雪降る街の住人 4

「明日、アトリエに行くわね」

 帰宅をしダイニングに『ただいま』と姿を現した充に、夕食の支度をしていた多恵子は、すぐさま報告をした。

 やはり一瞬、彼は緊張したように顔を強ばらせた。分かってはいるけど、自分が見えないところで妻が裸になる日が来た。知らない時よりきっと知ってしまった今の方が心配に決まっている。だが、多恵子は話を続けた。

「でもおかしいの。先生からの連絡じゃなくて、画廊のご主人からの連絡なの」

 明日はモデルどころじゃないかもしれない雰囲気だったと、多恵子は素直に告げた。そして藤岡氏の連絡内容もそのまま告げた。

「なんだよ。先生、この二週間でなにかあったのか」

 ある意味『天敵』でもあるだろう男を、ちょっとばかり案じてくれる顔になった充。

「それが分からないの。とにかく来て見て欲しいと言われて」

「なにを、見て欲しいと」

「先生の様子をですって」

 充は『ふうん』と首を傾げ、コートも脱がないままダイニングの椅子に座った。リビングには夕方のニュースが流れている。暫し、充はそれを眺めていた。

「創作することは、画家にとって真剣勝負。壮絶なのかもな。なんか男として分からないでもないんだよな。孤独というか――」

 孤独? 夫の口からそんな言葉を初めて聞いたので、多恵子はちょっとそこに気を奪われしまう。男の仕事と孤独とは……と。確かに、充の職場に対する愚痴なんて滅多に聞かないわと思ったりもした。

「手がつけられないというのも、先生、だいぶ根を詰めているんじゃないか。その同期生の店主も手に余るほど」

 そして充は物憂げな遠い目をし、北海道のローカルニュースを見つめていた。

「それだけ、お前のことを真剣に描いてくれているのかもな。画家の精力、いや男の精力かもしれない。それを注ぎ込んで……」

 切なそうで、どこか悔しそうな。そんな複雑そうな眼差しを見せる充に、多恵子はどうして良いか分からなくなった。きっと、それは芸術なのに。でも自分だけではない男が今、妻という女性に掛かりきりになっているのではないか。夫妻でこの半月、新しい感覚でまた愛し始めることが出来たのに。なのに一方では、見知らぬ男が孤独でも妻という女と半月も向き合って離れられなくなっているのではないか。そんな男の複雑そうな顔。

「まさか――」

 多恵子はふいに笑ったのだが、『そうじゃないだろう』と、突然、充に睨まれていてびっくりさせられた。

「その程度なのか。お前が先生に描かせている『裸婦』は」

 益々、驚かされた。勿論、多恵子も『もしかして先生は、私のことを』と考えた。でも、自分以上に夫である充がまるで先生と通じ合っているようで、不思議な感覚にさせられた。

「まあ、それぐらいじゃないと。妻の裸体を貸した俺としても、納得できないけれどな」

 『ふん』とした鼻息を妻に向け、椅子から立ち上がった充。もうそれきり何も言わず、着替える為に寝室へと去っていった。

「ふん。て、なによ」

 夫の気持ちを分かっていながら、ちょっと意地悪な態度に多恵子もふてくされてみた。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 翌日。多恵子は画廊に出かける為の身支度をしていた。

 ところがこの日は、今年初の真冬日。そして大粒の雪が横殴りに降っているという大荒れの天気だった。

 それでも多恵子は洗面台で化粧を済ませ、最後に髪を結っていた。


 いつもは簡単にひとつに束ねることが多いのだが、徐々に寒くなってきた為に、どうしても『うなじ』を隠そうとしてしまう。

 特に今日は、大雪。この季節の雪だから積もってもたいしたことはないと思いつつも、外へ出るとなるとかなり気構える。

 多恵子は左右の横髪だけをつむじ近くまで結い上げ、ハーフアップにする。最後に、白いフェイクファーのシュシュを冬らしくアレンジしてみた。


 雪のようにふわふわしたファーのシュシュ。

 これは、あの充が最近、多恵子にと買ってきてくれたものだった。

 それにも驚いた。いつものように帰宅すると、これまたコートのポケットから無造作にそれが入っている包みをテーブルに置いたのだ。

 ――『営業で、大通りのデパートに寄った時、目についたから』

 街のデパートは、そろそろクリスマスを意識したディスプレイで冬本番の商戦を迎えているのだろう。リボンはないとはいえ、シュシュが包まれていたショップのロゴが洒落ている紙袋は、クリスマスのようなデザインだった。

 そんなさりげないプレゼントも嬉しかったが、仕事中にふと妻に似合うだろうかと、彼が照れくさそうに買ってくれた姿を思うだけでも、多恵子を幸せな気持ちにさせてくれた。

 しかも、中身を出してみると、多恵子好みの真っ白でフェミニンな髪飾り。一目で気に入った。

 ――『ミチ、ありがとう』。

 感激している妻の顔を見た彼は、また照れくさそうに俯いて、そこからいなくなってしまった。

 渡し方もぶっきらぼう。照れ屋で決してスマートではない。でも、今のミチの中には多恵子が常にいる。たとえ、今、あることをきっかけに燃えているに過ぎなくても、それでも多恵子は嬉しかった。


 だから久しぶりの外出に、夫の贈り物を身につけて、多恵子は出かける。

 ここ数年、この時期に着ているダウンコートを羽織って。いつもの格好で。もう、あの日、先生を揺り動かした『偶然の婦人』へと遂げたような、『女を意識したお洒落』に包まれた多恵子ではなかった。

 いつものいつもの多恵子。アトリエに通っていた『ありきたりな主婦』のいつもの姿に戻って、今から先生に会いに行く。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 画廊近くにある地下鉄駅に辿り着き、多恵子は地上の舗道へと急いだ。

 すぐそこにアトリエがあると思うと、自然と足が急く。

 でも、こちらの街もかなりの風と横殴りの雪。ダウンコートのフードを被り、向かい風に顔を背けながら多恵子は歩き始める。


 こんな横殴りで飛ばされる雪なのに。藤岡画廊の前に着くと、店先にはもう足跡がはっきり残るぐらいの雪が積もっていた。

「こんにちは」

 ドアを開けると、やっと暖かな空気にふわりと包まれる。

「待っていたよ。こんな酷い天気の日に、悪かったね」

 ドアを閉めるなり、そんな男性の声。多恵子はやっと顔を正面に向け、頭をすっぽりと覆っているファー付きのフードを取り払う。

「さあ、はやく。こっちで暖まって。とりあえず、熱い飲み物でも――」

 店先の玄関マットの上で、多恵子は身体にまとわりついた小雪を払った。

「いいえ。大丈夫です」

 多恵子は藤岡氏に微笑んだ。それでも彼のちょっと申し訳なさそうな顔。

 初めて会った時からそうだったが、あの年代でも精悍そうな男性で、オーソドックスでも品の良いスーツをいつも着こなしている。

 幾度か話したことがあるが、画伯よりも話術も巧みで、いつも豪快なユーモラスで周りを笑わせるような人だった。画伯がフェミニンで繊細なら、こちらはダンディで豪快と言うべきか。

 そんな藤岡氏なのに、今日は多恵子を見ては不安そうな顔ばかりする。だから多恵子も気が急く。藤岡氏が接客用のコーヒーサーバーの前に立ち、ティーカップを手にしたのを見た多恵子は言ってみる。

「あの、先生は」

「まあ、一杯どうですか。三浦が選んだ紅茶葉より、ずっと自信がありますよ」

「直ぐに行っても構いません。先生は今、アトリエにいらっしゃるのですよね」

 二人の息はまったく合っていなかった。ひとまず呼吸を入れておきたい藤岡氏。直ぐにでもアトリエに飛んでいきたい多恵子。だが、向こうが折れてくれる。藤岡氏が持ったばかりのティーカップをトレイに置いてしまった。

 彼の目線が、店のウィンドーの向こう。車道の上を車と同じように横殴りで過ぎ去っていく雪を見ている。

「彼は暖房をつけるのも、今は億劫だと思うんですよ。こんな天候であれをやられては、こっちも気が気じゃない。なのに、私が行くと酷く嫌がりましてね――」

 藤岡氏の溜め息。しかし、いきなり語られたその話が何を言っているのか分からず、多恵子は首を傾げてしまったのだが。

「そうですね。早く行った方がいいかもしれない。様々な『事情』などはまた追々ということで」

 ――では、行きましょうか。と、藤岡氏は応接テーブルのソファーに置いていた黒いコートを手に取った。多恵子も頷き、そのまま踵を返すように来たばかりの画廊を店主と出た。


 藤岡画廊は角地にあり、その角を曲がるといつものアトリエへと向かう道になる。

 画廊角地の向かいは、この前のギャラリーカフェ。雪で白い点描をされたようなケヤキの店を多恵子は一目見て、アトリエがあるマンションを目指した。

 マンションもすぐの斜め向かい。久しぶりのエントランスを、藤岡氏の背を追いながら多恵子も入る。


「まあ、驚かないでくださいね」

 ようやっとアトリエの玄関まで辿り着き、鍵を差し込んだ藤岡氏がそう言った。

 『驚かないで欲しい』とは、いったい、どのような状態になっているのか――。

 鍵がかちりと開く音が聞こえたのと同時に、多恵子の頭の中には昨日の充の顔が浮かんだ。

 ――『精力を注ぎ込んで』。

 玄関のドアが開くと、ふうっと妙な匂いが多恵子の鼻を掠めた。外へ出ることを待っていたかのような空気が、一気に多恵子と藤岡氏に襲ってきたというのだろうか。その匂い、『油彩』の強烈な匂い。それだけではない、なにか、通っていた時とはまったく異なる奇妙な匂いで、様々な成分が入り交じっている凄まじさを多恵子は感じ取り、青ざめた。

 まさにその匂いが、充のあの言葉を裏付けているような予感をさせた。


 昼間とは言え、玄関は暗かった。

「静かに」

 藤岡氏の声が小さくなる。革靴を脱ぐ時も、彼はとても神経を尖らせていた。

 それを見ただけで多恵子も背筋が伸びる。その緊張感を持って、同じようにそっとブーツを脱ぎ、いつも使わせてもらったスリッパを履こうとして……。でも先を行った藤岡氏がそれをせず、裸足でゆっくりと廊下を歩いているのを見て、多恵子も履くのをやめてしまう。

 そっとそっと藤岡氏に習うようにして、多恵子も息を潜め、リビングに向かった。


 リビングのドアが開くと、そこも薄暗かった。

 さらなる油の匂い。さらなる奇妙で強烈な匂い。

 薄暗いそのリビングに目が慣れてきた多恵子が見た物は、やはり凄まじいものだった。

「こ、これは」

 もうちょっとで大きな声を出しそうになったが、なんとか抑え、藤岡氏に多恵子は呟いた。藤岡氏もこくりと頷く。そして彼の目線は、閉じられているアトリエ部屋のドアへ。だが多恵子の目線はそこに行くことはなかった。何故なら、いつも穏やかに整えられていた三浦画伯のアトリエが、あんまりにも散らかり荒れていたから。

 いつも先生と向かい合って労いのお茶をして語り合っていたテーブルには食べかけの物が散らかり、飲みっぱなしのコップがいくつも転がっていた。ソファーには毛布数枚がぐちゃぐちゃに丸まっている。そして脱ぎっぱなしのセーターに、シャツに、男性の下着がいくつも。毛布の中、上、そして床にも落ちている。如何にも湿っているふうのバスタオルも数枚、そのまま放られていた。

 リビングの隅々を見渡しても、綿埃があちこちに転がっているし、キッチンのシンクにも、コンビニで何か買って食べたのか、そんなプラスチックの容器が散乱していた。

 あの先生は、男一人『やもめ暮らし』だけあって、ちょっとだけ男っぽくがさつなところはあるが、基本的には整理整頓をして、最低限の清潔感を保てる生活が出来ている人だった。なのに……。

 油以外の奇妙な匂いの正体は、男の不摂生なこの暮らしぶりから来ていたようだった。

 多恵子は青ざめ、そして、胸をドキドキとさせ始めている。

 ――『画家と、男の精力を、注ぎ込んで』。

 同じ男である充のあの言葉が、多恵子の中を何度も何度も円を描いて回っている。

 夫が言う『男の孤独な仕事』。それがこれなのかと、多恵子は驚愕する。 


「謙、開けるぞ」

 藤岡氏がアトリエ部屋のドアをノックする。その音で多恵子もハッと我に返り、やっとドアを見る。

 だが、返事がない。

「謙――」

 さらなる藤岡氏のノック。だがなんの反応もない。先生、倒れているのではないか――。そんなことを考えてしまったが、でも藤岡氏は落ち着いていた。それでもついに、業を煮やした顔で藤岡氏がドアノブを握り、そっと開けてしまう。

 ゆっくりと開いていくドア。その隙間から、思ったよりも明るい光がリビングに差し込んできた。多恵子も静かにそっと身を乗り出すような気持ちで、その隙間を覗く――。その途端だった。

「何度言ったら、解るんだ。彼女が逃げていくだろ。ドアを開けるな!」

 そんな怒声が聞こえたかと思うと、ドアにバシリと何かが投げつけられた。さらにもう一つそれは飛んできて、ドアの隙間から飛び出してきた。藤岡氏がもう慣れているような手つきで、ドアを少しだけ閉め、それを避けた。

 ソファーの足下までそれは飛んできていた。緑色に染まっている絵筆――。そして藤岡氏の足下にはペインティングナイフ。

「謙、冷えているぞ。暖房ぐらい、つけろ」

 そう言えばと、多恵子はコートを着たままの腕をさすった。まだコートを脱いでいないが、このアトリエの空気は冷えていた。暖房が、ついていない。

「謙、今日は冷えるぞ。もう分かっているだろ。瀬戸内とは違うんだぞ」

 藤岡氏がドアになんとか抑えた声で、画伯に語りかける。だが、返ってきた反応は『うるさい』と『放っておいてくれ』と、また何かが投げつけられた音。

 茫然と立ちつくしている多恵子に、やっと藤岡氏が振り返る。そして『このとおり、お手上げなんだ』とばかりの仕草で、疲れた顔を多恵子に見せた。

「ずっと、この部屋で貴女と二人きりなんですよ」

 困った顔で多恵子にそう告げる藤岡氏。多恵子は絶句し、また閉じられてしまったアトリエのドアを見た。

「行ってあげてください。貴女ならあるいは――。せめて、暖房を。たまに自分でつけてはいるようなんですが、暑くなると切っていることもあって、目が離せなくて。だからアトリエ部屋の暖房だけでも常につけておきたいんですよ」

 リビングは黙ってもスイッチを入れておけるが、アトリエ部屋だけは誰一人、一歩も入れさせてくれないのだと、いつも陽気な藤岡氏の顔が泣きそうに歪んだ。

「先生」

 多恵子はやっとそのドアに向かう。


 

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