裸婦を眺める少年 5

 鉛筆を動かし始めると多恵子の戸惑いも解け、彼女はそっと微笑みながら美味しそうにカップを傾けている。

「僕が知っている多恵子さんなんだけれどね。今日は驚かされたな、多恵子さんではないようで……」

 すらすらとスケッチする三浦を見つめてくれながら、彼女がくすくすとおかしそうに笑っている。

「今日はモデルのお仕事ではありませんから。たまのお洒落、思い切ってしてみました」

 雑誌サイズの小さなスケッチブックだから胸から上を描いても小さく収まってしまう。そうではない。今日は彼女のその表情や目を描きたいと思っている。白い紙には、多恵子のころんとした黒目が強調されていくスケッチが浮かび上がる。その目が、どうしてかいつも以上に女っぽくなっていることに三浦が気が付く。

「たまのお洒落か。いつもと全然違う――」

「こういう外出でないとお洒落もできませんから。あ、でも全てバーゲンで買ったもので、もう流行も少しずつ古くなってきているものばかり。バーゲンでようやっと買い込んでも、シーズンのうちに着られるのは数回、翌年に着られても数回。それで流行が終わって着られなくなる。すると勿体なくて、結局は普段着だけを買うようになってしまうんです」

「でもお洒落な女性がいるなと思ったぐらい。それが貴女で驚いたけれど。でも、華やぐ多恵子さんもいいもんだね」

 お世辞ではなく本音で。そして三浦は多恵子を見て言うのではなく、自分が描いている多恵子に真顔で告げていた。それでもスケッチのために見上げる彼女が嬉しそうに微笑んでいる。

「お友達とのお出かけも、それほどありませんし。だから今日……。実はこちらのカフェがギャラリーだということは前から知っていたのですが、一人ではいるにはちょっと敷居が高くて――。先生と入れると分かって、張り切ってお洒落してみました」

「敷居なんて高くないよ。お店の人だって気軽に入って欲しいと思っているし、僕たち画家は沢山の人に絵を見て欲しいからね」

「そうですね。これからは気楽に覗いてみます。とっても落ち着く雰囲気だし、絵と一緒にお茶が味わえるのはそれだけで楽しいと分かりましたから」

 うん。今日は素敵な彼女だなあと、三浦はしっとりとした眼差しに仕上げたスケッチを眺める。

 夫を信じている強い女性の眼差し。それこそ、そこに彼女の女性としての一番の色気を見たような気になったのだ。

 なのに。それがとても素晴らしいと感動させてもらいながらも、どこか三浦は寂しさを感じてもいた。

 互いの一杯が終わる頃、二人は他愛もない会話を重ねていた。

 彼女が一杯のお茶を飲んでいる間のスケッチ、数枚。カップが空になり彼女がそれらを眺める。

「今日の私はこんな顔なんですか」

「うん」

 黒髪に黒目。鼻筋に唇。表情だけのスケッチ。いつも全身画を描く三浦を見てきた多恵子には新鮮だったようだ。そして、いつものように三浦の絵を慈しむ眼差しで見つめ、多恵子は静かに微笑んでいる。だが、その喜びとは裏腹のことを彼女が言いだす。

「先生が私を見て、ありきたりな主婦としての魅力を追究してくださって感激しているんですけど」

 どこか寂しそうに彼女がスケッチブックをテーブルに置き、ゆっくりとした手つきで三浦に返してくれる。その顔、いつも三浦の絵を心から受け入れてくれている彼女の顔とは違っていた。

「僕のスケッチ。なにかおかしかったかな」

 まるでいつかのように。一度だけ、彼女が三浦のスケッチを見てがっかりした顔をした時のように――。

「いいえ。先生、この絵をスケッチを私にくださいませんか」

「気に入ってくれた、のだよね」

 自信なさげに問うてみる三浦。意中の女性に自分の気持ちを否定されるかどうか、そんな気持ち。

「はい。きっと先生なら、今日の私を『いつもと違う顔』で描いてくださると信じていました」

 今度の多恵子は、どこか切ない眼差しで三浦を見ている。三浦の胸が急に、忙しく動き出したような気がした。

「それ、どういうことかな」

 また寂しそうな顔で、多恵子がそれでもどこか致し方ない顔で緩く微笑んでいる。何かを裏切られたかのような、そんな顔。スケッチは気に入っているが、でも、彼女にとっては何かしらがっかりしているかのような。三浦にはそこが腑に落ちない感触。

「勿論、私は『ありきたりな平凡な女』で間違いありませんし、自分でも自覚しています。そうでなければ、先生と一緒に真っ正面向き合って『日常』は出来上がらなかったと思っています。出来上がった時は嬉しかった。私のような冴えない平凡な女が裸婦画の第一線にいらっしゃる画伯の目と手で、私という『存在感』を引き出し、描ききってくれて――」

 毛先のカールを彼女が軽くつまむ。その毛先を彼女が遠い目で見つめる。

「確かに私達主婦は、ありふれていて平凡で一般的で、それでこその魅力があると解っているんです。そして先生が今回の創作でそこに惹かれたことも。だから、私、それが認められたのが嬉しくて、だから、『いつもの私』としてアトリエに通っていました。でもね――先生、『主婦にも、主婦それぞれの個性と感性』があるんですよ」

「そりゃ、誰でも個性はあると僕だって……」

 と頭で解っていることを三浦は呟いてみたのだが。どうしたのだろうか。多恵子の言葉に引き込まれ始め、なにかを気付き始めている自分がいるような……。その時、三浦は手元に戻ってきた多恵子の目を描いたスケッチを見た。

「これまたありきたりな女である私の、ありきたりな気持ちかもしれないけれど。少なくとも私は『私だけの魅力』を見て欲しいと、そう思っている自分がいるんです」

 目の前の多恵子の目と、先程のスケッチをした多恵子の目が重なった。三浦の目に、濡れた黒目、そしてスケッチの三浦を見つめる目。

 ――まただ。また多恵子を見て、何かが走り出す。

「つまり。今日の貴女は、貴女自身が見せたかった、貴女の『個性』とか『魅力』というものだと」

「その先生のスケッチ。それが今日、私が望んだ姿なんですよね。カンバスではないけれど、スケッチでも見てみたかったので嬉しかったです」

 ようやっと微笑んでくれた多恵子だが、黒目は切なく寂しそうなままだった。

「なかなか気が付いてもらえないんです。流されていくんです『私達』。今日のように、必死に前面に出しても、自分だけで終わってしまうことが多いんです」

 そして多恵子が三浦に言う。

「先生に見つけてもらって満足しました。だから、そのスケッチをください」

 多恵子の手が、三浦の手元にあるスケッチブックに伸びてきた。どうしてもその絵だけは獲得したい。そんな必死さが彼女の指先に――。

 本番のカンバスではない。ただの習作スケッチ。モデルをしているのに、それでも私の本心である『多恵子という女』が一瞬で描かれてしまうクロッキーとして紙の上でさえも流され過ぎ去っていく。それでも、それでも、画伯が描き留めたその瞬間だけは取っておきたい。そんな彼女の声が聞こえてきた。

「駄目だ。これは君にあげることはできない」

 そのスケッチブックを獲ろうとしている手を、三浦はがっしりと掴んだ。見上げると彼女の、今までにない寂しそうな顔。

「僕が、画家である僕が、間違っていた」

 この女は、表現者だ。間違いなく。少なくとも三浦の中では逸材だ。目が覚めた。彼女を『ありきたり』だなんて――。いや『ありきたり』でありながら、彼女はそこで真摯に生きているのだと。だからきっと。

 暫し、二人の視線が絡まる。互いの今ある想いがぶつかっているようだった。

「先生は間違っていません」

「でも、君から言われなくては気が付かなかったかもしれない。見過ごしていたかもしれない」

「それが主婦です」

 まるで彼女に、常日頃のやるせなさを訴えられているような気持ちにさせられた。

 そっと彼女の手を放し、三浦はスケッチブックを閉じ、席を立ち上がった。

「出ようか」

 多恵子を見下ろすと、彼女も何かが通じたように頷きコートを手にした。

「時間は、大丈夫かい」

「はい。大丈夫です」

 その会話が何を意味しているか。しっかりと彼女には通じていたようだ。

 二人はカフェを出ると、目の鼻の先にあるアトリエへと足が向いていた。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 いつものように二人はアトリエに入った。

 油の匂いに満ちた、いつもの二人だけの部屋に。


 イーゼルには昨日、急に書き始めた『息子と見つめ合う着衣の婦人画』。だが三浦はそれを除けてしまう。それとは別に、大輔に使わせた小型のイーゼルにスケッチブックもセットした。二つのイーゼルを傍らに椅子を置き、そこに座る。カウンターを引き寄せ、三浦は木炭を手にした。


 いつものカウチソファーの前では、コートを脱ぎブラウス姿になった多恵子。

 胸いっぱいに華やかにそよぐフリルブラウス。そのフリルの波を指先がくぐっていく。今から彼女が脱ごうとしているのだ。

 いつもならここで彼女がガウンを着て準備を整えるまで、三浦は外で待っているのだが。


「画家の我が儘を言って良いかな」

 昨日の取りかかり始めたばかりの作品を除けたイーゼル。三浦はそこにかなり大型のカンバスを置いた。三浦の身体も隠れてしまうほどのカンバス。下塗りもしていない真っ白な。そして真横には予備に置いたスケッチブックのイーゼル。

「なんでしょうか」

 いつも以上に、多恵子と出会ってからいつも以上に。突然に『描こう』とやってきたアトリエでの画家のフルセットの姿勢。それでも多恵子も怯むことなく、どっしりと構えてくれているようだ。だから三浦も遠慮なく多恵子に言ってみる。

「脱ぐところから、見てみたい」

 そして多恵子はそこも決して狼狽えなかった。三浦を真っ直ぐに見ている。

 化粧をしている彼女。黒髪を華やかにセットしてきた彼女。そしてスタイリッシュにお洒落をしてきた彼女。『私は女だ』と訴えてきた彼女。その気持ちを高めてきた彼女が今から脱ぐ。それすらも三浦は眺めてカンバスにぶつけたいのだ。

「いいですよ、先生」

 予定外の創作時間。予定外のモデル。二人の向かうところは一緒で、覚悟も決まっている。それならと三浦はもう一歩踏み込んでみる。

「もっと許してもらえるなら――。僕が脱がせてみたい」

 さあ、多恵子がどう反応するか。しかしもう、三浦にも彼女の返事を恐れる躊躇いはなかった。そして多恵子が三浦を見つめて言う。

「どうぞ……。先生」

 そっと彼女が目をつむった。


 柔らかい陽射しが二人の足下だけを照らしている。

 そんな中、三浦と多恵子はまるで男と女のように向き合い始める。

 三浦の指先が多恵子の首筋に触れ、そっとそのままブラウスの襟をなぞり、彼女の首元の第一ボタンへと向かう。

「今日のコンセプトは――『偶然』だ」

「はい」

 柔らかに目をつむっている多恵子。いつもより明るい桃色の、艶めくルージュに包まれ光を捕まえている唇がそっと動いたが、三浦はぐっと堪えるようにただ見つめるだけ。

「今日出会った一瞬を描く」

 多恵子がようやっと目を開け、三浦の目を見上げている。

「描いてください、先生――。私も見てみたい」

 真っ直ぐに見つめる彼女。

 三浦は静かに頷き、ブラウスのボタンをゆっくりと外し始める。


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