2-1 かしましくない


     × × ×     


 休日なのに、どうして学校に行かないといけないんだろう。

 鳥谷部さんとの約束で、彼女の友人・平尾さんの当番を肩代わりすることになった僕は、地下鉄に揺られながら『傾城太平記』2巻で心を癒していた。


 彼女たちはUSJに行くらしい。ウチの班は6人の中から2人が当番になるシステムなので、なかなか休みが合わないのだとか。わざわざお年玉を切り崩してファストパスまで手に入れたそうなので、さぞかし楽しい休日を過ごしているのだろう。


「はあ。安請け合いするんじゃなかったなぁ」


 おかげで伏原くんにマンガを返さないといけない。

 別にマンガを自分のものにしたいわけではなくて、ああして逃げた手前、彼と会うのが少し気まずいのだ。

 今日は休日だから不在だといいけど……そしたらボックスに入れるだけで済む。


「お悩みみたいですね、センパイ!」


 甘ったるい声。いつのまにか中学生ちゃんが右隣に座っていた。

 年のわりにとてもスタイルの良い女の子だけど、相変わらず目元は隠されていて、その顔をきちんと窺い知ることはできない。

 個人的には明るい性格と声だけでも十分に魅力的に見える。


「珍しいね、こんなところで」

「いつもは別のルートで来てますからね! たまには千日前線に乗りたくて」


 センパイに会いたかったわけじゃないですよ、とハンドサインを出す中学生ちゃん。

 それはわかっている。むしろ君にはもっと訊きたいことがある。


「そういえば休日なのに制服だけど、中学生ちゃんは部活とかやってるのかな?」


 というより、本当は名前を訊きたいのだけど、いきなりだと失礼な気がしたのでジャブとして繰り出してみた。

 しかし、中学生ちゃんは「それで、どうしてそんなに気だるそうなんですか?」とこちらの舌先を叩き落としてくれる。くそう。なかなかやるじゃないか。


「まあ、部活の中で色々とあってね」

「人間関係ですか?」

「いかにもだよ。話したことの少ない後輩に仲良くなるよう迫られちゃってさ」

「へえ……ところでその本は?」


 彼女はこっちの話に興味を失ったのか『傾城太平記』を指差した。


「ああ、ただの少年マンガだよ」


 本当は少年少女マンガだけど……彼女にそれと知られたくないのでごまかしておく。外で読んでも大丈夫なようにブックカバーを付けてあるからバレたりはしないはずだ。


「ふぅん。でも、その絵柄は中村ワダ子ですよね。それで歴史モノとなると……」


 彼女はスマホを用いてタイトルの検索を始めた。僕は地下鉄に電波を通した奴をぶっ倒したくなってくる。存在すらあやふやな千日前線に電波なんかいらないだろ!


「……なるほど。ちょっとエッチなマンガですか」


 なぜか含み笑いを浮かべてみせる、中学生ちゃん。

 わかってますよ、センパイも男の子ですもんね!

 そんな台詞が飛んできそうで、ちょっとイラッとくる。

 別に男の子であることを否定したいわけではなく、大好きな名作をエッチなマンガとひとくくりにされるのと、なんか他人に「わかってる」と思われるのがムカムカするのだ。


「そうでもないんだよ、むしろ中世史の勉強になるくらいでさ」

「ホントですかぁ? どうせ女の子がやたらと出てくるような作品なのでは?」

「そんなに出てこないよ。ほとんどはちゃんとした武士だから」

「またまた。ウィキによると内容は……せ、女性化モノ!?」


 彼女の声が珍しく裏返った。

 たしかに女性化は追いかけるジャンルとしてはニッチだけど、メジャー・サブカルを問わずストーリーの題材としては頻繁に使われているし、そんなにビックリするほどのことだろうか。


 中学生ちゃんはガクガクと身を震わせながら、


「あの、もしかして、センパイって『男の娘』が好きなんですか?」

「別にそんなことはないけど……」

「……いったん、失礼します! また会いましょうね!」


 やたらと慌てた様子で、彼女は隣の車両まで走っていく。

 まさか、またドン引きされてしまったのかな。

 ちょっと前には鳥谷部さんに盗みぐせがあると勘違いされてドン引きされちゃったし、今月は運勢が良くないのかもしれない。

 でも、このマンガに出会えたのは幸運だったな……傷心の僕は再び『傾城太平記』の世界にどっぷり浸かることにした。



     × × ×     



 どうすればわかってもらえますかね。

 仕事が終わってから、忘れ物カウンターまで『傾城太平記』を返しに来た僕に、伏原くんはそんな言葉をぶつけてきた。

 とても悩んでいるみたいなので、右から左に流すことはできそうにない。


「ええと。伏原くんはなにをわかってもらいたいのかな?」

「女装モノと変身モノは似て非なるジャンルだってことですよ。知り合いにまるでわかってくれない人がいるんで。センパイはどう思いますか?」

「さあ……僕にはどっちもよくわからないから」

「本当ですかぁ?」


 嘘だ。その辺はきちんと弁えている。だけど伏原くんの同志にはなれないのであえて知らないフリをしておいた。

 そもそも、こんな目立つところで話せる内容ではない。


 女装モノと変身モノ。

 かつて『男の娘』というジャンルが注目を浴びたことがあったけど、これは女装モノにあたる。つまり下半身にはイチモツが付いている。往々にしておっぱいもぺったんこなのだけど、それらを除けば女の子にしか見えない。だから男の娘。


 一方の変身モノは『さんま1/3』のように本当に女性になってしまうパターンだ。

 僕としては無理やり女性のふりをさせられるシチュエーションに萌えを見出しているので、エロ目的ではない一般作品であれば、どちらもイケたりする。さすがに男の身体でエロはノーサンキューだ。


「小生は、女装モノが苦手なんです」


 伏原くんはカバンから一冊のマンガを取り出した。

 タイトルは『ハリアー☆ボーリック』。

 日本にやってきた元メジャーリーガー・ボーリックが、なぜか女子校の教師となり、百合百合しいヒロインと彼女を虐げている女装男子のケンカをフルスイングで仲裁していくという内容だ。

 わりと新しい作品なので僕も知っていた。もちろん家には全巻そろえている。


「センパイの目が心なしか輝いていますね。でも小生にはダメでした」

「よくわからないけど、どうしてだい?」

「たぶん、とても酷い目に遭わされたから、でしょうね」


 伏原くんは忘れ物カウンターの上で頬杖をつく。

 TSモノで酷い目に遭うといえば「女装させられる」「変な薬を飲まされる」の二択になるけど、まさか伏原くんにそんな過去があるんだろうか。

 妄想だと一蹴することはできない。

 なぜならこの世には「弟を女装させる兄」「性別を変える薬」といった存在が実在するかもしれないのだから。


「一応、教えてほしいんだけど、いったいどんな目に遭ったの?」

「ええと……小生にはお兄ちゃんがいるんですけど……」


 お兄ちゃん! まさか本当に兄がいるとは。どことなく弟気質なところが見え隠れするからわかったのかな。


「これを見てもらえますか」


 そうして伏原くんから渡されたのはスマホだった。

 そこに写し出されていたのは、大学生くらいの男性のコスプレ。服装からして『鉱これ』のポトシちゃんをマネているつもりなのだろう。全体的にとても男らしい人だ。

 目を向けているだけで吐きそうになってくる。


「おえっ」

「わかってもらえますか、このクオリティの低さ! 女装なのにムダ毛の処理すらせず、化粧すらせず、ただコスチュームを着ているだけなんですよ! うわあああ!」


 伏原くんは悔しそうにカウンターを叩く。

 たしかにこんなものを見せられたら夢も希望も消えてしまいそうである。


「お兄ちゃんはダメなコスプレイヤーなので日頃から色んな格好をしているんです。そんなのをずっと見てきたせいで、小生はもう女装モノがダメになってしまいました……うえっ」

「それは可哀想に……」


 大好きなジャンルの一部を楽しめなくなった伏原くんに、僕は心から同情する。

 女装モノはあくまで二次元だと割り切ることができるからこそ良いモノなのに、女装自体にアレルギーが出てしまってはどうにもならない。

 例えるなら三毛猫好きなのに猫アレルギーを持っているような感じだ。


「ううっ。お兄ちゃんさえいなければ、こんなことには……」

「よしよし」


 カウンターの上でガックリとうなだれる伏原くんを、僕はほんの出来心でワシワシと撫でてしまう。犬のように柔らかい髪質で、手触りはなかなかのものだった。

 そういえば、この子は人懐っこい後輩として一部の女子から人気なんだっけ……だからこそ鳥谷部さんもこの子のことを知っていたんだろう。明佳と下の名で呼んだのもうなづける。


「……そうだ。この本はセンパイに差し上げますよ」

「ハリアー☆ボーリックを?」

「もう小生には楽しめない品なので。純粋にマンガとして面白いのでオススメですよ」


 いつのまにやら伏原くんの目がギラついている。

 女装マンガを受け取るか。受け取らないか。僕は彼に試されているのかもしれない。

 しかしながら、そもそも、


「ぶっちゃけ全巻持っているんだよね」

「やっぱり心の同志じゃないですか!」


 むくりと起き上がって、伏原くんはこちらに握手を求めてくる。

 その瞳は期待に燃えていて、わずかに上気した頬は「類友」を求めるそれだった。口元のよだれはずっとカウンターに伏せていたからかな?


「ほらほら。小生と仲間になりましょう!」


 ぐいぐいと近づいてくる小さな右手。この手を取ってしまえば、僕は怪しい団体の仲間入りを果たすことになる。となると今は逃げるべきだ。


「……いったん、失礼するよ。また会おうね!」

「ああ、待ってくださいよ。ほらほら。こんなにTSFマンガがありますよ!」


 例によって、彼はカバンからマンガを取り出してくる。

 あいにくだが、その手にはもう乗らないぞ……クソッ。なぜか足が止まってしまった。このあたりにはトリモチでも仕掛けられているのか。まるで歩けない。


「えへへ。これなんてどうですか。アニメにもなった『ワイ、ポニーテールになる。』のコミカライズ。もちろん原作の小説も全てありますよ」

「ワイポニ……それは幼女化だから少しだけ外れるかな」

「センパイ、だんだんメッキがハゲてきましたねえ。でもご安心ください。途中の巻では高校生くらいの女の子になりますから!」


 近くに誰もいないのをいいことに大きな声で宣伝してくる、伏原くん。

 うーん。たしかに好きなジャンルではあるけど、こんな風に楽しそうに説明されると興が削がれてしまうのは何故だろうか。やっぱり世間には隠しておくべきジャンルだと自覚しているからかな(あとワイポニは新しい作品だから全巻持っているんだよね)。


 となれば、リアルの場で語り合おうとする伏原くんとは当然ながら相容れない。

 ここはひとつ。きちんとお断りするべきだ。


「――ところで、センパイは女の子になりたいですか?」

「へ? 女の子に?」


 伏原くん。君の気持ちはよくわかったよ。でも僕は同志にはなれないんだ。

 そう告げようとしたタイミングで舌先を叩き落されてしまった。どうにも会話の主導権を握れない日だ。


「はい。もしかしたら、それがセンパイの中でひっかかっているのかな、と」


 いかにもマジメそうな感じの伏原くん。

 とりあえず僕は答えてみる。


「女の子には……一度くらいなってみたい気持ちもあるけど、ずっとそのままはイヤだな」

「小生も同じです。一時的な変化なら楽しみますがそのままはイヤ。そういう人って多いはずなんです」

「何が言いたいの?」

「つまり小生とセンパイは、どちらも心から『男性』なんですよ」


 伏原くんは「心にチンコを生やしている。それを踏まえた上で同志になりましょう」と、また右手を伸ばしてくる。

 とても口にしたくない例えだったけど、言いたいことはなんとなくわかった。


 TSというジャンルにはどうしようもなく内的矛盾を抱えた部分がある。主人公は女性に変化するのに、読んでいる読者は男性のままなのだ。


 感情移入の対象が「元男性の女性」になり「男性」からモテる。あるいは女性同士で百合する。

 だけど、その過程に萌えているのは自分という一般的な男性なのである。

 加えてここでの読者の中にはさまざまなタイプが存在するからややこしい。


『ただ単にエロいから好き』

『TSという作業の中で女性らしさが析出される。それを楽しみたいだけ』

『いわゆる性同一性障害ほどではないが、女性になってみたい』

『可愛い女の子に生まれたかった』

『とにかく女性になりたい』


 これだけではない。きっと好事家の数だけのスタンスがあるはずだ。

 性別は生まれて初めて受け取ることができるアイデンティティの一つだから、己のそれを揺さぶるジャンルには心のどこかで防衛線を敷いているに違いない――僕の尊敬する大和路先生の言葉である。


 だからこそ、伏原くんはあえてお互いのスタンスを明らかにしたのだろう。

 お互いに無用な偏見を抱かないために一つの物差しを用意してくれたのだ。こんなにも性別が変わる物語が好きなのに、残念ながら自他に対して「男らしくない」という感情を抱く性質は未だに健在だったりするから。


 これほど気を遣ってくれているのに報いてあげないのは先輩として申し訳ない。

 僕は息を呑んで、伏原くんの手を取った。


「センパイ!」

「別にTSだけが好きではないけど、好きなジャンルの一つではあるから……ところで、もし、僕が本当に女の子になりたい人だったら、伏原くんはなんて答えたの?」

「何も変わりませんよ。小生の同志の中にはそういう人もいますからね」

「えっ? ……他にも同志っていたの?」


 僕は思わず、彼の小さな右手を放り出してしまう。

 すると伏原くんは「当然じゃないですか」とイタズラっぽく笑った。

 どうやらあえて情報を伏せることで、自身を「ひとりぼっちで寂しい少年」だと思い込ませようとしていたようだ。

 カバンの中に『傾城太平記』を入れてきた時といい、


「油断ならないなあ」

「えへへ。そうだ。せっかくですから、奥で五郎さんとお話していきませんか!」

「五郎さんって、もう一人の?」

「はい。センパイと、五郎さんと。3人でTSFを語り合う。なんだか、夢のようです」


 伏原くんは忘れ物カウンターから奥のドアへと案内してくれる。

 木製のドアには『第2保管室』の名札が掛けられていた。

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