裸婦を眺める少年 3

 なにも母を陵辱しているわけではない。

 そして不思議と多恵子は息子を目の前に、着衣を乱されても、狼狽えるような顔色は見せもしない。いつも三浦がポーズを指示する司る時と同様に従順だった。

 ポーズよりも多恵子がまとっている衣服の『柔らかさ』を出してみたかった三浦は、そこまでやって立ち上がり、多恵子を見下ろした。とりあえず、これでいいかと、もう一度大輔の隣、自分のイーゼルへと戻り、スケッチブックに向かう。

「お母さんの身体の線より、今日はお母さんが着ているガウンがとても柔らかくて薄いと言うことを意識して描いてごらん」

 側で着衣を崩している時は、やや大胆にエロティックに見えたものだが、こうして距離を置くと丁度良く崩れている。

「柔らかく……」

 大輔も雰囲気が変わったことが直ぐに理解できたようで、新しく替えた画用紙に描き始めると、三浦の目から見ても明らかな変化をみせてくれた。

 なかなか。この子はきちんと教えればそれなりにものに出来るかもしれない。多恵子と向かい合っていても感じていたが、多恵子は絵心に関しては敏感でモデルを始めると筋が良かった。その血筋を感じさせたのだ。

 大輔の線が柔らかさを意識し始めたことで、三浦もついに笑みがこぼれてしまい、さて、自分もと向かったのだが。――多恵子を見て、一瞬、何かがぴきんと三浦の頭上に舞い降りてきた感触。

「多恵子さん、髪をといてくれないか」

 急な三浦の、イーゼルの位置からの指示。戸惑う多恵子の顔。

「ほどいて、肩の上で、少し乱してみてくれ」

 いつにない強い口調の指示。それはカンバスに向かっている『三浦謙』の声。多恵子もそれに気が付いたのか、慌てるように束ねていた髪をとき、指示通りに肩先でくちゃくちゃといつかのように無造作な癖をだすように乱し始める。

「腰ひもをといて――」

 今度の多恵子は困惑顔。息子の目の前では裸婦モデルになることを反対していた三浦が、逆に大輔の目の前で肌を晒すような指示を出しているからなのだろう。しかし三浦は続けた。

「でも、脱がなくていい。乳房を少しだけ、こちらに見えるような見えないような微妙な感じに襟の袷を開いてくれないかな」

 戸惑っていた多恵子だが、それでも息子に見せたいと思って覚悟をしてきただけあってか、すぐに落ち着いて三浦の指示に従ってくれる。

 紐はとかれ、多恵子のふっくらとした腹部と臍が見える。息子を目の前にして、小股の陰部を隠す黒毛が僅かに覗く。

「もう少し、座っている角度を変えよう。ぐっと胸を右に向け、手はソファーについて」

 すると微かに見えていた小股も黒毛もガウンの身ごろで消えてしまう。裸婦としては露わになる赤い胸先も隠れ、乳房のふくらみだけがほんの少し見え隠れする程度になった。三浦は最後の指示を出す。

「それで息子さんを見て――」

 また多恵子の驚いた顔。

「大輔君、お母さんの目を見て描くんだ」

 大輔も何が起きているのか分からない顔。

 だが母子がそこで見つめ合う。母よりも先に息子が動き始める。大輔は真摯な目つきで母を見ると、鉛筆を動かし始めた。

 そして三浦も――。スケッチブックを取り払い、本日用意していた『新作』の為のカンバスをイーゼルに置く。絵の具やパレットを置いているカウンターを忙しく手元に寄せ、木炭を取りカンバスに向かった。

「せ、先生?」

 心の準備が出来ていなかっただろう多恵子の、訝る声。それでも三浦は黙って続ける。そして一言だけ、多恵子に告げた。

「本番だ。黙ってそのまま。貴女は息子さんを見つめて、息子さんに描かれているんだ」

 着衣で結構。きっぱりとそれだけ告げると、多恵子の表情も一変する。ここが多恵子の素晴らしいところだ。

 突然やってきた本番。モデルとして表現者として、画家にどのようなムードを与えれば良いのか。第一作目『日常』で既にそれを得ている多恵子にとっては一発だった。

 彼女の目が息子を愛おしそうに見つめる。柔らかな眼差しで。三浦はそれを取り憑かれたようにカンバスに描き写した。

 その気迫に気圧されたのか、大輔も拙いながらもすらすらと、迷いなく、着衣を乱された母を一心不乱にスケッチしている。


 だが大輔は既に無意識に感じてくれていると三浦は確信してる。着衣を乱され、息子の目の前でももう裸婦同然に裸体線を画家の手によって醸し出され女の匂いを引き出された母を見て。乱されたのではない。陵辱されているのではない。母の母としての女性としての雰囲気を引き出されたのだと。

 だから彼が言ってくれた。

「母さんって、こんなに綺麗だったかなあ。先生の指示だからかなあ」

 三浦は満足だった。そしてそれを引き出した自分も今しかないとばかりに、多恵子に向かう。

 彼女はまるで、出産を終えたばかりの母のような優美さ。姿勢や身だしなみがやや崩れていても、どんな姿になろうと無我夢中で大仕事を終え、ようやっと手に入れた子供を見つめている。そんな姿を見せてくれているようだった。


 その日の終わり。母と帰り支度をしている大輔は嬉々としていた。

「先生、すごかった。有り難うございました。また、ここに来る日を楽しみにしています」

 来た時とはうってかわって溌剌とした少年の笑顔。

 三浦としては突然の創作降臨に、やや茫然としているところはあるが、そこは一人の『おじさん』としての余裕で『またおいで』と微笑んでみせる。

 そして帰り際、多恵子にそっと耳打ちをした。

「明日、モデルの仕事とは別に僕と会ってください。こんなこと。黙って僕は見過ごしませんよ」

 本日の事情はきっちりと説明してもらう所存だった。そこで忘れていたことを思い出したように多恵子が俯いた。

「貴重な創作の時間でしたのに。申し訳ございませんでした」

「藤岡画廊の向かいにある、角のカフェ。明日の十三時。そこで待っているよ」

 学生バッグに道具をしまい終えた大輔が『お母さん』と声をかけてきた為、そこでひっそりと向かい合っていた二人は離れる。

 多恵子の返事はなかったが、三浦としては半ば強制的に言い渡した約束だった。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 晴れているのに。青空でも、ほんの少しの小雪が舞い降りてくるようになった。

 市街から見える外周の山々は既に冠雪。昨夜は冷え込む夜だった。それだけ上空は凍るほどの気温なのか、このようにうららかな午後でも小雪が舞い降りてくるようになったのだろう。外に出ると空気が鋭く頬に突き刺さるような感触。広島出身の三浦としてはこの時期で既にとてつもない寒さに感じるが、こんなのまだまだ。これから北の都市はもっと手厳しく凍る季節へと走り出す。


 黒いダウンジャケットを羽織り、美術会の月報を小脇に、三浦はいきつけのカフェへと向かう。

 いつも通りの外出。暇さえあれば画廊で同期生の藤岡氏と気ままな談話のお茶。でなければ、向かい角地のカフェで一人気分転換の時間を堪能する。そんな三浦の場所だった。

 藤岡画廊の周辺は画廊屋画材屋が多い。ちょっとしたレストランもある。カフェもいわゆる画廊喫茶というもので、藤岡氏とは先代から長きつきあいである御陰で、三浦の裸婦画も飾ってくれている。画家の三浦にはとても居やすい街というわけだ。


 ブリティッシュなエントランスには、これからの季節に合わせてか小型のもみの木が両脇に置かれている。濃い緑の針葉樹、枝先にちらちらと小雪が乗っている。

 古びた木造の階段を上がろうとした時、三浦は人影を感じそこへと見上げてみた。木造太枠のガラスドアの前に、とてもスタイリッシュな女性がたたずんでいた。

 柔らかいグレーのファー襟、真っ白なハーフコート。ブランドもののハンドバッグを片手に、チャコールグレーのフリルブラウス。そして白いタイトスカートに、ブーツ。ふんわりと毛先をカールさせている、シックな佇まいの中年女性。だが三浦がそこで立ち止まってしまったのは、ブーツに見覚えがあったからだ。それが誰か分かって、でも信じられずに階段の下から見上げていると、そこにいる女性が良く知っている柔らかさで微笑みかけ、小さく三浦に手を振った。

「先生、こんにちは」

 多恵子だった。別人かと思った。三浦はあんぐりと情けない口を開けているのではないかと思うほどに、そこに放心状態で立たされていた。


 

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