偶然という名の婦人 3

 アトリエに来て、どのぐらい時間が経ったのだろう。

 画伯に手を取ってもらい固定したポーズのまま、多恵子は小雪がちらつく窓辺を見た。

 ちらちらと窓枠に舞い降りた小雪は、休む場所を見つけたかのように静かにそこに降り積もる。今、白いソファーに寝そべっている自分のように。やがてその窓枠に真っ白な雪の帯ができるだろう。自分も今、ソファーに寝そべる雪。ポーズを解けば、なくなってしまう『婦人』。


 今日はモデルの日でもないのに、このアトリエにいる。不思議な感覚だった。

 この部屋に来ると、多恵子はどこか精神が自由になったように感じる時がある。

 だが自宅に戻り、家族と共の時間を過ごすと、アトリエで解放したはずの自分が『決して人には知られてはいけない自分』であるような気がする。

 ――でも。そんな自分が画伯の手でカンバスに映し出され、そして存在感を醸し出すと、どこか安堵している自分を体感する。そして二度と、その自分を抱え込まなくてすむような気にもなるのだ。


 画伯が慌てて出て行ったきり、戻ってこない――。

 分かっていた。多恵子も『やりすぎた』のだと。このアトリエに来ると、決して普段は表現することもない自分を表現している。多恵子の頭の中で、今日の『偶然』がどのように表現されるべきかと考えた時、咄嗟に浮かんだのは『誘惑』と『欲求』だった。

 勿論。信じて裸体を預けてきた画伯が、本当にその気になったかのように多恵子の肌を撫でたりさすったりした『男の手』には、流石にたじろいだ。

 でも鏡で見つめ合う『先生』と目があった時、多恵子も思ったのだ。この男性が私を欲しているなら、私は女として誘惑ではないのだろうかと。

 その表現をしてみる。表現は嘘でもいけない。そして本気であってもいけない。ギリギリの、だから『表現』。そこに集中していたら、『先生』の顔つきが変わっていた。そして画伯がアトリエを出て行ったしまった。


 多恵子はついにポーズを解いて、起きあがってしまう。

 いつもこの部屋に置きっぱなしにしているガウンを手にとって羽織った。


 先生。私はやりすぎましたか。

 自分から表現してみてもいいですかと問うた時、画伯はあの優しげな微笑みで『期待していますよ』と言ってくれた。

 多恵子の中でくすぶっているものを、今存分に受け止めてくれるのも認めてくれるのも、画伯だった。だから、思い切りやってみた。

 ――でも。あんなふうに先生が逃げてしまうとは。

 今、多恵子は恥じている。自宅にいる自分そのものの、日常の中にいるいつもの多恵子は恥じている。やはり自分は『表現者』だなんて、思い上がりもいいところだったのだ。

 画伯が自分に惹かれたのは、ありきたりで素朴な主婦。それだけで良かったのに、多恵子は『私も女。自分だけの魅力があるはず。先生ならそれを見つけてくれるでしょう。書き留めて残してくれるでしょう』――そう、望んでしまった。その為に、多恵子ははしたない『誘惑』を思いついたのだ。

 自分の中にあった『欲望』だったとはいえ、あまりにもはしたなく恥ずべき、そして汚れたものに三浦画伯には見えたのかもしれない。


 やりすぎた。先生に謝ろう。

 ガウンを羽織った多恵子はソファーを立ち上がり、アトリエをリビングへと出て行った画伯を追いかけた。

 しかし、ドアを目の前にして、その画伯が先にドアを開け姿を現したのだ。

「先生」

 画伯もそこに多恵子がいて、ハッとした顔になる。そんな画伯は何故か、頭に白いタオルを巻いていた。まるで工事現場で仕事に気合いを入れている大工のように。そして彼は、そこにガウン姿で立っている多恵子を見て、眉間にしわを寄せている。不満そうな顔だった。

「ポーズを解いてしまったのだね」

「あの、先生が戻ってこられないので――」

 先程まで、女そのものを全開にして画伯と触れあっていた自分を思い出した多恵子。途端に恥じらいを覚え、画伯と目が合うと逸らしてしまった。

「多恵子さん」

「はい」

 呼ばれ、なんとか画伯の顔を見上げる。タオルを頭に巻いている彼の顔は、カンバスに鋭い目を突きつけている画家の顔だった。

 だけれど、画伯はその怖い目で多恵子を力強く見つめている。そんな画伯の目は、多恵子はまたこのアトリエの空気の中へと引き戻していく。そして何かを表現すべきモデルでいなくてはいけないのだと、そんな気持ちに戻されていく。そう、もう一度ソファーに戻って先程のポーズをしなければ……。画伯の目がそう言っている。だからと多恵子はきびすを返し、そこへ戻ろうとした。

 なのに。戻ろうと画伯に向けた途端、とても強くて重いなにかがのしかかってきた。多恵子の肩には長くて重い腕。そして動かなくなる身体。進もうとしていた力を後ろへと引き戻され、とても熱い何かに捕まっている。

「せ、先生――」

 三浦画伯に、後ろから抱きすくめられていた。

 ――しまった! 何故か一瞬、多恵子の脳裏にそんな危機感。警鐘が鳴り響く。

 すっぽりと男の胸に抱かれている。まさに、性を欲した男に捕まえられ、せがまれている女。今、そんな構図の画伯と女の自分。

 多恵子が焦ったのは、それだけではない。素肌を隠している薄いガウン。そのガウンの生地を通し、多恵子の尻の辺りにとても硬い物が当たったからだ。子供じゃない大人である人妻の多恵子なら、それが何であるか判る誤魔化しようもないもの。男として尤もたる画伯のそこが硬く反応しており、多恵子の肌に訴えるかのように押しつけられていたのだ。

 今となってはすっかり薄れてしまっていた警戒心。以前なら『もし、あの紳士顔の先生が男と化したら、なんとしてでも逃げよう』と常に構えていた。そうモデルをするかしまいかと迷いながらも怖々とこのアトリエに来た時も、そして初めて服を脱ぎ全裸になった時も、常に警戒していた。しかし、いつしかこのアトリエのモデルとして馴染んでしまった今となっては……。

 それでもここで流されるわけにはいかない。実は高潔な人だと信じるようになったこの画伯を、突き飛ばしてでも逃げるべきだ! やはり自分の『誘惑』は思い上がりだった。表現なんかじゃない。どんなに芸術の関係であっても所詮は異性、男と女を甘く見ていたのだ! 多恵子の腕に逃げる為の力がこもった時だった。

「貴女はいま、僕に抱かれたいのか。それとも描かれたいのか。貴女が望むことを言ってごらん」

 女の背中を抱きすくめる画伯が、耳元で囁いていた。その声はいつもどおりに柔らかく穏やかで、でも耳に伝わる息はとても熱かった。

 何故か多恵子はそこで、力を抜いてしまった――。

「……どちらもです。でも抱かれたいのは『男』であって、先生でも誰でもありません。でも先生の手で描いて欲しい」

「なるほど」

 女を抱きすくめ、彼のものはとても硬く盛り上がっているのに。それをこの女に分からせるかのように、多恵子の身体に押しつけているのに。でも画伯の声は落ち着いていた。

 振り返り、怖々と画伯の顔を確かめると、やはりカンバスに向かっている『三浦謙』の顔のままだった。

 多恵子が力を抜いたのは、今ここで男と女で間違いなくとも、それでもこのアトリエに戻ってきた以上は画伯も『絵描き』として戻ってきたと分かったからだ。


 ようやっと画伯が多恵子の身体から腕を解いた。

「女としての貴女が僕を男としてここまでさせたのだから、どうすればいいか分かっているね」

 その一言に、多恵子も今度こそ完全に引き戻される。モデルとして。

「はい」

 三浦の目の前で多恵子はゆっくりとガウンの紐を解き、するりと肩から滑らせ手から放す。肌を暖かく優しく守ってくれていたガウンがふわりと床に落ちた。

 欲してる男を目の前に、多恵子は躊躇を捨て『裸婦』に戻る。

「描いてください」

「そうしよう」

 自分の目の前に、誘惑をした女が全裸で立っている。画伯は女を上から下までひと眺めし、妙に満足そうに顎を撫で一人で頷いている。

 多恵子はとても緊張させられる。そんな画伯の、なにかを値踏みするような、探るような、定めるような、そんな画家の目をいつも畏れている。その目にいつも見限られないよう、自分はどうするべきか、自分の中の自分と今まで以上に向き合ってきた。毎回が、画伯の眼鏡に適うかどうかの連続だった。そして怖い顔でスケッチやカンバスに向かっているこの男性がコンテを手放すと、急に紳士的な優しい男性に崩れて『良かったよ』と満面の笑みを見せてくれるとほっと安堵し、そして達成感を得ることができた。そんな毎日は、日々平坦でも慌ただしいまま只只駆けてきた多恵子を、夢中にさせてくれた。

 そして身体だけじゃなく、心も裸にされていく――。画伯の手の中、彼の世界の中。多恵子の心は、やがてありきたりな主婦から、こんな『女』まで飛び出してしまったのだ。

「おいで。もう一度、ポーズを取ろう。少し、変えてみようか。さっきのは、それこそありきたりだった」

 全裸の女。目の前には『男の性』と『画家のプライド』の境目、どちらに転んでもおかしくないほど危うい一線ぎりぎりに立っている画家がいる。彼が多恵子の手を優しく取った。

 多恵子が小さく頷くと、まるで今からどこかのダンスホールにでもエスコートされるようにして、画伯はその手をゆっくりと引いて裸婦をソファーに連れて行く。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 ソファーに寝そべった多恵子の側に、いつものように画伯が跪く。

 大切な絵を描く為に、画伯という男性が多恵子というモデルを敬う為に床に跪いているようで、そんな時はいつも『この画伯の為なら』と思ってきた。

「もう恥ずべきことはないね。君から飛び出してきたことだから」

 彼がなにを言いたいのか、多恵子になにを欲しているのかが分かっていたから『はい』と応えた。

 思った通りに、先程の決まり切ったような寝姿ではなかった。

「うつ伏せになって――」

 頭の位置が先程と違う。先程は画伯の立ち位置であるイーゼルに足を向け寝そべった。今度、多恵子の頭はカンバスやスケッチブックを乗せたイーゼル群の前。そこにうつ伏せに寝そべり顔を上げると、イーゼルがすぐそこ目の前だった。

「肘で立てた両腕で乳房を挟むように」

 言われたとおりに、多恵子は肘を立て腕で両胸を寄せた。彼の目的も分かっていた。多恵子の、いつしか張りをなくして柔らかに頼りなくなった乳房の垂れ下がりを、如何に妖艶に見せるか。だから多恵子も寄せに寄せて谷間を強調した。

 画伯の要求はさらに加速する。――腹をソファーにぐっと押しつけ、尻を上げて。そう。そのまま片足はそっと曲げ、もう片方は真っ直ぐに伸ばして。ほんの少し足を股を開くんだ。腰と尻と脚の曲線湾曲のアップダウンを……綺麗に大胆に……そうだ、猫のように……生意気な猫のよう……に。画伯の声も少し掠れている。

 多恵子の中で、ほんの少しの躊躇、そして羞恥心が揺らめく。そのポーズはどこかで目にしたことがあり、そして『ありきたりな女』として歩んできた多恵子には堪えられない目を背けてきた男性向けの雑誌でよく見かけるグラビアのようなポーズだったからだ。つまり、男性を誘う格好を。しかし多恵子はそれをしてみた。自分ではない。自分はこんなはしたいな格好などしもしないし、こうして男を誘惑しようと思ったことも、唯一身体を許している夫にも見せようと思ったこともない。でも、『心』は違う。どこかそんな格好で男を欲している自分の『心』は、きっとこんな格好をしているのかもしれないと。だから、躊躇いを払いのけ従った。

「――僕の指示はここまでだ。でも、君が思う表現があれば、『これを基礎』に多少崩してもいい」

 画伯は多恵子の足首を持って最後の位置を決め、そう言った。最後の指示と言いながら、画伯の指先がどこか惜しむように多恵子の足首をいつまでも撫でている。心ならずも、既にその気持ちへと引き上げている『裸婦』多恵子の肌はぞくりと感じてしまった。

「見てごらん。僕をこんなにして。君が今すぐ抱いて欲しいと言えば、僕はそうしても良いのだけれどね」

 モデルの裸体から離れ、立ち上がった画伯が多恵子を見下ろしている。見てごらん――。画伯が多恵子の目を誘ったのは、やはりジーパンのジッパー。まだ膨らんでいるそこだった。

 今度は多恵子が当惑させられている。――先生。本気で言っているの。それとも、それも創作の為に画家として描こうとしている空気の演出なの――と。だけれど目を見れば分かる。あの厳しい目。女を抱こうとしてる男はきっとそんな目はしない。多恵子が今日まで知ってきた三浦謙を信じるなら、その目は『本気がかった演出』だった。

「そうですね。先生に抱かれたら素敵なひとときを過ごせそうですね。でも先生は、私を抱きたいのですか。それとも描きたいのですか」

 先程のお返しだった。大胆な猫のようなポーズをさらに強調させる多恵子は、そのまま物欲しげに画伯を見上げてみた。一瞬、彼の顔が強ばる。

「本当に。貴女という『モデル』には参るよ」

 どこか悔しそうな顔をしながら、画伯はついにイーゼルへと立った。

 多恵子の目の前にイーゼル、カンバス、画伯。こんな近くで画伯に裸婦として描かれるのは初めてだった。

 彼の長い指が、木炭を手にする。そしてF10サイズの大きなスケッチブックを手元に引き寄せ、彼が多恵子を見下ろす。

「そのまま」

 彼の手が多恵子の顎先に触れるような仕草で、指を一本くいっと動かした。それに従い、多恵子は顎を上げ画伯をみつめる。

「そう。今日はそうしてずうっと僕を見ているんだ。逸らすことは許さない」

「はい、先生」

 彼の手が、木炭の先が、ついに白い画用紙の上へ。

 多恵子はそっと目を閉じてしまった。でもぱっちりと目を開き、そんな三浦謙を決して離さない。

 どうしてだろう。息が荒くなりそうで、そして身体の芯がとても熱くなってくる自分を多恵子は感じていた。

「せ、先生。私は淫らですか」

 本当にこれでいいのだろうか。自分らしくないのに、心は裸の気持ちの、この格好。こんな絵を描かれて良いのだろうか。『理性』を忘れて、画伯でもない夫でもない、なのにどこにいるとも分からない『男』を求める為に、ただ目の前にいるだけの『男』を見つめているような――。

「淫らでなくては全てが『嘘』だ。だから迷いは捨てて。どうした。先程の貴女の気迫は――」

 素っ気ない返答。多恵子はふいに目が覚めるかのように、しっかりと目を開け画伯の姿を確かめた。

 彼は多恵子に『僕から目を逸らすな』と強く言うのに、そしてこんなに危うい姿をしている女を直ぐ傍で見つめているのに、目の前の淫らな女に冷徹なまでに落ち着いてる。なのにその目は自分が描き出す紙の中の裸婦一筋、『彼女』にすっかり夢中だった。

 そこに描かれ始めた自分を見て、多恵子はこの上ない喜びを感じていた。


 画伯は真っ白なカンバスと紙の向こうにある彼だけの世界に行ってしまった。

 そして多恵子も。確かにここに危うい女として居るのに、既に真っ白な紙の向こう。三浦謙につられるようにして、魂が吸い込まれていくようだった。


 


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