ヨハンナの包丁

モル酸

第1話 とんだ出来レース

10万対3億。

何の数字かというと、我が国の総戦力と敵の先遣り部隊の数である。圧倒的不利。あまりに兵力に違いが有りすぎた。焦ったらしい我が国の王は国民に総力戦を命じ、全ての男手と若者衆を根こそぎ徴兵した。それでも、10万対3億である。これではどうしようもない。

避難壕の中で膝を抱えるうら若い娘のヨハンナは、本日何度めとも知れぬため息を吐いた。

「必ず戻る。それまでこれを預かっておいてくれ。昔陛下から賜った大切な仕事道具だ。」

キンと背筋の震えるような、滑らかな鋼の光沢を今もまだ覚えている。宮廷料理人の位につき、戦からほど遠い場所にいた父も、つい先日包丁を手放し軍属となった。

「ぅう…っ」

何日も暗く湿った土壁に閉じ込められる生活を続けているうちに、すっかり吐き気を催すようになってしまった。片手できつく口許を押さえたヨハンナは、音を立てぬようこっそりと、壕の外へ出る。冷涼な空気が頬を撫で、青空と日光が容赦なく全身を包む。少し歩きながら深呼吸するうちに、先ほどまでの絡み付くような不快感はさっぱりと消えていた。

「…そろそろ、戻ろう。」

やや暫くして踵を返したヨハンナの目に映る帝国軍の集団。硬直する彼女の視線の先で、今まで寝起きしていた避難壕が吹き飛ばされた。赤黒い炎が上がり、打ち上げられた土砂が辺りに降り注ぐ。新手の爆薬は性能が違うと、中年の軍人が笑い声を上げていた。

集団の一人と目が合った気がして、ヨハンナは狂ったように駆け出した。もう、あそこへは戻れない。

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