4章 偶然という名の婦人
偶然という名の婦人 1
ブラウスのボタンを外し、多恵子の鎖骨が露わになると、ふわっとした香りが三浦の鼻腔をくすぐった。
今までに覚えのない、新鮮な匂いのような気がした。青々としたハーブを思わせるような、彼女らしい優しく落ち着く匂い。
その匂いに惑わされている間にも、三浦の指先は、艶やかなブラウスのボタンを下までゆっくりとひとつずつ外していく。
多恵子は黙って、ただ三浦の指先を見守っている。
そこに怯えや躊躇いなどの揺れはない。ちょっと伏せた落ち着いている眼差し。そんな多恵子のいつにないしっとりとした眼差しすらも、三浦は触れるかのようにじいっと上から眺めている。
いつもと違って、今日の彼女は目元をはっきりとさせるアイメイクを施していた。睫もぴんとカールして色っぽい。自分で言うだけあって、彼女は自分なりに出来る範囲できちんと自分を女として磨いてきたことが窺える、品のある目元に仕上げている。
その眼差しが、三浦の指先をどこまでも許そうとしている。
やがてブラウスのボタンが全て外し終わる。三浦はそっと多恵子の首筋に手を沿わせ、肩を撫でる。しなやかなブラウスの生地が三浦の手の甲に吸い付くようにして付いてくる。多恵子の肩の丸みに沿って撫でると、そのまま彼女の腕を伝って、いとも簡単にブラウスはすとんと床に落ちてしまった。それを目にして、三浦は本当に自分のパートナーでもあるモデルの服を、この画家の手が脱がしてしまったのだと我に返りそうになった。
それでも多恵子は三浦を信じるように真っ直ぐに見ている。それは三浦に『描け』と命令しているかのようだった。そんな彼女の真摯な眼差しに気づかされ、三浦は再度、露わになった多恵子の白い肩を撫でた。
「怖くないのかな」
多恵子は無言で、まだ三浦を見ている。
急に躊躇った三浦の手、多恵子の肩を労っている三浦の手を彼女の指先がそっと触れた。
「先生の手、荒れてるといつも思っていたんです。手の甲は綺麗なのに、指先が割れて、ささくれて」
肩の上にある三浦の手、多恵子はそっとそのまま男の手で自分の肩を撫でさせようと、肩の丸みに沿って三浦の手を動かした。三浦もその動きに任せる……。
すると彼女が言ったとおりに、自分の荒れている指先が、彼女のなめらかな肌を僅かにひっかきながら撫でているのを初めて感じた。
「先生の、このささくれた手。この手でいつも私の手と足をとって肌にそっと触れて、ポーズの指示をしているんですよ。その指のちょっとしたささくれが、私は好きです」
「多恵子さん……」
指がささくれるのは道具の手入れをするから、そして、自分でカンバスを木枠に張ったりの作業もするからだ。
「絵描きの手はとっても綺麗だと思っていましたが、本当は違いますね。もし、そうでなくても、この手が私を描いてくれている三浦謙の手ですから――」
――だから怖くない。多恵子は言い切った。
「この手で私に触れてちゃんと描いてください」
彼女の目は、三浦の『この手で脱がせたい』と言い出した真意を分かってくれていると確信できた。だから、三浦の手がやっと多恵子の肩の丸みを抜け、ほっそりとした腕へを滑っていく。
「五感も無視できない気持ちなんだ」
多恵子の肌に触れたことがあっても、こうして『撫でる』のは初めてだった。思った通りのなめらかさ……。三浦はそれに気を取られながらやっと喋っていた。そして多恵子もそっとその手を信じて目で追うだけで黙り込んでしまった。
「目でだいたい感じ取って描いてきたんだ。少し触れたらだいたい分かるんだ、『その女性の肌』が。だけれど、今度は触れずには描けないと――」
だがそこで三浦の手がまた躊躇いそうになる。触れると、モデルの肌を愛でてしまうとどうなるか。それが最悪の事態を招いた過去を彷彿とさせ、頭上に暗雲が立ちこめたような恐怖が湧いてきたのだ。そこでついに、多恵子から一歩、退いてしまう。勿論、彼女の肌に吸い付こうとしていた手も離れてしまった。
「先生?」
急に力が抜けるような感覚――。いつも多恵子がポーズを取ってくれているソファーへと三浦はがっくりと座り込んでしまった。
「あの、大丈夫ですか……」
「いや、やっぱり……のぼせたか、も?」
手のひらで顔を覆う三浦を見て、多恵子が少し驚いた顔に。
「私の、今更ですよね?」
私の裸を見るなど、既に日常の『裸婦画家』ではないか。多恵子が言いたいことは三浦も分かっている。
――でも、のぼせたんじゃない。怖くなったのだ。
彼女の肌にどこか懐かしさを覚えた瞬間に。三浦がふいに抱いた気持ちは、不安を覚えるほどに抱いてしまった気持ちは……。
項垂れていると、足元にひらりとスリップドレスが舞い落ちてきた。三浦のつま先にレエスの裾がちょこんと触れる。
多恵子が自分で脱ぎ始めている。三浦の目の前で、臆することなく。
――見て、先生。触れるのがだめでも、先生に感じて描いて欲しい。
彼女がそんな意欲と決意で潔く三浦の目の前で脱いでいる。
つま先に僅かに触れているレエス。優しく小さく、触れている。それを三浦はおもむろに手に取り、しばらくジッと眺めた。
触れるとひやりとした冷たさが一瞬、でもすぐに手になじんで暖かになるシルクの。彼女の雰囲気に良く合っているクリーム色。そして胸もとのエレガントな刺繍は爽やかなペパーミント色。
多恵子が脱ぎ捨てたスリップドレスをただ手にして眺めている三浦は
「多恵子さんに良く合っているね。もし貴女にどのようなものを贈るかとなったら、きっと僕もこんなイメージで選ぶと思うな」
ふと冷静になっていた。妙に妖艶な色彩ではなく、本当に多恵子らしい優しい色合いだったせいだろうか。そして多恵子は、いつもの微笑でそこに立っている。スリップを脱ぎ捨てた彼女は、これまた艶やかなミントグリーンのランジェリー姿。爽やかな色合いなのに、チョコレート色の刺繍がどこか甘さを漂わせているブラジャーとショーツの。そこまでの姿になっても、多恵子はいつもどおり三浦に微笑みかけているのだ。
「馬鹿みたいでしょ。先生。今日、モデルの日でもないし、先生とこんなことになるはずではなかったのに。なのに私、とっておきの下着を身に着けてきたんですよ」
「それも、今日、君が前面に出したかった気持ちで選んだということなのかな」
「そうですよ。別に、先生に見てほしくて選んだわけでもなく、主人に見せたくて選んだわけでもなくて。でも」
そこで多恵子がまた三浦のスケッチを欲しいと切なそうに訴えてくれた眼差しを落としていた。
「でも。多恵子さんはこれを身に着けて、誰も気づきもしない女を忍ばせる、かな?」
多恵子が言おうとしただろう言葉を、三浦から口にしてみた。するとまた多恵子のやわらかい微笑み。彼女は『はい』とも言わないし『そうではない』とも言わず、ただただ微笑みを三浦に向けている。
その笑顔が、彼女の誰にも見せることもないのに気持ちで忍ばせてきたエレガントながらも艶っぽいランジェリーと同じような気持ちにさせられたのだ。
それを感じて、へたり込んでしまったソファーから三浦は立ち上がった。
再び、多恵子と向き合う。ブラジャーとショーツだけになった彼女を見下ろす。自分の顔がどう変化したのか分からない。でもやっと多恵子が少しばかり照れたようにして三浦から瞳をそらしてしまった。
そんな彼女の首筋に、再度、指を滑らせ、三浦は黒髪を肩の後ろに払う。
「先生」
「寒くないかな。まだ、暖房が効いていない」
「大丈夫です」
やっと三浦の指先が、多恵子の背筋を滑っていく。そっと多恵子が震えたのが分かった。だがそれは怯えでも寒さから来たものではなく、間違いなく男の指先に翻弄された震え。それでも多恵子は三浦の囲いから逃げず、立っている。
それは物欲しげな女でもなく、不満を膨らませている女でもなく。本当に『三浦謙の手の中にあるモデル』として凛と立っているよう。
彼女が気がついてくれたように、三浦の指先は荒れてがさついている。多恵子のしっとりとしている滑らかな肌を、本当に傷つけるかのように三浦の指先のささくれが引っかかる。だが、それだけ多恵子の肌の滑らかさが、ひび割れた指先にはより一層、柔らかで吸い付くように感じられた。
「いい匂いだ。香水でもないね。ハーブのようなアロマで」
「ボディクリームです。先生に言われたとおりにいつものお手入れ程度で使っているものです。香りが強いクリームなのでモデルの日には使いません。だから今日は特別――」
「ふうん。なるほど。これもさりげなく忍ばされている香りというわけだ」
きっと多恵子の傍に寄り、肌に近づかなければ気がつかない香り。それを今、三浦は彼女の肌を目の前に感じている。
「グリーンを思わせるアロマに、ミント色のランジェリー。今日の貴女は緑、」
自然な香りが徐々に多恵子の姿と重なり三浦は囚われていく。目を閉じ、そっとその鼻先を多恵子の肌に近づけた。意識していない自然な行為。多恵子がどのように三浦を思って眺めているか、感じているかさえ、もうどうでも良くなっていた。
「ほら。今日のカフェの入り口に、クリスマスを思わせる小さなモミの木が階段の両脇に並べられていた。針葉樹林の、小さな尖っている葉先に小雪を乗せいていた。頼りなげな細い葉先に、儚くても柔らかく健気にそこに舞い降りた小雪」
君を見て触れて感じて、匂いに包まれて。僕は今日のそんな一齣を貴女に見たよ。そう語りかけたい気持ちで三浦は独り言のように呟いていた。
「先生らしい喩え、嬉しいわ」
そして多恵子はふっと薄紅に染まり始めた頬をほころばせて。
やがて三浦の指先が多恵子のブラジャーのホックを臆することなく、指先で弾くように外していた。もう三浦にも恐れはなかった。
そして多恵子も恥らうことなく、三浦に外されたなら、今度は自分でブラジャーの肩紐をそっと腕に滑らせ、ことりと床の上に落とした。
見慣れている三浦の裸婦モデルがショーツ一枚でそこに立っている。
そして彼女は三浦を見つめ、三浦も裸婦モデルを見つめていた。
今度は多恵子の頬にそっと触れる。部屋が暖まってきたせいなのかどうか。思った以上に多恵子の頬は熱く、逆に三浦の手の方が冷えていると感じたほどだった。
自分の手の中に収まっている裸婦モデルの小さな顔を三浦は見つめる――。目元がはっきりするメイク。そして睫毛もピンとカールしている。頬にはチーク、そして口紅。そして黒髪はカールを施し。
「メイクも、同じなんだね」
「そうです。メイクもなにもかも。そう自分の為に頑張ってみるんです」
「でも、流されていく?」
すると多恵子がまた致し方なさそうにゆるく微笑んだ。
「先生。本当はどうなのでしょう。気がついているのかしら、本当に気がついていないのかしら。もし気がついているのなら、照れくさくて言葉にはできないのでしょうか。本当は気がついてくれていて、でもただ私が欲しい一言を言わずに済むものと思っているのでしょうか」
唐突な問いかけではあるが、三浦には多恵子が何を言いたいか。本当は何を秘めていたのかが分かり始めていた。
「さあ。その男性それぞれだと思うな。でも、そうだね。日本だと照れくさい男性がほとんどじゃないかな。心では思っているけれど口には出来ないんだよ」
「先生は言ってくれそう」
今度は三浦が致し方ない笑顔を浮かべていることだろう。そのまま照れるように言ってみた。
「僕も同じ。筆を手放したら、ただの不器用な日本男児」
「いいえ。先生は女性の中にあるものをいつだって探しているもの。だから今日だって私を見つけてくれたわ」
「そう。『偶然』に、だね」
手の中の多恵子に、どこか申し訳ない気持ちで微笑む。彼女が表現をしてくれねば、この『偶然のアトリエ』はなかったのだと。
そんな多恵子を見つめながら、三浦も真摯な気持ちで彼女を眺める。
「描く前に、メイクを直そうか」
「これではいけませんか」
今日そのままの自分を描いてくれると思っていたのだろう。三浦の手の中で多恵子が訝しむ。そんな彼女の瞼に三浦は触れた。
「貴女の目は、こんなに強調しなくていい。いつもどおりの目で――」
指先で、三浦自身には不要なアイラインと淡いグリーンのシャドーを擦り落とす。
ころんとした黒目の愛嬌あるナチュラルな眼差しで。それで、今日は僕を見つめて――。素肌でそこに座って、寝そべって、そして。
曇り空の午後、アトリエの窓辺には小雪。
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