裸婦を眺める少年 4

 メニューを眺めている多恵子を、三浦は変わらずにしげしげと眺めてしまっていた。

「ウインナコーヒーにします」

 先生、どうぞ。と、多恵子がメニューを渡してくれる。

「いや。僕は馴染みだから決まっているのだよ」

「そうでしたか」

 そのまま多恵子はメニューをたたんでしまう。

 顔馴染みの店員に三浦はオーダーを済ませ、再度、別人のような多恵子と向き合う。

「おかしいな。多恵子さんは紅茶派のはずなのに――」

 そんなことを問いたいわけではないのに。それとない話題で戸惑っている自分を誤魔化している三浦。

「そうなのですけれど。こんなに珈琲のいい匂いがしてしまうと、せっかくだからと珈琲を飲まずにはいられなくなります」

「なるほど」

 それもそうだと、三浦は妙に納得させられ顎をさすった。

「昨日は、唐突に息子を連れてきてしまい、申し訳ありませんでした」

 今日の本題だった。多恵子から切り出し、そして丁寧に詫びてくれる。いつものきっちりとした礼儀正しい仕草は、三浦がよく見ている多恵子のままだった。

「そのうえ。あのように息子が喜ぶほどに面倒を見てくださって……」

 そこは母として嬉しいやら、しかし契約違反を犯したかのような申し訳なさか、とても複雑そうに彼女の表情が入り交じる。

「まあ、見ていて。僕だけの憶測だけれど、なんとなく分かりましたよ」

「と、仰いますと」

 やや不機嫌に応じた三浦がなにを憶測したのかと不安そうな多恵子。

「大輔君、来年は受験だね。そして大いに夢を抱く少年期。しかも思春期だ。親御さんとしてもあれこれ、複雑な少年の心をコントロールするには色々あるのだろうなと」

「ええ、まあ……。そんなところです」

 降参したように、多恵子の肩の力がすうっと抜けていくのを三浦は見た。

「先生の美大に行かれた息子さんは、大輔ぐらいの時はどうだったのでしょう」

 少しばかり答えにくい質問であったが、三浦もそこは一歩踏む込む覚悟で答える。

「いや。僕の場合、息子が小学校に上がる前に離婚して、別れた妻に任せたからね。本当は偉そうなことは言えないんだけれど――」

 多恵子のハッとした顔。

「すみません。私……」

「いやいや、いいのだよ。本当のことだし、いずれ多恵子さんと話していれば知られることだと思っていたからね」

 ――本当は勘づいていただろう? そう言いたくて言えなかった。どう見ても今の三浦は『家庭なしのやもめ男』だ。息子もいるのに一人であれば、いちいち報告しなくても既にバツイチであることは容易に想像できる暮らしぶり。

「そこは貴女も分かっていたでしょうけれどね。だから、本当は息子が成長していくのを日々見守っていたわけじゃないんだよ」

「ですけれど。お聞きしていた分には、息子さんとは時々会われていたみたいですね」

「うん。年に数回、かな。家庭を出てから、つまり広島を出てから、僕は気ままに日本全国を渡り歩いて絵を描いてきたから」

「息子さんは自然と絵に興味をもたれたのですか」

「みたいだね。きっと別れた妻に迷いはなかったと思う。強制的でもなかったようだし、僕の息子だからきっと――と信じて導いていたと思うんだ。大輔君ぐらいの年齢になると、息子も既に美術の道へ向かう意志を明らかにしていたからね」

「奥様が迷いなく……ですか……」

 そこで多恵子が考え込んでしまった。

 今日、小雪がちらつく中、思いがけずに出会った別人のような多恵子だったが。こうして話してみると表情だって仕草だって言葉だっていつもの彼女で、三浦にも次第に馴染んできてほっとした。

「まさか多恵子さん。来年の受験を目の前に思い切って、美術の道一本でとか考えていませんよね」

 彼女がアトリエまで息子を連れてきてしまったこと。そして息子に良い感性を目覚めさせたい為に無碍に裸体を晒そうとしたこと。どんなに落ち着いている彼女でも、あれは彼女らしくない暴走だったと三浦は思っている。そこまで思い詰めているなら、彼女がそんな息子への道を用意しようと考えていることもあり得る気がしたのだ。

「いいえ。私にはその勇気はありません」

 少しばかり疲れ切った様子で多恵子が力無く首を振った。

 三浦はほっとした反面。そんな彼女が急にしぼんだ様子を痛々しく思ってしまった。

 だが、三浦が思い描いていた憶測はほぼ正解だったようだ。それを多恵子が話してくれた。

「あのように大輔はすっかり美術に夢中です。学生時代、美術を楽しんでいた母としてはその気持ちも良くわかるんです。ですが、以前、先生にもお話ししたとおりに、高校の美術部で既に様々な才能に触れて挫折した私です。実際に高校道美展で入選したこともありませんし。好きなだけではなかなかということもありますから」

 多恵子の言いたいことも分かるので、三浦も唸った。

「先生の息子さんは、三浦画伯の血筋があります。ですが大輔の血は、挫折した母の血です」

 明らかな違いを口にする多恵子に、三浦はどう言えばよいか分からなくなる。確かに自分はなにもしないうちに、自然と息子は美大生になっていたのだから。

「でも好きなものはやらせてあげたいのも親心です。実際に、今の大輔の長けているものと言えば、その美術ですし――」

 だけれど、それをどこまでさせてあげれば良いのか分からない。どうせなら良い教育をさせてあげたいということのようだった。

「今の子は皆、学習塾に通うのはあたりまえなんです。それに併せて絵画教室は、一般家庭である我が家にはちょっと無理です。だけれど、大輔はその教室にいきたいいきたいと――」

 思春期の少年。そんな言い合いをしているうちに、大輔が口を利かなくなってきた。多恵子がそこまで話してくれた。

「思いあまって、お母さんの新しい仕事は画家のアトリエのお手伝いで――。そう話しかけてしまったのがきっかけで。あとは嘘がつけなくなって、裸婦モデルをしていること。そして先生に会わせてあげる約束までしてしまいました」

 三浦の予想はほぼ当たっていた。母親としての焦燥を、つい本職と関わっているが為にアトリエに持ち込んでしまったのだと……。そこで三浦は思いきって聞いてみた。

「大輔君のお父さんは、なんと」

 つまり多恵子のご主人はどう思っているのかと言うこと。まさか多恵子の家庭にこのように触れてしまうとは、興味があったような、彼女だけを描きたかった画家としていたかったような複雑な気持ちではある。

「主人も同じです。それが大輔の才能なら伸ばしてやりたいと。ただ、まだ早すぎるという意見です。高校まではクラブ程度でいいのではないかと」

 多恵子と対立をしているわけでもないようだし、きちんと話し合ってはいるようで三浦は安堵する。ただ――。

「大輔君を、僕のアトリエに連れてきてしまったことは」

「いいえ。まだ……。モデルの仕事をしていることも……まだ」

 分かっていたが、今度は三浦に不安が襲う。

「子供に先に知られてしまっては、大輔君の口を止めても、子供にプレッシャーがかかるでしょう」

 多恵子の順序がちぐはぐになっている今回の件。三浦もなるべく安定した環境で創作に専念したいため、普段はモデルのプライベートには関心を持たないのだが、今度ばかりは見過ごせなかった。それでも仕方がないかとも思う。『素人の一般人で主婦』である多恵子を、この世界にひっぱりこんだのは間違いなく三浦だ。その彼女の家庭で波風が立っても仕様がない。そこは多恵子の家庭の範囲のこと。それでも――。モデルのプライベートのいざこざで今回の、やっと見つけた新たなる創作を手放すのは画家としては許せないのも本音だった。

「大丈夫です。大輔には今は『お父さんには言わないで』と、確かにそうして口止めしています。でも『近いうちにお父さんにもきちんと話す』と約束しています。必ず近いうちに主人にも報告しますから……」

 いや、それも困る! 三浦の直感だった。

 ありきたりな彼女の、ありふれた家庭の、そんな彼女の夫もきっと極々一般的な男性に違いない。そんな男性は妻の肌を簡単には他の男に貸しはしないだろう。

 多恵子の家庭が荒れる。そして、彼女がアトリエには来られなくなる。三浦とはそれで終わる――。もっともっと、彼女の奥底にはなにかがあると信じている三浦にはこんなにも中途半端で手放してしまうのは困ることなのだ。

 しかし大輔を既に巻き込んでしまっている。年端もゆかぬ少年を、大人の芸術だか事情だか区別も付かない曖昧な世界に。もう三浦画伯だけの『モデル多恵子』だけではやっていけない環境へと崩れ始めているのだと。

「そうですか。きっと反対されるだろうな」

 覚悟を決めねばならぬのかと、三浦は項垂れた。だが意外なことが目の前で起きる。

「あら、先生。大丈夫ですわよ。『彼』は私が美術をやっていたことも、今でもほんの少し未練を残して美術館に絵を見に行くことだって良く知っています。結婚前、私、彼をスケッチしてあげたぐらいですから。夫も、大輔は私の方に似たんだなと、いつも笑っています」

 意外とさっぱりとした笑顔がそこにあり、三浦は呆気にとられてしまった。

「でも。奥さんが見知らぬ男の目の前で、内緒で裸になっているんですよ」

「内緒にしていたのは、きちんと謝ります。きっと分かってくれます」

 多恵子の目は、三浦を捉えて離さなかった。しかしその目が三浦を見ているのかと思った時、『そうじゃない。彼女は心底信じてる夫を見つめている』と思ったのだった。


 愕然としたものが三浦の心にじわじわと広がっていくのを感じ始めていた。

 ――彼女と夫。もとい、彼女と彼。

 ありきたりの一般家庭の夫妻。そう決めつけていた。しかしそれは三浦の考えが間違っているのではないかと。

 彼女と彼は、心底愛し合い、そして夫妻になり、そして今も……心底信じ合ってなにもかもを分かち合っている理想的な夫妻なのだろうかと。

 そうでなければ、多恵子のその揺るがない夫を信じている眼差しの強さはなんだというのだろうか。


 やがて、二人の手元に、二つのカップが届いた。

 三浦にはいつもの備前焼の和風カップに入れられたブレンド。多恵子には、金縁でピンク色の小花柄のカップ。こんもりと雪が積もったような生クリームがたっぷりと浮かんでいる豪華な珈琲。

 二人は暫し黙り、互いが待っていた一杯で一息入れる。


「ご主人に、今日までの秘密を打ち明けること、怖くないのかな」

「ええ、そうですね。怖いですよ。きっとびっくりして多少は怒って叱ると思います。少しの間、喧嘩ばかりするかもしれません。でも私、きっと説得してみます。彼だって分かってくれます。ですから先生は心配しないでくださいね」

 愛らしいカップを手にして多恵子が一口、珈琲を飲む。そしてすぐにいつものころんとした黒目で、ふわりと微笑んでくれる。三浦も好いているその優しさと暖かさをみせられて、本当に大丈夫なのかもしれないと安心させられてしまいそうになった。

「僕が貴女の家庭に首をつっこむのは良くないと分かっています。でも、何かあったら遠慮しないで相談ぐらいはしてほしい」

 モデルに今まで決して言わなかったことだった。知らぬ間に拳を握っていることに三浦は気が付いた。それほどに手放したくなくなっているのかと。

「有り難うございます、先生。でも私もまだ、先生との創作を投げ出したくありませんから、信じてくださいませ」

 時々、彼女はとても寛いなと三浦は思うのだ。悠々とした大地の懐に優しく三浦をおいてくれているような安心感がある。それは女性特有の大らかさなのか、それともそれが子供を育てている母性を知っている者の強さなのか。それは男の三浦にはまったく分からなかった。


 だが今、強烈に三浦に迫り来るものがあった。

 目の前に、別人のような多恵子がいるのに、そこにはやはり多恵子がいて、でも知らない多恵子も知った気がして。


 手元にそれとなく置いていた会報誌。その間に挟んでいた薄い小型のスケッチブック、そして鉛筆。三浦はおもむろにそれを取り出すと、カップを端にのけて、紙に向かい始める。

 こんなアトリエでもない外で、カフェの真ん中で、小さくとも白い画用紙にいつものように向かった三浦を見て、多恵子も戸惑っている。


「いいよ、そのままお茶を楽しんで。自然でいて」

 

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