偶然という名の婦人 4
北国の初冬は日暮れが早い。まだ夕の口だというのにすっかり暗くなる。
十六時になれば、街中の灯りが点り始める。そして部屋の灯りもつけねばならなくなる程。そんな時期が来ると、あっというまに暗闇の世界に放り込まれたような、うら寂しさに包み込まれる。
だが。そんな薄暗くなるままの今日のアトリエに、灯りがともされることはない。
色彩をなくしていくように徐々に灰色に染まっていく部屋の中でも、画伯の手先は紙の上を軽快に滑り、ソファーの上の猫のようなモデルは、ひたすらに画伯を見つめていた。
――終わったよ。
その一言に、多恵子の心はやっと馴染んでいるアトリエに戻ってきたよな気分。そのまま身体の力も、ふっと抜いた。
疲れるポーズであったのも確かだが、そこまでの自分を保つ気力も気分も、なかなかのものだった。
ソファーに頬を埋め、ぐったりとうつぶせで寝そべっていると、急に部屋が明るくなる。
カーテンを閉める音。三浦画伯が灯りをつけ、アトリエを普通の夜の部屋に仕立てたようだ。
やがて、ふうと息を吐いて寝そべったままの多恵子の目の前に、また画伯が跪き顔を覗き込んできた。
「ご苦労様。こんな時間に巡り会えるとは、あの横断歩道では思わなかった。けれど、僕の画家としての勘は当たっていたようだね」
――『そうですか。よかったですわ』。多恵子は力無く呟いていた。それだけ疲れた。でも、画伯からのその言葉に、多恵子は満足を隠しきれない微笑みを浮かべていた。
そのまま眠ってしまいそうな程、多恵子はソファーに顔を埋め、とにかく身も心も休ませた。
本当に。心おきなく乱れて男に抱かれ、情事を終えたかのような脱力感だった。
気力と気分がそうさせていたのか。多恵子の肌は熱く、そしてしっとりと汗ばんでいるのが自分でも分かった。頬も火照っている。
そんな多恵子の顔を、画伯がまた覗き込んできた。
「抱かれた後の女の顔みたいだ。スケッチしていいかな」
うつぶせ寝たままの多恵子は、力無くこっくりと頷いた。画伯はすかさず、F4のスケッチブックとコンテを持ち出してきた。また多恵子の側に跪くと、いつもの厳しい顔つきでスケッチを始める。
彼の目が、強く多恵子を見つめている。いつも多恵子を探している。そしてもっと向こうにいる『裸の女』を探している。肌を探られるよりも、今の多恵子には、心の奥にある女を裸にされて揺さぶられて触れられてしまう方が、ずっと官能的で恍惚とさせられた。
だけど、そんなふうに多恵子を彷彿とさせてしまう画伯の目がふと緩み、いつものアトリエを出た三浦先生の顔に戻ってしまった。
「チークなど、いらなかったね。多恵子さんの頬、ほんのり赤いよ」
「そう、ですか……」
また力無く答える。するとまたなにかを感じさせてしまったのか、画伯の顔に戻って彼はスケッチを続ける。
よく見ると彼の額も汗ばんでいる。そして時折、どこか悩ましげなため息をついては気合いを入れ直すようにして、コンテの指先に戻っていく。
「先生は……モデルを抱かないのですか」
なんて下世話な質問かと思いつつも、多恵子は聞いてみた。この先生はモデルと女は分けていると信じていたし、今日もその通りの画伯だったと思っている。でも……本当にそこまできっちりと理性を持てる男性がいるのだろうか。そしてまた、そんなに割り切れる男が裸の女性を表現しきれるものなのだろうかと。きっと世間では、裸のモデルと画家は簡単に寝るものと想像するところだろうに……。そして男と女は案外そんなものではないのかと。
そして真顔の画伯も、そのままスケッチをしながら先程のように素っ気なく答えてくれた。
「モデルを抱くと僕は描けなくなってしまうんだよ。抱く女性は別。クロッキーはするけどね」
「どのような女性が先生の好み?」
プライドを忍ばせる目でスケッチに熱中する男性の横顔に、ふいにそう聞きたくなった女心と言おうか。
するとまた、画伯が三浦先生の顔で笑った。
「僕の思い出のクロッキー帳をみせてあげようか」
おかしそうに先生が笑っているので、逆に多恵子は首を傾げてしまった。
「離婚後。それなりに異性関係はあったけど、全てその土地の行きずりの関係。モデルとは別の。でも女性は綺麗なもんだ。クロッキーだけなら、抱いた後に描かせてもらったりしたよ。時に僕が絵描きと知って、モデルをねだる女性もいたけれど当然お断りなんだ。でもね、そのクロッキー帳を見た画廊屋の彼は『こっちの方がよっぽど艶っぽい。男はこっちを支持する』なんていうほど。……つまり『艶絵』にしかならない代物」
それでも男はそんな絵を見てそそられる。そんなクロッキーばかりのスケッチブックがあると教えてくれた。そして多恵子はハッとした。
「まさか先生。そのスケッチブックは艶絵用の」
どこか勝ち誇ったようにして三浦が笑う。
「そう。僕の艶女達のね――。でもね。僕のカンバスに描かれるモデルで、このスケッチブックにも書き留めておこうと思った女性は貴女だけだよ。多恵子さん」
可笑しそうだった画伯だが、最後は多恵子をとても讃えるようないつもの優しい落ち着きある男性の目で見つめてくれていた。
途端に多恵子の顔が熱くなる。それは喜んで良いのか悪いのか。嬉しいような恥ずかしいような、そんな戸惑い。
「寝ていないのに、寝た女性のコレクションに入るだなんて奇妙だけれどね。それだけ貴女は艶っぽい女性としても強く存在しているし、男性の心を動かせるのだよ」
笑っている先生がさらに言った。
「たった一人で怖がらないで、思うまま『ご主人』にぶつかってごらん」
どこか致し方ない微笑みで先生が多恵子を見ている。
そしてその一言は、どうしてか多恵子の胸を大きく叩いたような衝撃を覚えさせた。
―◆・◆・◆・◆・◆―
モデル用に彩ったメイクを、多恵子はティッシュで拭き取る。
すっかり見繕いを終え、フリルのブラウスとスカート姿でソファーに座り、多恵子は手鏡の中に映る自分を『帰る自分』として整えていた。
出かける為に気合いを入れしまったメイクはもう消えてしまった。ほんの少し残ったマスカラだけ。改めて直すメイクも軽くファンデーションを塗り直し、口紅を引いただけ。いつもの『あたりさわりない多恵子』に戻ってしまった。
外はすっかり暗くなってしまい、多恵子の心もどこか急く。
きっと大輔が『お母さん、遅いな』と灯りを一人でつけて待っているに違いない。いつもならもうキッチンに立って、夕食の支度をしているところ。
今からすぐそこにある地下鉄の駅へ向かい、電車に乗って帰らねばならない。その急く気持ちがメイクをより簡単にさせる。
だが画伯はまだイーゼルに向かっていた。
それどころかパレットを片手に持ち、油絵の具を数色混ぜ合わせている。
今日、画伯は数枚のスケッチをしただけだった。忘れないよういくつかの雰囲気と角度を書き留めて、それから下地を仕上げたカンバスに下書きをするのだと。
――となると。今日はカンバスの下地塗りだけで終わってしまうだろう。油絵のやっかいなところは、油が乾かないことだ。そうなると、もう暫くは今日のようなテンションとフィーリングを維持するモデルとして通わねばならないだろうかと多恵子は思ったのだが。
支度を終え、ソファーから立ち上がりコートを羽織ると、そんな多恵子に画伯が言った。
「暫くモデルに来なくていい。また僕から連絡をするから」
ペインティングナイフを持ち始め、ついにカンバスを塗り始めた画伯がそう言う。
――『何故』?
先生、私はもう必要ないのですか。その絵で私達も終わりなのですか。
言いたくて。怖くて言えない自分がいた。
しかし今の三浦画伯は、カンバスしか見ていない。
ガリッガリッと、カンバス生地に叩き付けられるナイフの音だけがアトリエに響いていた。
―◆・◆・◆・◆・◆―
アトリエがあるマンションを出ると、まだ小雪が舞っていた。
コートの襟を寄せ、多恵子は途端の冷気に身体をすくめる。
マンションのエントランスを出てすぐの道は静かだが、そこを抜けると割と大きな通りに面していて、すぐそこに『藤岡画廊』が見えた。
店はまだ灯りがついていて営業中。そして多恵子のすぐ側には、今日、先生とお茶をしたギャラリーカフェ。
――今日のなにもかもが、ここで始まったのだわ。
多恵子はシックなけやき造りの店を見上げた。
そのまま通りの舗道を歩く。小さな雪はまだ積もるまでには至らない、とても弱々しいものだった。舗道に舞い降りても、アスファルトを隠しきることもなく、風に吹かれるとくるくるふわりと踊るように動き回り、何処かに行ってしまう。まるで、今の多恵子のような気持ちにさせられた。なんだか全てが儚くて、あっけなくて、そしてあっというまに消されてしまうようなそんな気持ち。
何故、先生は、モデルに来なくていいなどと?
でも画伯の顔をした先生は、確かにカンバスと一対一の対決をするかのように向かっていた。
本当に気合いを入れて描き始めていたのだから、今日のモデル、そして表現は、確かにあの先生に描かせる力を与えたのだと――。そう多恵子は信じてる。いま先生は、突然ありったけに溢れ出てしまった多恵子を心に目に留めたまま、離さずに描いているのだから。だから先生が『暫くモデルは要らない』と言えば、それはそれで先生の感覚に従うしかない。どんなにモデルに表現をさせてくれても、最後に描き留め残してゆくのは画家なのだから。
真っ暗になった大通りを、ライトをつけた車が何台も多恵子を照らしては通り過ぎていく。
明るく照らされたり、すぐに暗闇に引き戻されたり。一喜一憂。やがて多恵子の目の前に地下鉄の駅へと続く階段が現れ、カーライトから逃れるかのように足早に降りた。
オレンジ色のドアに白い車体。この路線の電車がホームにやってくる。
そろそろ帰宅ラッシュなのか、ビジネスマンやきちんと格好を整えたOLの姿が見られ、座席もほぼ埋まっている状態だった。
――やだ。そろそろあの人も帰ってくる頃ね。
電車に乗り込んで直ぐ、多恵子は携帯電話のパネルを開けて時間を確かめる。もう今から帰って夕食の支度は間に合わないかと諦めた。
どこかで今日は出来合ものを調達する決意を固め、多恵子は大通公園駅でいったん電車を降りた。
この駅は札幌時計台や大通公園が直ぐ側にあるだけではなく、三路線の乗り換えが出来る駅だけあって、とても広く人通りが多い。
しかもこの帰宅の時間ともなれば、この駅を中心に各郊外路線に乗り換える人々に、この近辺のデパートや商店街へ向かう人々で溢れている。
その波をかいくぐり、改札を出た多恵子も他の人々の波に習うようにして、すぐ側のデパートへと向かう。
地下鉄駅の改札を出れば、すぐそこがデパートの玄関。ガラスの重いドアを開け、エスカレーターを昇れば、大手デパートの地下食品街へと辿り着く。
そこも夕食前の時間帯の為、かなりごった返していた。それでも多恵子も意を決して、その人並みの中へ踏み込む。
いわゆる『デパ地下』。威勢のよい鮮魚店の男性の声が響き、時には通りすがりに『値下げをしたました。どうですか』という声がかかる。売り切る為の値下げが始まっていたようだ。
大輔が好きなコロッケかトンカツか。夫の酒のつまみになるようなものはないか。多恵子は探す。そしてやはり値下げが始まっているものを手にして、なんとか数点買い込んだ。
再び地下鉄に乗り込み、多恵子は帰路につく。
つり革を持ち、多恵子は立って乗車する。景色など決して映ることのない地下鉄の暗い路線を電車が行く。窓辺にはトンネルを照らす僅かな照明が幾つも通り過ぎる。その暗い窓辺に、多恵子の顔はくっきりと映っていた。
簡単なメイク。平坦な彫りのない顔つき。はっきりしない目。目立つ顔じゃない。だからバーゲンで買った普段は着ないやや華やか目の服装だけが浮いていた。あれほどのメイクをしないと洒落た服にも殺されてしまう自分。しかもふわりとアレンジした黒髪も、画伯に地味に直されてしまった。
画伯があれでその気になって満足してくれたようだから、アトリエではそれはそれで良かったのだろうし、多恵子も『今日はハラハラしたけど、仕事をした』という満足感がある。だからいつも通りの地味な自分に戻っても、別に……。
だが、この抜け殻のような気持ちはなんなのだろうと、自分でも訳も分からず、ひっそりと人混みの中でため息をついていた。
やがて自宅側の駅に到着する。
ドアが開き、多恵子はホームへと降りる。この駅界隈は割と住宅地やマンションが密集している為、降りる人も多い。改札へあがるエスカレーターも、隙間なく人々が列をなし昇っていく。
慣れた改札を目の前に、多恵子はプリペイドのカードを通し、外に出た。
デパートで買った食品の白い袋を下げ、帰宅を急ぐ人々の波を歩いている時だった。
「多恵」
聞き慣れた声がすぐ側にあった。隣に並んだ黒いハーフコート姿の男性。見上げると、そこには見慣れた男の顔があった。
「改札を通るお前が見えたから。今、仕事の帰りか」
「ミチ……」
夫の『充(みつる)』だった。
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