3章 裸婦を眺める少年

裸婦を眺める少年 1

 いつもは多恵子のモデル時間が終わってから、慰労の一杯を二人で楽しんでいるのに。何故か、この日は多恵子が来て直ぐにお茶を飲むはめに。しかも、多恵子はリビングのソファーに座り込み、三浦が湯を沸かし、お茶の準備をしていた。


 キッチンから振り返ると、多恵子の目線は三浦が居る所にはなかった。

 リビングから見える、ドアが開いたアトリエ部屋を眺めている。

 紅茶葉を入れたティーポットに湯を注ぎ終えた三浦は、紅茶の抽出時間待ちの間、多恵子が見ている先へと同じように目線を向ける。


 アトリエの、三浦がいつも向かっているイーゼル。まだ何も描かれていない新しい下塗りを終えた大型キャンパスを、少年が眺めている。

 それだけでなく、カウンターに置いてある道具や絵の具、そして部屋の壁に無造作に重ねている様々な大きさのカンバス。彼はそれらを物珍しそうに眺めて歩いていた。

「大輔。先生の大事なお道具だから、触ったら駄目よ」

 ずっと息子を見守っていた多恵子から出てきたしっかりした口調。アトリエ部屋からは『わかっているよ』という、思春期の少年らしいややふてくされた様子のか細い声が返ってくる。

 そんな母子のやりとりに三浦は戸惑っていた。彼女から母性を感じ取っていたことはあるが、これだけ鮮明に母としての姿を目の当たりにしたのは当然ながら初めて。見知らぬ女性に鉢合わせをしたかのように、三浦は多恵子をしげしげと眺めてしう始末。


 紅茶が出来上がり、三浦は多恵子の前にティーカップを差し出し、自分もいつもの席に座り向かい合った。

「さて。どういうことでしょうかね、多恵子さん」

 一分でも勿体ない。契約金が……ということではなく、三浦としてはとても気分が乗る創作期に出会ったと思っていたために、少しでも早く多恵子の肌をこの目に触れさせ、筆を振るいたいのだ。

 第一作目のタイトル『日常』は、第一歩の作品とはいえ、三浦の創作意欲を盛り立ててくれたし、多恵子も素人という域を超える良い仕事をしてくれた。そのままの波長で次なる創作へと行くことに、三浦は心を躍らせていたのだ。

 なのに。どうして。信頼感を高めていたモデルの彼女から、こんな足止めを食らわすような行動に出てきたのか。それが理解できないと言うより、いつの間にこのようなことになってしまったのかという、半ば怒りに似たような気持ちにまでさせられていた。

 だが。多恵子はティーカップを手に取ることもせず、ただ黙っていた。そしていつかのように元より自信もないと決めつけている大人しい女性を思わせる無口さで俯いている。多恵子という女性の内面の魅力が表面化を始めていただけに、急に逆戻りにくすんでしまうと、三浦もなんだかガッカリさせられる。


 そんな黙っている母親を知ってか知らずか、アトリエを眺めていた少年がドアに立っていた。

「母さん、本当にモデルをやっていたんだ。俺、はったりだと思っていた」

 今度の彼は、思春期の少年を思わせていたぼそっとした小声ではない。確かにこの母の子だと三浦に確信をさせるほどに、多恵子にそっくりな芯のあるリンと鳴るような声。

 それを感じ取っただけで、三浦はひとまず『降参』してみることにした。多恵子に似ている、確かに彼女の息子だと思うと、どうにも憎めなくなってしまったのだ。

「大輔君も、紅茶を飲むかな」

「いいえ。いりません」

 これまた。いつもきちんとしている多恵子の子だと思わせる、きちんとした返答にも三浦はもう微笑みを浮かべてしまっていた。

「アトリエはどうだったかな」

「油の匂い、すごくいいなって」

「油絵を見たことは」

「母と美術館に行った時だけで。まだ学校で油彩をやっている人はいないし、美術クラブでも先生は油彩はまだ教えてくれない」

「美術クラブ。大輔君も絵をやってるんだね?」

 『はい』というしっかりした返事を聞き、三浦は多恵子を見たが、彼女はまだ目を合わせてくれなかった。

 だがなんとなく見えてきた気がした。つまり、多恵子の息子は、昔に美術を嗜んでいた母の血筋をいつの間にか受け継ぎ、そして母同様に美術に興味を持つようになったのだと。

 だとすれば。多恵子が息子をここに連れてきたのは、そんな息子の美術への興味のためだったのかと思えてきたのだ。

「大輔君は油彩をやってみたいのかな」

「いつかは。でも道具を見たら、すごいやりたくなりました。俺、絵描きさんに会うのも初めてだし、絵描きさんの本格的な道具を見たのも、描いている物をみたのも初めてで――。やっぱり、いつか描きたいです」

 それまで、そこで今俯いている母と同じように表情を見せない奥手そうな少年だったのに。絵の話をすればするほどに、大輔の目が輝いていく。そんな少年が三浦をじっと見つめているのだ。そんな少年の純粋な眼差しに見つめられることなど無かった三浦としては、それはなんとも初めての感触。本物の絵描きさんを嬉しそうに見つめる真っ直ぐな目に、逆に三浦が照れてしまいそう……。

「先生。あそこの壁に掛けてある『裸婦画』は、うちの母……なんですよね」

 大輔が肩越しに振り返る。現在、三浦が多恵子を描くための立ち位置にはイーゼル。その背後の壁には、第一作目の『日常』が無造作に立てかけてある。

 母が見知らぬ男の目の前で裸になって、密室で一ヶ月向き合って出来た作品。それを少年に見つけられてしまった気分は、自信作であれども、なんとも複雑ものだったのだが。

「一目でわかった。座り方が母さんの座り方だったし、体型も。精巧で写実的ではないのに、雰囲気だけですぐにわかった。すごい、あれが絵描きさんが描く絵なんだって」

 大輔の目がまた輝き、そして、とても感動した笑みを見せてくれたのだ。

 こんな少年に、しかもモデルの息子が『一目で母さんだとわかった』と言ってくれたなら、間違いなく多恵子の雰囲気を描き出すことが出来たのだと思うこともできた制作者としては、これはとても嬉しい評価でもあった。しかもまだ目が曇っていない、絵を描きたいという少年に、まっすぐに言われたことが。こんな歳を重ねた親父でも、素直に嬉しいものだった。

 しかも母の裸の絵を『裸婦画』と言い表した。それだけで三浦もわかった。この少年は、母から『美術』のなんたるかを既に語られ教えられてきたのだと。そうわかって多恵子をもう一度確かめると、やっと彼女が三浦の目を見て話し始めてくれる。

「大輔は今、中学二年生です。入学してから美術部に入っています。血筋と言えば……それはそれで自分が産んだ子が母と同じ物に興味を持ってくれたことは嬉しいことでした。親馬鹿かもしれませんが、小学生の頃から、なにを教えずとも大輔は絵が好きで。幾つか賞ももらって、彼が一番自信を持っているものでもあるんです。だから美術部に――」

 ふむ――と、三浦も顎をなぞりながら黙って聞き続ける。三浦がなにも挟まないので、多恵子もそのままの勢いで続ける。

「今はやはり基礎で、素描にデッサンをしています。私が絵を見に行くと言えば、近頃は積極的に息子も一緒に見に行くと言うほどで――。ですから、プロである先生の制作を一度でいいから見せてあげたいと……」

 ふむふむと三浦もそこまでは『なるほど』と、母が息子を連れてきてしまった訳に納得できそうだったのだが。それでも『裸婦制作現場を目の当たりにさせる』という申し出には、どうあっても納得できそうにない。どんなに母親が『女性の裸に芸術性がある』と育ちきっていない息子に叩き込んでいてもだ。間接的な鑑賞ならば『裸婦』作品をどんなに観てもそれは目の保養だろうが、母親が画家とはいえ、父親以外の男の目の前で裸になると言うシーンは、いまはまだ思春期の少年には刺激が強すぎる。芸術と頭でわかっても、まだ心はそれを受け止める器が出来ていないほど未熟である可能性が高いと三浦は思うのだ。

 多恵子の、『息子に本物の現場を――』という気持ちはわかる。だが……。三浦はどうしても賛成できない。

 しかし、それとは別に。母の裸婦画を目にしても息子としてあれだけ感動してくれては、今日の所は三浦も責めようがない。

「今はデッサンをしているんだね」

 大輔に微笑むと、彼が母そっくりの仕草で気恥ずかしそうに頷いた。

「スケッチブックは今日は?」

「あ、あります」

「おじさんに見せてくれないかな」

 そういうと、大輔は急にぴんと緊張したように背筋を伸ばし、それでもどこか興奮気味に持ってきたスポーツバッグを開け、探り始める。そこから良くある手頃なサイズのスケッチブックが出てきた。

「先生。申し訳ありません――」

 衝動的だったのか冷静に決意したことなのかはまだ三浦にも判らないが、多恵子がようやっと目が覚めたかのように、申し訳なさそうに頭を下げ詫びていた。

「いいよ。絵に興味がある少年を無碍には出来ないよ。育てられる芽なら育てたいのは今後の絵画界の為にも大事なことだからね」

 そして自分はいつの間にか、そんなことを考える年代の絵描きになりはじめていることも、ここのところ丁度感じていたことだった。

 大輔が差し出したスケッチブックを手に取ると、少年は母のすぐ隣に礼儀正しく座り込む。不安と期待が入り交じっているのか頬を紅潮さ、スケッチブックをめくる三浦の手元をただただ真っ直ぐに見つめている。なんとも初々しい様に、滅多に描くことはない少年像だがスケッチをしてみたなあ、などと思ったほどだった。


 スケッチブックには良くある石膏のデッサン。ブルータスや古典の哲学者、そして女神像のデッサンがいくつも描かれていた。それだけではない。彼が思いつくままに描いただろうクロッキーもあって驚かされた。

 そこにはエプロンをしてまな板で野菜を刻んでいる女性の後ろ姿もあった。

「もしかしてこれはお母さんかな」

「はい。石膏ばかりつまらないと先生に言ったら、身近な人のクロッキーをしてみたらどうかなと言われて、家で母を描いてみました」

 ほう、と、三浦は唸った。線はまだまだ初心者であり子供らしさも残っていて稚拙だったが、丁寧に描かれていた。しかも、多恵子の日常の姿が垣間見られ、三浦は妙な気持ちでかなり真剣に見入ってしまっていたのだ。

 他には制服姿の少年、少女も少々。学友と思われる。

「先生、どうですか」

 緊張している息子の代わりに、それこそ自分が描いた絵を診断されるかのように母親の多恵子が不安そうに尋ねてくる。

「うん。大輔君は、漫画を真似るところから絵を描き始めたのかな」

 と言った途端に、大輔はどっきりとした表情になり、暫し黙ってしまった。

「はい。漫画の絵を真似して……」

「その漫画を模写していた癖が残っているね。悪くはないよ。お母さんの雰囲気をよく捉えているし。ただ、線が漫画になっているところがあるね。あと硬いかな」

「駄目ですか、俺」

 しゅんとした少年を見て、『そうじゃないよ』と慌てて言いつくろう。相手は傷つきやすい思春期の少年だ。なかなか言葉選びも難しそうだが、三浦は率直に言いすぎたかと我に返り言い直す。

「悪いと言っているのでないよ。欠点だから直すべき所というよりかは、これから学んで意識して自分の物にしていく為に気をつけなくちゃいけない点ということだよ。だいたい大輔君の年代の、鉛筆を持って絵を描き始めた子供は、みな、このような感じなんだ。ええっと、おじさんの息子もそうだったよ」

「先生も息子さんがいるの」

「ああ、いるよ。なにせあちこちで絵を描いていたから、ずっと離れて暮らしていたけれど。会う時には彼もスケッチブックを見せてくれた。今は東京の美大生だよ」

 『ほんとに』と、大輔も明るくなった。

 それと同時に、三浦は『あれ』と首を傾げていた。こんなところで息子との触れ合いを口にしてしまうとは。それに気が付き、三浦は『もしかして』と多恵子を見てしまった。

 先日、息子が美大生だという話を耳にしたからかと、三浦はやっと気が付いたのだ。絵に夢中になる息子をどうすれば良いか。もしかして多恵子は三浦にそんな助けを求めてきたのかと――。そんな多恵子を見つめると、彼女はちょっと微笑みながらも、『ごめんなさい、先生』とでも言いたそうな目で見つめ返してくる。

 いや。そうなると、三浦も本当に何も言えなくなる。子育ては別れた妻に任せきりの不甲斐ない父親ではあったが、こと『美術』になるとそこを教えてきたのは確かに画家である父親の自分だった。

 もしかして多恵子はそんな美術に理解ある男の意見を求めていたのかと――。

 だったら? 彼女の夫は、この少年の父親は、理解を示していないのかとも思ってしまった。


 美術のことを教えることは出来るが、しかしながら、その道を推奨することは躊躇う。それは三浦が勧めてたとしても、多恵子が夫と話し合って決めるべきことだと思うからだ。

 多恵子のプライベートが垣間見れたことは新鮮だったが、しかしながら一家族のプライベートに関わることの重さを思い知ったような気もしたのだ。


 しかし。だからとて、そこで絵を描くことに希望を持ち始めた少年の心を無闇に突き放す気も、画家としてはまったくなかった。


「どうだろう。人物を描いてみたいなら、今日はお母さんをモデルにしたクロッキーを先生と描いてみようか」

「裸の?」

 それには三浦も面くらい、戸惑うしかなかったが。

「いやいや。服を着たままだよ。ねえ、お母さん。それでいいね」

 『いいね』と多恵子に念を押すように強く言い放つと、多恵子はそのままこっくりと頷いた。


 母子とアトリエに入り、三浦としては『初心者講座の先生』になった気分で、大輔のためのイーゼルをセットしたり、彼が持っている鉛筆の種類や使い方具合を確認してみたりした。中学生とは思えない鉛筆の揃え方に、描くためにきちんと手を使った鉛筆芯の削り方、そして『練りゴム』まで揃えている。まさにデッサンをする為の道具に準備が整っていた。そこには美術教師以上に母親の多恵子が揃えた物、教えた物だと言うことが窺え益々驚かされていた。

 そんな大輔の道具にばかり気を取られていた時、彼が急に『先生』と呼んだので顔を上げてみると――。

「母さんが裸になっているんだけれど」

 大輔が指さす方向を見て、三浦はギョッとしてしまった。

 なんとあれだけ念を押したのに、多恵子は息子と父親ではない男の目の前で、いつものように衣服を手早く脱いでしまっていたのだ。だが、いつもと脱ぎ方が違う。ある程度セーターやボトムなどのアウターを脱ぎ捨てると、さっとガウンを羽織り、男二人から背を向け、脱ぐところが見えないようランジェリーを取り払っていたのだ。

「ちょっと、多恵……いや、お母さん!」

 慌てる三浦の声も届かず。多恵子は素肌になった裸体をガウンで隠し、しっかりと腰ひもを締め、なに食わぬ顔でいつものソファーに座り込んだのだ。

「着衣です。先生、構いませんでしょう?」

 意志を固めている多恵子の目が、いつになく強く三浦を射抜いていた。

 これは母として? だとして母として何が目的なのか? 三浦にはまったく判らなかった。

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