3-1 とりかえれば奴になる


     × × ×     


 早朝に自分の身体をチェックしていたのは何年生の頃までだったか。

 少なくとも、朝起きたら女の子になっていた――いわゆる「あさおん」がありえないと悟ったのは、中学の入学式だった気がする。

 壁にかけられた男子用の制服から、僕は抗いようのないものを感じた。


 別に『砲塔息子』の主人公のように、自分の性別に違和感を覚えていたわけではないけど……自分がこのまま「こちら」で生きていくのだと受け入れたのはその時だった。

 そんなごくごく誰にでもありそうな、いわば思春期を迎えるあたりの性の揺らぎの話を、僕は今まで誰にも話したことがない。


 そもそも小さい頃から僕は秘密主義だったのだ。

 好きな子を訊かれても答えなかったし、あらぬ方向でごまかすこともしばしばだった。

 それがなぜなのかは自分でもわからない。

 ただ、友人にも家族にも本心を話すのが恥ずかしくて仕方なかった。


 対して小山内家はみんなフリーダムだ。

 いつもお互いにめちゃくちゃなことを言い合っている。気取らずにゲラゲラと笑い合っている。そこに秘めるなんて考え方はないようにみえる。

 なのに僕だけ、他の人に秘密を告げることができないのは……やはり秘密の内容が恥ずかしかったからだろうか?

 それともそれが性的な内容だったから、かな。


 いずれにせよ――今朝も鏡に映る姿は変わっていなかった。

 いや、当たり前なんだけどね。

 むしろいきなり変わっちゃったら学校に行けない。学校に行けないと図書部にも行けない。すると退部になってしまう。それだけは勘弁してほしい。



     × × ×     



 突然だが、高校生の本分は勉学にある。

 決して私立図書館『むらやま』の清掃だけが学生生活ではない。僕や鳥谷部さんだって、平日と土曜日には高等部の教室で授業を受けている。

 授業が終われば休み時間になるし、クラスの友人たちとお喋りしたりもする。

 そこではTSの話なんてほとんど出てこない。いつも一般向けのマンガやアニメの話で持ちきりだ。

 ごくたまに……アニメのワンシーンで主人公が女装したりすると「ずっとあのままでいいのにな」という流れになったりはする。


 けれども、どこぞの同志たちのごとく「おちんちん」のことを考えたりはしない。

 そんなのは、せいぜいトイレに行く時くらいのものだった。


「ソーシャルゲートがオープンっと。ふう……」

「おっ。小山内じゃねえか」


 一人で立って用を足していると、頭上から声をかけられた。

 仰ぎ見れば、隣で五郎さんが用を足していた。


「……そういえば、五郎さんも一年生だったね」


 そのわりには相変わらず大柄な人だ。このぶんだとあちらの方も――いや。そんなことは考えないようにしよう。

 ちなみに五郎さんの日焼けした前腕にはギシリと筋肉がついていた。

 たぶん殴られたら死ぬ。せめて手を洗ってから殴ってほしい……なんて、どうして殴られることを考えてしまうのだろう。二人きりだからかな。


「だから、さん付けするなよ。というか将(まさし)だからな。五郎はやめてくれ」

「ご、ごめんなさい」

「なんで敬語になるんだよ!」


 彼の太い声が、トイレにひびきわたる。

 あまりの威圧感に身が震えそうになるけれど……彼もまた道を踏み外した者だと考えると落ちついてくるから不可解だ。別に同類だからって安心できるとは限らないのに。


 ほぼ二人同時に用を足し終えて、ほぼ同時にお手洗いの蛇口をひねる。『むらやま』のトイレのように全自動式蛇口を採用していないのは学校自体が古いからだ。

 群山学園は今年で創立80年を迎える。


「ところで、小山内って鳥谷部と仲良いのか?」

「へ? 鳥谷部さん?」


 いきなり彼女の名が出てきてビックリした。

 仲が良いというよりは同じ班だからよく話すくらいだけど、もしかして五郎さんのお気に入りだったりするんだろうか。


「昨日、非番なのに会いに来てただろ。お前ら付き合ってんの?」

「まさかそんな。恋人なんていたこともないよ」

「そうか……まあ同志だもんな。むしろこっちの方がいいか」


 五郎さんから小さなメモを渡される。

 お互いにハンカチを持っていないのでビショ濡れだけど、そこにはリストのようなものが記されていた。

 これはもしかして。


「オレのオススメ作品だ。全部お金を出しても損しないと保証できるぞ」

「おお……みんな女装モノだったり?」

「おいおい、こんなところでそんな言葉を出すなよ……まあ色々だな。あとウラにはWEB作品のオススメもあるからチェックしとけよ」


 五郎さんはそう言って白い歯を見せる。

 彼のメモにはおよそ30くらいの作品名が並べられていた。ネットで調べればすぐにも手に入れられるだろう。僕はドクドクと心拍数が上がっていくのを感じる。今日は早めに帰りたいところだ。


「ありがとう、五郎さん。至れり尽くせりすぎて申し訳ないくらいだよ」

「よせ。ただの新入りへのサービスだ。あとお前わざとだろ」

「ははは、何のことかな?」


 僕は頭を掻いて、精一杯にトボけてみる。

 正直なところ「五郎」というのがしっくりきすぎて、失礼なのはわかってるんだけど、本来の名前がまるで頭に入ってこない。


「ん?」


 なぜか……視界に鳥谷部さんの姿が入ってくる。

 ここは男子トイレだ。その入口からじぃっとこちらをのぞいているのは、やはり同じ班の彼女だった。

 いったいどうしたんだろう。中に用でもあるのかな。忘れ物はありえないとしても……いや落ちつけ小山内。彼女が女装男子である可能性は否定できないぞ。

 なんてことを考えていたら、彼女は何も言わずにそそくさと逃げていってしまった。


「おい。今のは鳥谷部だったよな」

「あんな姫カットの女の子は他にいないよね」

「せっかくだから追いかけてこいよ。たぶんお前に用があるんだろ」


 五郎さんからポンと背中を押されてしまう。

 仕方がないので外に出ると、すぐ傍に鳥谷部さんが立っていた。

 この子が目立つのは姫カットだけが理由ではないから、ドキリとさせられる。


「えーと。何か用かな?」

「質問させて。あの大きな男の人は小山内くんの友達なの?」

「あーそれはねえ……」


 彼女から飛んできたのは思いのほか難しい質問だった。

 昨日会ったばかりの人を友人と呼んでもいいものか。ポケットに入れたメモのことを思えば「先生」と呼びたいくらいだけど。さすがに心の同志とは説明しづらい。


「えーと。特殊な知りあいみたいな感じでさ……」

「!?」


 なぜか鳥谷部さんは目をパチクリさせる。彼女がなかなか見せることのない表情なので興味深い。いつもはチェカの如く冷たいイメージの人だからね。

 でも、どうしてビックリされちゃったんだろう。僕が五郎さんのようなコワモテな人とつるんでいたのが予想外だったのかな。


「特殊な知り合い……特殊な……」

「ところで、鳥谷部さんって男の子じゃないよね」

「そんなわけないでしょ。バカ」


 彼女はぷるぷると手を震わせながら答えてくれた。

 ごめんなさい。さすがに失礼すぎた。――僕は先週に続いて『伝家の宝刀』を抜くことに決めた。すなわち当番の代行である。



     × × ×     



 入れ替わりモノってシンプルに楽しいですよね。

 放課後。例によって借りたマンガを返しに来たら、忘れ物カウンターの主からそんな話題をふられてしまった。

 今日は久しぶりの非番なので、僕としてはとっととネットカフェに行ってアマゾンを探りたいところなんだけど、かといってマンガを貸してくれた恩を忘れているわけではない。

 伏原くんには本当にお世話になっている。この前の『博徒な彼女の三連敗』はシビれるマンガだった。そういやアレも入れ替わりモノだったな。


 入れ替わりモノとは、人格の交換をテーマとする作品のことだ。

 そのうちの多くは「差」を出しやすい男女の入れ替わりを描いている。つまり男の子の魂が女の子の身体に入ってしまう。


「心まで女の子になっちゃう話も正統派で良いですけど、誰かになるというのも単純に女の子を楽しみやすくてアリですよね」


 TS好きを公言してはばからない少年は今日もそんな話がしたいらしい。

 でも、こんなところでするのは社会的にダメだと思う。そもそも伏原くんは世間の目を気にしていないきらいがある。女子から可愛がられているといっても全てが許容されるはずはない。イケメンでも人を殺したら罪になるのだから。

 そんな彼に、僕は大人の対応を取ることにした。


「へえーそうなんだ。ところで入れ替わりモノって何なのかな?」

「センパイ。ウブなふりをしてもムダですよ。小生たちは心の同志なんですから」

「いやいや本当に知らないから」

「ほう。センパイともあろう方が、この作品を知らないと言い張るんですか?」


 そう言って、伏原くんはカウンターの上に一冊の文庫本を載せた。

 山中恒『おれがあいつであいつがおれで』。

 古い小説ではあるけど、名著だから誰でも知っている。

 ネット上では入れ替わりモノの古典的名作として広く知られている作品だ。

 僕も小学生の時分には図書室で読みふけったものである。あの頃は小説やマンガを手に入れる手段に乏しかったから、かなりお世話になったなあ。


「これってTS抜きでも良い作品ですよね。おばあちゃんを殺したかもしれないという過去から、二人はお互いを共犯的な縁で結んでいたりして」

「あとは二人とも同じ苗字なんだよね」

「やっぱり知ってるじゃないですか! もう!」


 しまった。つい引っかかってしまった。

 どうも思い出がある分だけ反応しやすくなっていたみたいだ。

 だからといって、こんな目立つところで内容を語るわけにはいかない。


「と、とりあえず奥に行こうか!」

「えへへ。……小生は元々そのつもりでしたよ」


 いたずらっぽい笑みを浮かべる伏原くん。

 ちょうど『第2保管室』のケトルが炊き上がっていたことから、本当に彼が「そのつもり」だったとわかってしまい、僕は狐につままれたような気分になった。

 年下の手のひらで転がされるのは決して楽しいものではない。本当に油断ならない子だ。


「センパイと二人で入れ替わりのお話ができるなんて。楽しみです」


 そんな伏原くんが二人分のお茶を入れてくれる。

 今日は五郎さんがいないらしい。彼も非番なのかな。

 以前は彼がいたおかげでウヤムヤになったけど……こうして伏原くんと向かい合ってしまうと、やはり許されないことをしているような気分になってくる。

 お互いに女の子になりたいわけではないと宣言しているとはいえ、面と向かって己の性癖を口にするのが度胸のいることであるのに変わりはないのだ。


「センパイは入れ替わりモノが好きですか?」

「まあ、好きだけど」

「小生も大好きです。だって妄想しやすいですからね」


 伏原くんは満面の笑みを浮かべる。本当にこうした語らいを楽しみにしていたみたいだ。そんな彼を見ていると悩んでいるのがバカらしくなってくるような。

 ちなみに入れ替わりモノがいわゆる変身モノと異なるのは、先ほども説明したように「他人である女性」を演じる点である。

 女性化した自分ではなく「人生を歩んできた他人」になってしまうので、入れ替わった男女はそれぞれ入れ替わりがバレないようにごまかすハメになるのだ。

 女の子がナナコちゃんで、男の子がアキラくんなら、ナナコちゃんはアキラくんとして生活することになり、アキラくんはナナコちゃんのふりをすることになる。


『どうするのよ。このままだと家に帰れないじゃない!』

『ああ。しばらくお互いのふりをするしかないかもな』

『あんたはあたしの家に帰るってこと?』

『そういうことだよ』

『もうやだ! 絶対にお風呂に入っちゃダメだからね!』

『別に何にも見たりしねえよ!』

『当たり前じゃない。触るのもダメなんだから!』

『お前だって変なことするなよ!』

『わかってるわよ!』


 とか言いながら、本来なら味わえない異性を楽しんでしまうのが定番である。

 また日記などからお互いの知られざる事情を察したりもする。中盤はそうした問題を解決していくのがお約束だ。


 そうしてお互いのことを知っていく二人は、一生元に戻れないかもしれないという不安もあるせいか、ほとんどの作品で恋人同士になって終わりを迎える。

 必然的に心まで女性化することは少なくなり、そういったカタルシスは得づらいものの、他のTSモノと比べて一般受けしやすいのは否定できない。


 本作が大林宣彦によって『転校生』として二度にわたり映画化されているのも、あくまで男からみた女、女からみた男に絞っているからではないだろうか――というのが、僕の敬愛する大和路先生の評だった。


「小生的には立場交換も好みだったりしますよ」

「立場交換?」

「神社の階段から落ちて心が入れ替わるわけではなくて……そうですね。この前に五郎さんが描いてくれたイラストがあるので、これを見ていただければ良いかと」


 伏原くんはファイルから三枚のイラストを出してくる。

 そこにはいたってどこにでもいそうな冴えない会社員とOLさんが描かれていた。しかし二枚目になるとお互いに少しずつ変化していて、三枚目では完全に服装から性別まで入れ替わってしまっている。

 ただしお互いに変身前の特徴も残してあったりした。けれども名札の名前は完全に入れ替わってしまっており、本当に立場が入れ替わったのだとわかる。


 なるほど……変身モノと入れ替わりモノの要素を混ぜたものなのか。世の中は広いなあ。帰ったらネットで検索しないと。


「えへへ。もしセンパイと鳥谷部さんの立場が入れ替わったら、どうします?」

「え、少なからず『図書部』は平和になると思うけど……?」


 僕は伏原くんの謎の発想に戸惑わされる。

 鳥谷部さんの密告がなくなれば多くの図書部員が平和に過ごせるようになるだろう。……いや、この場合は「僕になった鳥谷部さん」がチェカになってしまうのか。

 彼女は容姿がまともだから男子から許されているけど、僕みたいになったら絶対にボコボコにされるだろうなあ。


「そっちじゃなくて……もっと他にないんですか?」

「あんまりリアルには持ちこまない主義だからね。そもそも伏原くんだって、自分を萌え要素にしてどうするって言ってたじゃないか」

「あれは五郎さんだからであって……センパイは、萌えキャラじゃないですか」

「え?」


 え? え?


「……すみません。今のは忘れてください」


 伏原くんは紅くなっていた。

 ダラダラと汗をかきながらその小さな顔を両手で隠している。犬みたいなショートヘアは蒸し上がってしまっていた。

 とりあえず……この子から気に入られているという理解でいいのかな。

 あまり深く考えるとドツボにハマリそうだったので、僕はそういうことにしておいた。

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