」だったりするのかな。
気になるから訊いてみよう。
「あの、ピエロさんって同志なんですか?」
「小山内くんは皮モノは好きかい?」
その問いかけに答えはいらない。ピエロさんはそんな表情をしていた。
皮モノとはTSのジャンルの一つだ。
大まかに説明すると「女の子の皮を着る」状況を描いている。皮に袖を通すことでその子の姿になることができる。
ここでの皮は人造物だったり本物の誰かの皮だったりする。
リアルだとおぞましいことになるはずだが、そこはフィクションなので科学だとか呪いとかできれいに片づけられる。どんな大男でも女子高生の皮を着込めば彼女の姿になることができるし、おっぱいだってきちんと柔らかかったりする。
その中身はどうなっているのか、サイズが合わないのにどう処理されるのか。
そんな疑問に美味しい設定を付けてくれている作品もある――袖を通してしまえば中身まで女の子に変わってしまい、さらには皮が本物の皮になってしまうので脱げなくなるなど。
『おい先生。どういうことだよ』
『君の本来の皮膚が消えているんだ。このレントゲン写真を見たまえ』
『そんな……一生このままなんてイヤだ!』
『しかも君は妊娠しているぞ』
『い、いやああ!』
フィクションに不可能はない。
僕は近くに誰もいないことをたしかめてから「好きです」と答えた。
するとピエロさんはニタリと笑って、
「エクセレントだよ。皮モノの良さがわかるなんて。でも万人受けはしないんだよね」
「かなりエグいですからね」
「だからこそ未開拓でもあるわけだ」
彼は「エロマンガなら傑作がないわけでもない。しかし一般向けとなると皮モノを前面に押し出した作品は未だないだろう。ボクはそれが惜しいんだよ!」と身悶えてみせる。
たしかにこれといったタイトルは出てこないな。
ネット上の小説やマンガなら有名なのがいくつかあるけど、ピエロさんの言うように商業面では未開拓のジャンルなのかもしれない。
「ボクは皮モノを世に送りたい。それも珠玉の皮モノを。そこで小山内くん」
「あ、はい」
「君たちにはアイデアを出してもらいたいな。できれば出版社にウケるアイデアがいい。同志なら生み出せるはずだ」
ピエロさんは衣装のポケットから名刺を取り出してくる。
そこには凝ったフォントで『ライター・仲田良弘(なかだよしひろ)』と記されていた。
文筆業ということは小説でも書いてらっしゃるのかな。ライトノベル、推理小説、まさか皮モノのノンフィクション作家ではあるまい。そんなの病的すぎる。
「おっと。そろそろ予定があるのでね。また会いに来るから考えておいてくれたまえ。ドヴィゼーニャ!」
ピエロさんは両手の親指を立てて、若干急ぎ気味にレンガ造りの階段を降りていった。
いったい何者だったんだ。
いや「同志」であり先輩なのはわかっているけど、いかんせん仮装されているのでそれ以外のことがさっぱり推測できない。
彼の行方を中二階から目で追ってみると、ちょうど本棚を拭いていた相方の田村とぶつかって、お互いにぺこぺこ頭を下げ合っていた。この辺は普通の人みたいだ。
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