雪降る街の住人 3

 口約束などしていない。でもその夜、夫妻が求め合うのはごく自然なことだった。

 彼が『早く風呂に入ってベッドで本を読んでいる』と、それとなく告げてくれただけで多恵子も察した。


 抱き合うことを前提と決められた寝室は、とても暖か。カーテンを開け、夜灯りだけで抱き合う雰囲気も既に整えられていた。

 まだ息子も寝付いていない時間だったのに、夫も妻も自然と寝支度を早めに整え、どちらともなくすうっと寝室で落ち合うかのように――。


 多恵子はアトリエでそうしているように、素肌の上にガウンを一枚羽織っただけの姿で寝室に入った。


 ガウンの紐を解く手を、既に寝そべって待っていた充が愛おしそうな目で見てくれている。

 そっと結び目を解いて、多恵子は静かに肩から滑らせガウンを脱いだ。

 夜灯りに浮かぶ妻の裸体を、夫も画伯のように満足そうに上から下まで眺めてくれる。目線で愛して、そして彼の手が妻を女を誘う。その手に引かれ、多恵子は充の肌の上に重なった。

「今日もあの匂いだ」

 自分の上に全裸で重なる妻の肌に、まず鼻先をつけて深呼吸をする夫の顔は、とても穏やかだった。

 だけれど、多恵子はその時。夫の身体の上で、アトリエでしたようなポーズをしてみる。わざとらしいぐらいに妖艶な胸元を夫に見せつけ、そして自分の裸体の線を意識して身体をしならせる。『綺麗に大胆に。そうだ、猫のように。生意気な猫のように』。あの日の先生の声が聞こえてくる。それに従うように多恵子は充の上でその格好をしてみた。

 充の目の色が変わった。彼の手が多恵子の頬を撫で、震える吐息を聞かせながら黒髪をかき上げ、目の前に熟れ落ちてきた乳房の赤い実を優しく口に含む。狂おしそうな手つきで多恵子のうなじから、肩、腕、背中、そして猫のように生意気に誘っている腰と尻までじっくりと撫でてくれた。

 だが。多恵子は今、充の上で大胆に誘っている格好が、実はアトリエで作ったポーズだとは決して言わなかった。ここで画伯がちらつくようなことはしたくない。でも――いつかあの絵を充が見てくれた時、この夜を思い出して欲しいと多恵子は思った。それだけで通じるはずだからと。

 妻の大胆な色香の誘いに、夫はいとも簡単に飛びついてくれた。上から下へと多恵子は寝かせられ、熱く飛びついてきた夫を腕の中いっぱいに抱きしめる。

 充の手つきも、ここのところ変わってきていた。彼が言ったように『結婚した時のままの使い古し』を思わせる多恵子が知り尽くした手立てや指先ではなかった。そして彼自身も、きっと彼の奥で眠らせていた『男の本音』を開花させていると思うほどに――。

「多恵も、手伝って」

 一緒に探そう。妻の一点を探っていた彼の指先。同じその位置に、多恵子の指先も持っていかれた。ふわりと柔らかい黒い茂みの中にある蕾まで。

「ここか」

「ち、違う」

 多恵子も躊躇わずに充と指を絡めながらそこを教えた。

 夫妻だけが知る一点を探し当てる。指先が濡れ、それすらも互いに絡め合う。『どうして欲しいか』と耳元で囁かれた。もうどことも漂い流されていきそうな多恵子。唇を頼りなげに振るわせながら、やっとの思いで呟く。――もっと虐めて、もっと優しくして、もっと弄んで、もっと情熱的に、もっとじらして――。絶対に言えなかったことを囁いていた。彼の指先がそれに応えてくれる。

 『あっ』と、そんな声をついにこぼした時、多恵子は昨夜ことも思い出し、ぎゅっと歯を食いしばった。でも充がまた耳元で囁く。

「我慢するなよ。昨夜と同じでいいよ」

 その時は、昨夜のように俺が塞いであげるから。と言って、充は多恵子の唇を吸う。昨夜は手のひらで押さえつけられてしまったのに、今夜は唇で塞ごうと待ちかまえている。彼の荒い息づかいを傍に感じながら、多恵子の身体が、つま先からじいんと、ゆっくり火照り始める。

「あ、お前の白い耳。紅くなってきた……」

 本当かどうかわからない。こんな夜灯りだけの部屋で、それが夫の目で判るのか。でも充はこの前からそうしてほんの少し、妻が恥じらう言葉を聞かせるようになっていた。もしかしてそれが、充の、新しい、こと? 多恵子はそう感じる。これは、夫が見出した妻との新しい戯れ方なのだと。

 ――いいよ、いいよ。そのまま、声を張り上げたって。そんな夫の声に誘われるように、夫の指先が愛撫している蕾がどんどんと膨れあがり、今にも一気に弾けそう……。

 やがてぱあっと弾けて咲いた感覚。多恵子の身体がしなる。ふいについて出た高い声を待ち構えていたのか、すかさず充に唇を塞がれた。そのまま多恵子は我を忘れて充の口の中で思い切り喘いで、そして夫の甘い味を自分も吸っていた。ぱあっと弾けた衝撃は、甘いもがきの中で灼き尽くされる感覚。しっとりとした青色だけの空間でひっそりと睦み合っていたのに、急に灼熱の中に放り投げられたように。一瞬にして咲いたものを、一瞬にして焼き尽くす。そんな刹那の中の激しい甘美。あっという間に冴え冴えとした夜色の空間に、引き波に連れ去られるように戻ってくる。そこで帰りを待っていたかのように、充の顔が直ぐ側にあった。多恵子の帰りを迎えるように、充の指先が、健気につんと咲いた乳房の蕾も見逃すことなく摘み取ってくれていた。灼き尽くされたはずの甘美な痺れの余韻がそこに……。


 また暫くは、夫妻はこんなふうに愛し合っていくのだろう。

 夫と見つけた本当に欲しかった睦み合いが、多恵子の身体に夜毎刻み込まれる冬――。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


「いってきます」

「いってらっしゃい」


 週が明け、また夫が出かけていく。

 今は待機中の多恵子は、その間、欠かさずに玄関から夫を見送った。

 今日の夫の表情はとても晴れやかだった。でも、少し気怠そうな目元。

「あー。ちょっと頑張りすぎた。俺も歳だなあ」

「そうね。なんかおじさんみたいなエッチなこと平気で言って。あ、もう、ミチもおじさんだったわね」

 多恵子も負けじと言い返すようになっていた。夫妻はいつも通りに戻ったのだ。

 そして充も笑っている。

「とかなんとか言って。お前だってまんざらでもなかっただろ」

「はいはい。今日は雪が沢山積もるみたいだから、仕事で車に乗る時は気をつけてね」

「はいはい。奥様」

 そんな軽快な会話を交わし、最後には二人で微笑み合う。

 そこでいつも充は出かけていくのだが――。

「あのさ。あんまりにも待たされるなら、お前だって雇用されているんだから、アトリエに行ってみたらどうだ」

 夫の勧めに、少しだけ驚いて。でも多恵子は首を振る。

「雇用って。確かに先生に雇ってもらっているんだけれど。でも、先生は感性第一の画家だから、いいの。そっとしておきたいの」

「そうか。お前がそれでいいなら」

 ちょっと心配そうに多恵子を見て、充は出かけていった。

 夫が閉めた玄関のドアを、多恵子は暫く眺めていた。

 妻は今、画家に雇われている。そして画家はある意味、妻の上司のようなもの。充が昨夜、そう言っていた。妻をモデルとしてアトリエに送り出す心積もりを整えてくれていたのだ。


 また一人きりの、我が家。

 息子と夫が帰ってくるまで、とても静かな一日を過ごす。

 でも今は。それなりに専業主婦を楽しんで、夫の帰りを待つ妻としてゆったりと過ごしている。


 時々、携帯電話に目がいくが、もう……。

 その携帯電話が鳴ることはなかったが、その日の昼過ぎ、自宅の電話が鳴った。

 『はい』と取ると『こんにちは。藤岡です』と言う声。あの画廊店のご主人だった。


「すみませんね。どうしても貴女に連絡を取りたくて、モデル事務所の社長に頼んで勝手ながらそちらの電話番号を教えて頂いたのですよ」

「そうでしたか」

 なにか。胸騒ぎがした。そして藤岡店主のちょっと疲れた声が届く。

「ぶしつけなんですがね。三浦のことでちょっと――」

 さらに胸騒ぎがした多恵子は『どうしたのですか!?』と、つい息巻いてしまっていた。

「手がつけられないんですよ。どうでしょう。明日、私の店にひとまず来て頂けませんか。あ、アトリエには行かないでくださいね」

 ――お願いします。

 藤岡氏が頭を下げてくれたのが目に見えるような、そんな切実な声。

 勿論、多恵子は二つ返事で承知した。それなら直ぐにでも出かけても良いと告げたのだが、藤岡氏は何故か『いやいや。今日はもう私も用事があるので、明日でいいですよ』と、切羽詰まっているのかそうでもないような口振りで、かえって多恵子を混乱させた。


 でも明日。多恵子はあのアトリエに行く。

 三浦画伯がいったいどうなったというのだろうか。

 まだ胸騒ぎは収まらなかった。


 

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