雪降る街の住人 3

 口約束などしていない。でもその夜、夫妻が求め合うのはごく自然なことだった。

 彼が『早く風呂に入ってベッドで本を読んでいる』と、それとなく告げてくれただけで多恵子も察した。


 抱き合うことを前提と決められた寝室は、とても暖か。カーテンを開け、夜灯りだけで抱き合う雰囲気も既に整えられていた。

 まだ息子も寝付いていない時間だったのに、夫も妻も自然と寝支度を早めに整え、どちらともなくすうっと寝室で落ち合うかのように――。



 また暫くは、夫妻はこんなふうに愛し合っていくのだろう。

 夫と見つけた本当に欲しかった睦み合いが、多恵子の身体に夜毎刻み込まれる冬――。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


「いってきます」

「いってらっしゃい」


 週が明け、また夫が出かけていく。

 今は待機中の多恵子は、その間、欠かさずに玄関から夫を見送った。

 今日の夫の表情はとても晴れやかだった。でも、少し気怠そうな目元。

「あー。ちょっと頑張りすぎた。俺も歳だなあ」

「そうね。なんかおじさんみたいなエッチなこと平気で言って。あ、もう、ミチもおじさんだったわね」

 多恵子も負けじと言い返すようになっていた。夫妻はいつも通りに戻ったのだ。

 そして充も笑っている。

「とかなんとか言って。お前だってまんざらでもなかっただろ」

「はいはい。今日は雪が沢山積もるみたいだから、仕事で車に乗る時は気をつけてね」

「はいはい。奥様」

 そんな軽快な会話を交わし、最後には二人で微笑み合う。

 そこでいつも充は出かけていくのだが――。

「あのさ。あんまりにも待たされるなら、お前だって雇用されているんだから、アトリエに行ってみたらどうだ」

 夫の勧めに、少しだけ驚いて。でも多恵子は首を振る。

「雇用って。確かに先生に雇ってもらっているんだけれど。でも、先生は感性第一の画家だから、いいの。そっとしておきたいの」

「そうか。お前がそれでいいなら」

 ちょっと心配そうに多恵子を見て、充は出かけていった。

 夫が閉めた玄関のドアを、多恵子は暫く眺めていた。

 妻は今、画家に雇われている。そして画家はある意味、妻の上司のようなもの。充が昨夜、そう言っていた。妻をモデルとしてアトリエに送り出す心積もりを整えてくれていたのだ。


 また一人きりの、我が家。

 息子と夫が帰ってくるまで、とても静かな一日を過ごす。

 でも今は。それなりに専業主婦を楽しんで、夫の帰りを待つ妻としてゆったりと過ごしている。


 時々、携帯電話に目がいくが、もう……。

 その携帯電話が鳴ることはなかったが、その日の昼過ぎ、自宅の電話が鳴った。

 『はい』と取ると『こんにちは。藤岡です』と言う声。あの画廊店のご主人だった。


「すみませんね。どうしても貴女に連絡を取りたくて、モデル事務所の社長に頼んで勝手ながらそちらの電話番号を教えて頂いたのですよ」

「そうでしたか」

 なにか。胸騒ぎがした。そして藤岡店主のちょっと疲れた声が届く。

「ぶしつけなんですがね。三浦のことでちょっと――」

 さらに胸騒ぎがした多恵子は『どうしたのですか!?』と、つい息巻いてしまっていた。

「手がつけられないんですよ。どうでしょう。明日、私の店にひとまず来て頂けませんか。あ、アトリエには行かないでくださいね」

 ――お願いします。

 藤岡氏が頭を下げてくれたのが目に見えるような、そんな切実な声。

 勿論、多恵子は二つ返事で承知した。それなら直ぐにでも出かけても良いと告げたのだが、藤岡氏は何故か『いやいや。今日はもう私も用事があるので、明日でいいですよ』と、切羽詰まっているのかそうでもないような口振りで、かえって多恵子を混乱させた。


 でも明日。多恵子はあのアトリエに行く。

 三浦画伯がいったいどうなったというのだろうか。

 まだ胸騒ぎは収まらなかった。


 

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