雪降る街の住人 5

 ついに多恵子の手がドアを開けた。

 リビングはカーテンが閉められていて薄暗いのに、アトリエはいつもどおりに明るかった。天候が悪いこの日でも、そこだけはきちんと光彩を取り入れて創作に励んでいるのが判った。

「何度言ったら。一人にしておいてくれと言っているだろ」

 やっと開けたところ、先生の背が見えたかと思うと、その肩越しから絵筆が飛んできた。それが多恵子に向かってくる。避けねば、そのまま顔に当たりそうだったが、身動きが出来なった多恵子の横をかろうじてかすっていっただけで済む。

 もう一刻の猶予もないような気持ちにさせられ、多恵子は口を開いた。

「先生。多恵子です」

 いつものシンプルなセーターとジーンズの後ろ姿。その背に声をかけると、新しい筆を取ろうとカウンターに伸ばした先生の指先がそこで止まった。

 彼がゆっくりと振り返る。

「多恵子、さん」

 久しぶりの画伯の顔を目にして、多恵子は驚かされる。勿論、あの部屋の散らかり方を見ても、そんな予感はあった。だが実際に目にした姿は愕然とする物でしかなかった。

 いつもきちんと櫛を通して整えられていた白髪交じりの黒髪は乱れ、同じように白髪交じりの無精髭、そしてやつれた頬。なのに目だけが飛び出しているように、そこだけ生き生きと気力が漲っているのが分かった。それだけその大きな黒目が光っていたのだ。

 アトリエは光を湛えているが、空気は淀んでいた。リンシードとテレピン、絵の具の匂いで充満していた。それだけじゃない。多恵子がさらに驚愕したのは、三浦先生の足下に散らばっている数枚のカンバスだった。それもあの多恵子が淫らにとったポーズの絵ばかり、描きかけで、ナイフで容赦なく切り裂かれた物もあれば、まったく溶け込まない違和感ある色でぐちゃぐちゃに塗りつぶされているものが散乱していたのだ。なのに――。その向こうにあるイーゼルには、悠然と光にあたって安らいでいるような『ガウンの母』であった着衣の裸婦像があった。しかしその絵に関しては、どこにもやり直しをした捨てられたカンバスはなかった。本当に猫みたいな自分の絵だけが。

「謙、だいたい出来上がっているなら、あとは少しずつにしろ。先ずは休養を取れ。また多恵子さんにモデルをしてもらえばいいだろう」

 いつの間にか、多恵子の横に藤岡氏が並んでいた。ようやっとドアが開けられても、なにも障害となる物が飛んでこなくなったからだろう。三浦先生の一人きりの世界にやっと割り込めるようになったと、ここぞとばかりに多恵子との間に割って入ってきた。

 そして画伯も。そこに多恵子が、実在の多恵子が姿を現したことでやっと我に返っているよう。……いや藤岡氏が言うところの『二人きりの世界』から、無理矢理引き戻されたような、ふてくされた顔をしていた。

「藤岡、君が呼んだのか」

「そうだよ。君も分かっているだろ。絵に完成はないんだ。幾らだって加筆修正が出来るんだ。本人が納得できるまで完成なんてない。見る限り、ある程度の形にはなっているようだがね」

 藤岡氏はそう言って、多恵子の足下に落ちていた筆を、身を屈めて拾った。

 多恵子ではなく、藤岡氏がそのままアトリエ部屋に踏入り、三浦画伯のもとへ向かった。

 そのまま藤岡氏は、三浦画伯が愛用しているカウンターにそっと筆を戻した。彼はもう、先生にはなにも言わない。

「どんなにモデルを繰り返しさせても。あの日の彼女はあの時、一瞬だけ。それを逃したくなかったんだ」

「分かっているよ」

「次の日に同じポーズを取らせても、絶対にあのままの雰囲気は出てこなかったと思う。あの日の彼女はやっと奥から出てきた一瞬の――」

「それも、分かっている」

 画伯の独り言のような呟きに、藤岡氏はただただ頷くだけ。多恵子はここにいるのに、でも、先生の目は多恵子を一瞬見ただけで、まだカンバスの裸婦を見つめている。

 声がかけられなかった――。

 でも、ようやっと、三浦先生が立ち上がる。

「シャワー、浴びてくる。いや、礼を言うよ。きりがなくて取り留めなくて。それからあたったことも謝る。悪かった」

「そんなもんだと知っているから、気にするなよ。さっぱりしてとにかく腹ごしらえしろ。ここ十日、まともに食べていないだろ」

「ああ……。そうだった。なに食べたかも覚えていない」

 男同士、とても意思疎通ができている姿を多恵子はただ見ているだけしかできなかった。

 やがて、先生がやっとふらりと額を抱えながら歩き始める。

「寒い」

「だから言っているだろう。暖房はつけておけと」

 現世に帰ってきたかのような先生の一言に、藤岡氏は怒りながらも部屋の隅にあるガスストーブまで突き進み、やっとほっとしたような顔でスイッチを入れていた。

 そんな三浦先生が、多恵子が突っ立っているドアまでやってくる。

 やっと彼が、多恵子を見た。でも直ぐに目を逸らされてしまい、多恵子はなんだか意味もなく哀しい気持ちにさせられる。

「悪かったね。筆、あたらなかったか」

「い、いいえ」

 目を合わせてくれないが、多恵子の肩に絵の具で汚れている大きな手が置かれた。

「一番、見られたくなかった。貴女には。でももう遅いね。散らかっているけど、待っていてくれ」

 もう一度、肩に置いた手をぽんと軽く叩くと、先生はそのままリビングを出て玄関近くにあるバスルームへと行ってしまった。


 待っていてくれと言われただけほっとした。

 それでも尚、帰ってくれと言われたら、また待ちぼうけの毎日――。

 多恵子はそっとアトリエへと視線を戻す。イーゼルに掲げられている妖艶な女が乗り移っているカンバス。

 それは紛れもなく多恵子自身なのに。訳もなく妙な嫉妬を感じていた。


 そして藤岡氏もその妖艶な裸婦画の前にやってきて唸っていた。

 その絵は画商の目には、どのように映るのだろうか。今度は自分自身が試されているような緊張感に多恵子は包まれる。

「これ、本当に多恵子さん? いや、多恵子さんだよなー。特に目元なんか表情なんか」

 ふむふむ言いながら、藤岡氏の顔は今にもカンバスにくっつきそうなほど、三浦画伯がやっと離れた裸婦を眺めている。さらには藤岡氏。あの強調させた多恵子の胸元にまで鼻をくっつけそうな勢いで、じいっと眺めているのだから――。なんだか自分の裸を凝視されているようで、多恵子はちょっと頬を熱くしていた。

「罪のない顔をして、奥さんやるねってかんじの絵だね」

 そ、そんな。そんなつもりなんかなかった――と、多恵子は言いたくて、それでも恥ずかしいあまりに言えずにいた。だが確かに、そういう決まった男性にしかみせない姿であったことは言うまでもなく……。その生身の多恵子を知っているのは、夫の充と、そして先生だけ。後はそのカンバスに乗り移った自分が、やがて間接的に人々の目に触れていくだけ。先生が、妻という姿に固められた女の奥の奥にある『女』を描ききってくれていた。多恵子のあの時の気持ち、そのままに。そんな感動はあった。

「それにしても、謙がこんな絵を描くだなんてね。初めてと言うか、でも懐かしいと言うべきか」

「懐かしい、ですか」

 ふと違和感を持ち、多恵子は藤岡氏に問い返していた。まだ多恵子の裸婦画を眺めてはいるが、今度の藤岡氏の目は厳しかった。

「謙は若い頃はこういうタッチの絵を描いていたよ。ある時から、そこにあるガウンの貴女や『日常』の貴女で見られるような、繊細で優しい絵を描くようになったんだけれどね。まあ、彼が根を詰めて引きこもりになるなんてことは、良くあることだから、そこは毎度の無茶とも言うべきかな。札幌でやられたのは初めてだけど。彼の昔話では、時たまあったらしいから、いつかくるかもと覚悟はしていたんだけれどね」

 なんだか初めて『三浦謙』という男性の話を聞かされたように多恵子には思えた。今までは『三浦先生』という絵描きとしての先生しか知らなかったのだと。

「それで、当時、付き合っていた女性がようやっと謙をカンバスから引き離したとかね。モデルと私とどっちが大事なのかと突きつけられて、別れ話に発展して大喧嘩したとか。あれも結構、やることやってきているんだ」

 なんて、藤岡氏は豪快に笑い飛ばしたが、多恵子はぎょっとしてしまう。

「先生でも、そんな女性との激しい生活があったのですね……」

「派手ではないけど、あの通り、女性に対してソフトだから幾らでも女が吸い寄せられてくるんだよ。離婚後、各地を転々と渡り歩いて女性を観察して。モデルとは一線を引いても、暮らしぶりは所詮は男ってところだよ」

 なんて生々しい話と、多恵子はソフトな先生の男臭さに初めて触れて仰天してみたり。だが思えば、多恵子と出会った今の先生はそういう男性として旺盛な時期がやや下り坂になっているのかもしれないが、実際に、多恵子ぐらいの年代の時はまだまだ男として漲っていたのだろうなとも思えたのだ。そんな一通り経てきた男性だから、よりいっそう冷静な目で、裸婦モデルに対する審美眼に磨きが掛かっているのだと多恵子は思っていた。だから先生はモデルとは寝ない、欲情しない、してもコントロールが出来るのだと。

 そして多恵子は思わず、『札幌に来てからは?』と聞きそうになって、慌てて口を閉じていた。だが笑っていた藤岡氏が、ちょっと困った顔で再び、裸婦画の多恵子を見つめて言った。

「まあ、これは左右する作品になるだろうな……」

 左右って? そんな問題ある作品なのだろうかと、多恵子は不安にさせられた。あんなに書き直して、こんなに根を詰めて、あんな追いつめられたような顔で、あの人が執着していた絵なのに?

 でも藤岡氏は、まだまじまじとその絵を眺め、何も言わなくなってしまった。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 あまりの散らかりように堪えかね、アトリエ部屋を出るなり多恵子はテーブルの片づけを始めた。

「あー、多恵子さん。後でうちの家内にやらせるから、お構いなく」

 藤岡氏はそういうが、多恵子としては一時も我慢ならない状態だった。

「主婦ですから掃除、家事、慣れています。いつまでもこんなお部屋では、先生も健康的に戻りません」

 きっぱりと言い放つと、逆に藤岡氏が恐れ入ってしまったようで『はあ』と戸惑いの声が返ってきた。

 洗濯物をより分け、キッチンからゴミ袋を手にしてきた多恵子を、藤岡氏は暫く眺めていたのだが――。

「では、お任せします。そして、これを貴女に預けますね」

 ゴミ袋に残飯を集めていた多恵子の手元、テーブルの上に、藤岡氏がしゃらりと銀色の何かを置いた。それを見て、多恵子は戸惑いの顔を藤岡氏に向ける。それは、このアトリエの玄関を開けた時の鍵だった。

「どうしてですか。あの、帰る時は先生が鍵を閉めると思いますし」

「まあ、持っていてください。それだけのことですよ。ああ、それから。ここの道を行った二丁先にそれなりのスーパーがありますから、良かったら謙になにか栄養ある美味い物でもこしらえて、主婦の腕を振るってやってください」

 何故そんなことを提案されているのか多恵子は益々分からなくなって、ただただ藤岡氏を見上げていたのだが。

「そこらにある弁当箱に重箱は、うちの家内が謙を心配して作った物なんですよ。洗っておいて頂ければ、私でも娘でも取りに来ますから。娘もここに遣いにやっていたんですが、なかなか謙が食べてくれなくてね。娘のことは、謙も可愛がってくれているのでもしやと思ったけれど、駄目だったんですよ」

 そして藤岡氏の目が何かを多恵子に語っていた。無言で。そして多恵子も脳裏にもふとしたことが浮かんだのだが――。

「そういうことです。モデル契約が終わるまで持っていて構いませんから、私のところに返しに来なくても結構です。では、後はお願いします。また夜に様子を見に来ますから――」

 それだけ言って、藤岡氏は行ってしまう。その背を呼び止めて、では、何を言いたかったのかと問いただしたい気持ちはある多恵子だが。きっと答えてくれないだろうし、そして多恵子も……自分の思い過ごしだと胸の奥に追いやった。


 キッチンは後でするとして、とにかく先生と語り合うテーブルだけでも綺麗にしてしまおうと、多恵子は必死になって掃除をした。

 ようやっとソファーもテーブルも、多恵子が知っている穏やかな姿を見せ始め、綺麗にふきんで水拭きをしている時だった。

「あ。多恵子さん、貴女がそんなことをしなくてもいいのに」

 シャワーを浴びて、こざっぱりした三浦先生が戻ってきた。髪は濡れていて、髭もそのままだったが、目つきがいつもの先生に戻っていた。

「藤岡もなにをやらせているんだ」

 と、先生はアトリエまでずんずんと向かっていったが、そこに文句を言いたい旧友がいるはずもなく。そしてやっと三浦先生はここに藤岡氏がいないことを知ったようだった。

「まさか、貴女にこれを任せて。彼は帰ってしまったのか」

 だが、多恵子はいきり立つ先生に微笑んだ。

「主婦ですから、やらせて頂くことにしたんです。先生、なにか飲み物入れましょうか。それから、私、今からお買い物に行ってきますね。なにか暖かくて美味しいもの食べましょう」

「え、でも」

 戸惑う先生を、多恵子は綺麗に片づいたソファーに座るようしつこく促した。戸惑いながら先生がそこに腰をかける。なんだかとても居心地悪そうに恐縮して座っている姿に、多恵子は可笑しくなってしまった。

「珈琲を入れますね。そうしたら出かけますから。先生……甘えてくれませんか」

 ティシャツにジーンズ、そして首からバスタオルを掛けている三浦先生はまだ困った顔をしていたのだが。

「うーん、では。そうしようかな」

 バツが悪そうに頭をかきながら、やっと肩の力を抜いてそこに収まってくれた。いつもの先生の顔だった。


 そのまま、まだ片づいていないキッチンではあるが、多恵子はテキパキとカップを用意して湯を沸かした。

 湯が沸く間に、ちらばっているプラスチックゴミもまた掻き集めて、新しい袋にまとめていた。

 ふと、リビングのソファーを見ると、先生がこちらをただひたすら見ていることに、多恵子は気がつく。

「先生。お疲れなら、横になって待っていてもいいんですよ」

 睡眠不足であることが明白な、疲れている目元。だからそう勧めてみたのに、先生はちょっと意味深な微笑みを浮かべていた。

「どうかしましたか、先生」

 妙に多恵子を見て、笑っているようで――。首を傾げていると、そこから先生が多恵子に言った。

「雰囲気が変わったね」

 え、と、多恵子は先生を見つめ返した。

「でも、そうなると分かっていたんだ。きっと次に会う時は、いっそう『女らしく』なっているだろうな。と」

「ど、どういう意味ですか」

 多恵子は今日の自分の格好を見た。家で専業主婦をしているままの普段着で、今日はアトリエに来たのに。化粧だっていつもどおりの最低限の。ただちょっと夫の贈り物である髪飾りをしてきたのが、唯一のお洒落というべきか。あの日、あれだけ女っぽく必死になって造りあげて先生に会いに行ったのに。なのに先生は、今日の多恵子の方が『女っぽい』と言う?

 だが三浦先生は、まだまだ、何かを見通した得意そうな顔をしていた。多恵子には益々、分からない。

「ご主人とうまく分かり合えたんだね」

 その一言に、多恵子はどきりとさせられた――。

「そうじゃないと。貴女のご主人は男としても夫としてもあまりにも鈍感で、残酷で、そして失格だと――。僕はそう思って、貴女をあの夕方、このアトリエから送り出したんだ」

 先生の言いたいことが――。多恵子にはよく解った。そして、この先生は分かっていて、だから、もしかして、半月も会わないようにしていたのかとさえ思わされた。それだけ先生は、あの時の多恵子の気持ちをよく理解してくれていたのだと。

「多恵子さん、あの時言ったね。抱かれたいのは『男』であって、僕でも誰でもないと。あの時、僕もご主人も貴女の『男』という椅子には留守なんだなと思ったんだ。だけど、今はご主人がその椅子に、その座に帰ってきた。分かるよ」

 何故、分かるのかと、多恵子は驚き――。でも、自分がいまどれだけ満たされているかを、見事に見抜かれている。そして多恵子自身、そう見えると言われたら、身に覚えがいくつでもある。普段着の多恵子に戻っても、自分がどれだけ女として満たされているか――。やはりこの先生には、女の匂いが分かるのかという驚き。

「あんなに女の匂いを表に出した妻を見て、なにも感じない男だったら許せないなーと思っていたんだ。安心したよ」

「……有り難うございます」

 主人と男と女として、もう一度向き合って愛し合っている。そんな憚ることを赤裸々にいえるはずもないから、先生に私生活についての落ち着きをその一言で報告したことにする。

「ちょっと残念かな。もし次に会った時にまだその椅子が留守だったら――」

 笑っている先生の目元が急に伏せがちになり、多恵子はどっきりとさせられる。なんだか締め付けられるような、男性の憂う眼差しというべきか。

「あ、多恵子さん。お湯が沸いているよ」

 もし次に会った時に、その椅子が……。その続きを待っていたのに、多恵子の背後に潜んでいたケトルの蓋がガタガタと騒ぎ始め、先生の言葉の続きを何処かに追いやってしまっていた。


 

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