裸婦を眺める少年 2

 ふわりとした冬素材の白いガウン。息子の目を気にしてか、胸元が見えないようにそこだけはきっちりと袷を整え、ソファーに座った多恵子。

 息子もやや怪訝そうだったが、彼はそれよりも、絵描きを本業にしている三浦がどのような指導をしてくれるのかと、ひたすらに見つめてくるのだ。彼にとっては、母親が肌を見せる見せないではなく、今日に限っては『絵描きさんが僕の絵を見てくれる』という期待が先立っているようだった。

 そんな少年の純真な眼差しには三浦も『母が裸婦モデル云々』を言う気にはなれなかった。実際に、母親は裸婦になる一歩手前で踏みとどまり、とりあえずガウン一枚の着衣モデルで収まっているのだから。


 呆れたため息を小さくこぼし、三浦は大輔の横につくことにした。

「力を抜いて、いつものように鉛筆を持って描いてみてごらん」

 大人の事情の波風。それを今日はとりあえず横に置き、三浦は大輔に微笑みかけてみた。彼からやや硬い表情の頷きが返ってくる。

 やはり慣れているのか、大輔はまずは柔らかいB4の鉛筆を手に取った。持ち方もきちんとしていた。鉛筆削りを使わない、カッターナイフで描きやすいように長めに芯が出るようデッサン用に整えられた鉛筆を握る。デッサンの場合、字を書くような握り方はしない。横に持ち、紙と平行になるように持つ。母に教わったのか、美術教師に習ったのか。ともかくそこはとても慣れているようだ。

 大輔が緊張した面持ちで、ガウン姿の母を眺め、三浦が用意した画用紙に線を描き始める。

 まずは自由に描かせてみることにする。大輔の手つきを、あまりにも見守っていると、彼が余計に萎縮すると思い、三浦もスケッチブックをイーゼルに置き、大輔の直ぐ隣で鉛筆を持って同じようにクロッキーを始める。


 恐る恐る、なんとか上手く描こうと硬くなっている少年の手。

 水が流れるが如く、ガウンを着ている女性をすらすらと描き始める画家の手。


 当然と言えば当然だが、そのタッチには歴然の差がある。

 それを知ったのか、大輔が描く手を止め、唖然とした顔で三浦の手元に魅入っていた。それも分かっていて、三浦はそのまま平然と少年の母をスケッチする。

「先生、早い」

「クロッキーは時間を掛けて描く物じゃない、一瞬の習作だよ。とにかくその一瞬をたくさん描くんだ」

「線がとっても綺麗だ」

「特に女性を描く時は、女性特有の丸みを大事にしないといけない」

 大輔の喉がごくりと鳴ったような気がした。そして少年が感化されたように画用紙に再度挑む。三浦もそっと見守る。

 ただ、まだまだ拙い線は否めない。母の身体の丸みを想像する余地もないようだ。線は固く、そして母が着ているガウンの柔らかさも表現できない。当然と言えば当然だが、見える線をとにかく拾ってみたという段階だろう。それを咎めようとも思わない。しかしそれをどう分からせるかが問題なのだ。

 そして三浦はようやっと理解した気がし、はっとしガウン一枚の多恵子をつい見てしまったのだ。

 まさか。息子に『線の柔らかさ』を、生身の裸体を描かせることで解らせようとしたのかと。そうおもうと三浦もここまで来た画家として頷けるものがあった。まだ少年である息子に生身の女性の裸体を見せるには早すぎる。母自ら自宅で裸になるのも妙な雰囲気になるだけだろうし、かといって学友の少女に頼むことだって出来るわけでもなく。だったらそれ相応の資料……って、なんだか三浦には少年にはいかがわしすぎる雑誌なんかが浮かんだりして、思わず首を振ってしまったぐらいだ。

 アトリエと画家と芸術を追究する関係で全裸になる女性モデル。そのムードの中で、少年に本格的な刺激を母として与えたかったのだろうかと。それなら三浦も唸ってしまう。だが……それは……。

 眺めているとやはり、大輔の線は固い。しかも上手く線を拾うとする為に、なんども同じところをなぞってしまい、徐々に線が太くなる。

「いいかい、大輔君。本物の裸婦を描くようになると、もっと線がなめらかでないといけない。途切れ途切れの線は良くない何度もなぞるのも線のなめらかさを奪ってしまう。だから一気描きのクロッキーを重ねることが大事なんだよ。裸婦だけじゃない、人物を描く上では、服の下にある人の身体の線を意識する、その為にはその感覚をまず知っていなくてはいけないんだ」

 何度もなぞって何本もの線が重なったところで、大輔が鉛筆の芯を止める。そして隣にある三浦がさっと描いたクロッキーと見比べて、とても納得した真剣な顔。

「裸の線は大事。だから母さんは俺に裸を?」

 大輔が母を見る。そうすると多恵子がそれを言いたくても、やはり自分からはなかなか言い出せない様子で戸惑っている。なのに、彼女の手が今にもガウンの紐を解いて、息子のために裸体を晒しそうだったので三浦は慌てた。

「だからとて、本物の線に向かうにはまだ大輔君は基礎がない。先生もそうだったよ。こういう線だった。何事にもデッサンとクロッキーだ。そうだ。今度ビーナス像の石膏を用意してあげるよ。まずは石膏で女性の裸体線の感触を掴んでみよう」

「先生。俺、また来ていいの?」

 三浦は少年に微笑む。

「いいよ。そこはお母さんと先生で話しておこう。多恵子さんもそれでいいね」

 多恵子の申し訳なさそうに俯いた顔がそこにあった。そして彼女がちいさく『はい』と答える。

 彼女も母としてそうして先走りしてしまったのだろうか。いつも控えめながらきっちりとしている多恵子であったが、彼女にもそんなことがあるのだなと驚かされた三浦だった。

 それとも、それが『母たるもの』なのだろうか。

 自分は、妻に息子を任せて出て行った男だから、妻が子供を育てる姿を知らない。そんな男。でも、妻もそうだったのだろうか? どうしてか。多恵子を見ていると、時々そう思ってしまう。また彼女が同じように美術に興味を持ち始めた息子を持つ母だけに――。


 


 なんとか落ち着いたところで、大輔はガウン一枚でモデルを務めている母を真剣にスケッチしていた。

 三浦もその横で、ようやっと多恵子と向かい合う。

 いつもなら。そこで素肌でいる多恵子と向き合っているはずなのだが。そして本日は新しい彼女を探ろうとモチベーションがあがっていたのだが。このような事態になったことを責めようとは思わないが、どうあっても既に彼女の裸体を知ってしまっているだけに、着衣の多恵子を描く手が億劫そうで退屈で、三浦は己の手を持て余していた。さらに隣の少年の、衣服の柔らかさを描き出せない真っ直ぐで固い線。それを見守っているうちに、どうにも、自分が描いている多恵子も、『直線婦人』になってしまいそうで、調子が狂っている。

 ついに耐えられず、三浦は立ち上がった。楚々と座っている多恵子の元へ向かう。いつものように、彼女の足下に跪いて彼女を見上げた。

「悪いね。少し崩すよ」

 きっちりしている多恵子らしい襟元に三浦は手を伸ばす。襟の袷を開き胸元をかなり大胆に崩した。鎖骨が見え、もう少しで彼女の乳房の谷間が見えそうなほどに。それどころか、三浦は多恵子がきつく結んだガウンの紐も解き、改めてゆるやかに締め直す、さらに足下の裾も少しばかり乱した。

 息子を目の前に、母の着衣を乱している行為をしているのは解っている。だがもう限界だった。裸婦が禁である本日ならば、そのギリギリに挑んでみようと三浦は思ったのだ。


 

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