肌に惚れる男 3

「いいよ、そのままで」

 すぐにイーゼルの前に立った三浦は、多恵子のパステル画を描いていたF4サイズのスケッチブックを取り払い、カウンターの棚に数冊重ねている中でも一番大きいF10サイズのスケッチブックを手にする。

 黒コンテを手にし、そのまま動かない多恵子に向かった。

 今日はそれだけでいい。前の乳房と彼女の小股が見えなくても。それだけでいい。ポーズなど三浦自身も思いつかない。何かの呪文を唱えるよう、そっと心で呟きコンテを振るう。


 多恵子は俯いていたが、徐々に顔を上げる。

 だが、三浦とは目を合わせてくれない。当然か。さらにイーゼルの方にも向かない。とにかく三浦が見えてはどうしようもなく恥ずかしいのだろう。だが徐々に、スケッチをしていた時の遠い目をする婦人へと落ち着いてくる多恵子の顔。彼女はそのまま窓の外を見ている。

 見ないで、見えても、そっとして。そして誰も私に触れないで――。

 そんな声が聞こえてきそうだ。だから三浦も多恵子が創りだしたこの空気を壊さないよう、そっと息を潜めるようにスケッチブックに向かう。

 三浦が思っていた以上の緊迫感がアトリエ部屋のシンとした空間をぎゅうっと締め付けていた。


 やがて三浦は黒を手放しパステルコンテを手に取る。水彩の筆すらも自由に操り出す。だが空気は多恵子任せ。三浦はただ片隅でひっそりと多恵子の空気の中にお邪魔している。そんな気持ちで、静かに静かに、でも早まる手を気持ちを抑えるようにイーゼルに向かう。 


 いつもの午前。もうすぐ正午。多恵子が帰る時間が迫ってくる。

 なのに、燦々と降り注ぐ午後始まりの陽射しの中――ついに多恵子がはらりと持っていたブラウスを取り払ってしまった。それがなんとも潔く――。

 そこに現れたのは、紛れもなく三浦が待ち望んでいたもの。

 新しい『裸婦』の誕生。その時すらも、三浦はそっと影に隠れて感動を抑え筆をひらすら握りしめていた。 


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 肌に極上の艶はない。でも良い色だ。これが画廊屋の彼が言っていた『雪国の女』の白さかとさえ思った。

 先日の、キャミソールの上から感じたラインとは全く異なった。ランジェリーで補正されていた乳房の丸みは、形作られた造形的なものだった。今日は違う――彼女だけが持つ生身の線を見せている。ゆるりとした乳房の線、ぷっくりとし程良く熟れた果実のよう。大きくはないが柔らかい放物線を下方へとゆっくりなだらかに描く丸みは、許されるなら触れてみたい愛らしさがあった。年齢的に張りがある美的なラインではなかったが、それこそが三浦が求めている生身の裸婦線。少しばかり熟れ落ちた乳房でも、その分つんと上を向く乳房の頂きがまたとても良い甘さを放っていた。乳頭の理想的な色彩としては淡い桜色がよく持て囃されるようだが、三浦の中ではそのような理想こそがあまりにも不自然というもの。多恵子の胸先は、くすんだ色合いこそが魅惑的なブラックティーローズと喩えたい。年齢相応の肌と乳房ではあるが、その胸先だけは艶々と色めいていて、どんな男もこれを目にしたならば誘われているように見てしまい、そして惑わされ吸い寄せられてしまうに違いない。今、三浦はそんな誘惑に包まれるがままに、コンテで乳房を描いている。

 いや、誘われていると錯覚しても……。男としての刺激もなくもないが、そこを起点とした絵描き三浦謙の描く力を与える刺激だ。

 まさに裸婦に適う艶めかしさ。特に程良くこなれて来た女性の裸線には味がある。いま、三浦の手をコンテを突き動かしているのは、間違いなく多恵子という裸婦だった。


 いいね、多恵子さん。凄く良いよ。

 乳房の形を描く三浦はそう声をかけたい。だが今の多恵子は少しでも触れようとすると、さっと飛び去ってしまう小鳥のように見える。だから三浦はひたすら黙って描き続けた。


 時間が過ぎていく。いつもの契約の時間もとうに過ぎた。

 多恵子が見つめている外、マンション下の歩道を歩き出す人が増えてきた。ここはマンションといっても、藤岡画廊がある通りから少ししか離れていない。どちらかというと小さなオフィスや店舗が集中している街並み。今からランチを取りに行くビジネスマンにOL、そして学生達が溢れてきたのだろう。

 だが二人には、そんな日常をゆく窓の向こうにある情景などまったくの別世界。この部屋に二人。多恵子という裸婦が放つ色合いと空気に彩られた、どこか優しく甘い空間に包まれ――。

 三浦にはそんな多恵子の肌の匂いすらも嗅ぎ分けられるかのような心境。それぐらい、神経をとぎすまして描いている。額に汗、筆を握る手も。いつのまにか、筆を口に銜えねば置く間も惜しいほど、集中していたようだ。その間、多恵子も同じように……、ひたすらなにも感じまいと、初めての裸の時間を無心に過ごそうと集中している。


 だが。やはり多恵子。

 外を無心に見て、そこに三浦などいないのだという独特の世界観を見事に創りだしている。

 その間に表情も、いつもの彼女へと緩まり、そしてぎこちなかった座り方もゆったりとしたものに変わっていた。ただそこに、いつも服を着て座っていた時と変わらない心境でそこにいる。そこに、いることができるようになったようだ。


 うん、これはいける――。三浦は手応えを感じた。

 今日はまだ、ただ裸婦へと遂げた多恵子を捕まえるかのように描くだけ。

 だが三浦の頭の片隅では、ふつふつと、これからどう描こうかという沢山の意欲が生まれ出ていた。湧き上がってくる沢山の気泡の中、ひとつひとつに沢山の多恵子が包み込まれている。

 まだテーマは見つからないが、とにかく、このままなんとか続けられないかと――。


「終わりましたよ」


 三浦が筆とコンテを置いた時、日は傾き始め、時計はすっかりランチタイムすらも過ぎた時間を差していた。

 多恵子がそっとこちらへ向いた。やっと目が合う。

「有り難う、多恵子さん。ここに僕が描いた貴女を置いておきます。お茶を入れ直していますから、着替えたらリビングに来てくださいよ」

 三浦が姿を消し、彼女は脱ぐことが出来た。だから終わった今も、彼女の体をしげしげと眺め回すことはすべきではない。幕引きも、多恵子自身にゆだね、三浦はそっとステージを去る脇役だ。

 さて、最初のお茶は煎れっぱなしで駄目になってしまった。もう一度煎れ直しだとイーゼルから離れようとした時だった。

 多恵子が、泣いていた。

 これには流石の三浦も狼狽えた。彼女とていい大人だ。結婚も出産も、中学生の息子がいるなら子育てだってそこまで経験を積んできた、一通りを過ごしてきた中年だ。世間の様々なふいな出来事にもそれなりに対応することも出来るだろう。なのに、彼女は……まるで何か初体験でもした若娘のように泣いていたのだ。それこそ気が高ぶり、どうにも出来なくてとりとめなく、といったように。

「ま、参ったな」

 女の涙はいつでも困る。三浦もそれなりに一通りこなしてきた男。痴話喧嘩で泣かせた女性に、モデルの関係だけで終わらせてしまうことで泣かせた女性、そして別れてしまった妻の涙。色々あった。どの涙もその時々困り果てるものだった。だがこれはまたなんとも、思ってもいない状況の涙だった。

 いや思えば、それだけの決意だったということだ。

「あの、僕は外にいますからね……」

 やはり、今日の三浦は何も出来そうにない。全てが多恵子のものだった。決意も、スケッチの間の空気も演出も、そして涙も、幕引きも。

 だから男はこのまま引くだけ。そして、向こうでただ労いの一杯を用意して待っているしかなさそうだった。


 すすり泣く多恵子をそっとしてアトリエ部屋を出た。

 そしてもう一度、林檎の香りがするお茶を煎れなおし、ひたすら多恵子を待っていた。

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