肌に惚れる男 2

 久しぶりに多恵子がアトリエにやってくる日が来た。


 夏の気配が徐々に褪せていく九月の陽が入る午前の部屋、イーゼルの前。三浦はいつもの椅子に座って、バラバラになっていたパステルコンテをきちんと色で分別する。

 暖色から並べ、寒色へ。箱の外にだけ、いつも手にしている黒や茶色のコンテを数本、取りやすい場所に並べた。

 今までスケッチしてきたブラウスやシャツ姿の多恵子をひとつひとつ眺める。一枚の用紙にいくつも描いた多恵子の顔だけのスケッチ、中には彼女の首と肩の線と束ねた髪だけの部分のスケッチもあって、それはその時の三浦の気分次第の部分描きだった。そこになにかを感じたからそこだけ抜き取って描いたようなものだ。多恵子の手だけを描いたページもある。全身画ももちろん。

 そのスケッチになんとなしに三浦は色を置き始める。多恵子を見てきて三浦が彼女から感じ取った色合いをまず手に取り……。駄目だなと三浦は一人でため息を落とした。

 肌色と向き合うだけの男が、彼女の表情にしか色を添えられないこと、そして出来上がっている洋服の色を塗ることも、どこかその洋服の色をただ真似ているだけのようで我慢できなかった。

 ただのスケッチなら、ふらりと出かけた先で見かけた人物をスケッチブックに書き留めることはある。そんな時は三浦だって洋服を描くことに抵抗はない。

 だが――多恵子に望んだのは、通りすがりの、すれ違いざまの人物に望んだものとはまったく違うのだから。


 結局、パステルコンテを画材カウンターに置いてしまった。そこでチャイムが鳴った。

 いつものように迎えに玄関へ出ると、あのシフォンブラウスを着た多恵子が立っている。

「いらっしゃい。待っていましたよ」

「都合がつかなくなり、申し訳ありませんでした」

 いつも通り、多恵子はひとつひとつがきちんとしている。ここでもハンドバッグを持っている両手を丁寧に膝の上で揃え、きちっとした角度で詫びの一礼をしてくれた。

「いいえ。そんなものですよ」

 気にしないようにと、ここでも三浦は念を押し、気の良い笑顔で多恵子を迎え入れる。

 多恵子も気が済んだようにパンプスを脱いで、スリッパに履き替えた。


 それにしてもと、三浦は多恵子にそっと振り返る。

 そのシフォンのブラウス。良く着てくるなと……。週に二日から三日の日程でモデルに来てもらっていたが、そのうちの一日は必ず着てくる。つまり週に一度は着てくる。

(一番のお気に入りなのかね)

 よく似合っていると思う。彼女も気に入っているから、出かける時には良く選んでいるのかもしれない。そういえば、今の流行に一番合っているデザインのブラウスだと思った。

 あの流行遅れのワンピースはなんだったのだろう。三浦は近頃、そう思っている。多恵子は一度とてあのワンピースをこのアトリエに着てこなかった。

 それなのに。彼女を初めて見かけたあの日。彼女はそれでも堂々としていた。何故、あのワンピースを着ていたのか。どうしてもう着てこないのか。

「先生、お話があります」

 ひとりでぼんやりとそんなことを考えていると、リビングに入るなり多恵子があのりんと鳴るような声で三浦に話しかけてきた。

「なんでしょうか」

 リビングのドアの前で、どこか遠慮がちに立っている多恵子を見る。そんな彼女が少し困った顔で三浦を見ていた。

 いつものシフォンブラウス、そしていつも持っている黒いハンドバッグ。いつものようにひとつに束ねられている黒髪。いつもの佇まいでそこにいる多恵子ではあるが、どこか毅然とした顔で三浦を見つめている。

「やはり、モデルを辞めさせてください。先生に描いてもらって毎回とても嬉しく、このアトリエに来ることを楽しみにしていました。でも……それは私だけで……」

 なんとなく予感していた。紅茶缶とカップを買った日。妙な昔の痛手を思い出したと同時に、妙な現実感を抱いていたのだ。彼女は『主婦』だ。家庭があり、夫だけの女性であり、そして息子だけの母親でもある。彼女の世界に『絵画』は現実的ではないのだと。彼女が一番大事にせねばならないのは家庭であり、彼女のような女性が望んでいるのは『安泰』なのだ。他の仕事でその安泰は得られても『モデル』となるとそうはいかない。いやモデルでも特に三浦が望んでいる『裸婦モデル』は。

「そうでしたか。残念です」

 三浦もあっさりと返答していた。彼女が『学校行事で忙しい』と日程をずらした頃から三浦もそれだけ考える時間を与えられていたということだ。そして彼女も、忙しかったのも本当だろうが、そんな妻として母としての日常だけに戻った時、逆に三浦と同じように目が覚めてしまったのかもしれない。これは現実的ではないのだと――。

「いつまでも先延ばしにするほど、先生のご迷惑になると思いました。先生が望むモデルになることへの決断が出来やしないのに、仕事として報酬をもらうことにも心苦しさがあります」

 きちんとしている彼女らしいと思った。

「ですが、貴女はご自分の貴重な時間を割いて、確かにモデルというお仕事をしたのですよ。モデルとして僕が貴女を拘束した時間の全て、報酬をもらうべききちんとしたお仕事をしていました。そこは絶対に気に病まないように」

 三浦も彼女に劣らないよう毅然と伝える。多恵子の顔にいつものほっとした柔らかい笑みが広がった。

 ああ、惜しいなあ。脱がなくてもその素朴であり純朴な、ありふれている……それが彼女の魅力なのか。そんな貴女の全てを描いてみたかったと。今日で消えていく多恵子を遠く見るように三浦は微笑んだ。

「裸婦を望む僕のことを思って、それもまた思い切った決断をしてくださったのですね。そうですか。それなら今日が最後のスケッチですね」

「はい……。もう先生の為にはなりませんが、しっかり務めさせて頂きます」

「うん。それでも多恵子さんというモデルから、洋服を着ている女性でも、確かな刺激はありましたよ。有り難う。今までのお礼とお別れの記念に今日のスケッチは貴女に捧げます」

 だからなのか。別れの予感だったのか。だから、今日は朝からコンテを並べ揃えていたのか。まるで何かの儀式に向かう厳かな気持ちで秩序を取り戻すよう綺麗に整理したパステルコンテ。

 最後の記念に、三浦が描いた自分のスケッチをもらえると知ってか、多恵子は嬉しそうに微笑んでいた。

 三浦も心の整理がついていたようだ。二人はアトリエで最後のスケッチに向かう。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 スケッチの位置につくなり、多恵子があのシフォンブラウスを脱ごうとしていた。

 そこはもう既に『裸婦モデル一歩手前』の気構えを備えてくれていたようだ。

「今日は脱がなくてもいいよ。そのままの多恵子さんを描かせてください」

 そう言うと、多恵子が少し不本意そうに立ちつくす。

「でも。先生は洋服のラインを――」

「いいのだよ。そのブラウス、とても似合っている。だから」

 本当にそう思っていた。そしてもうどうでも良くなったのだ。多恵子が布をまとっていようがいまいが。その向こうの期待を持つこともなくなったのだから。

 多恵子はそのままカウチソファーに腰をかけた。その上、三浦はポーズの指示すらしなかった。放浪先でふいに描く人物スケッチと最後に残してやる多恵子像は、なんら違いのない通りすがりのものになってしまったのだ。。

 本来なら、最後の仕事。互いに今まで少しずつでも積み重ねてきたそのままに、きちんとポーズを指示し、多恵子もそれを全うしてモデルを卒業してくべきなのだろう。それが仕事という奴だ。だが今日の三浦はそんな気はすっかりなくなってしまったのだ。

 ただ、儀式のように並べたパステルコンテにだけは真剣に向かい、色を選んだ。

「楽にして、いつも家でくつろぐように座って。今日は色をのせ、僕が感じる多恵子さんらしく彩るから楽しみにしていて下さい」

 初めての色づけ。だが三浦にとって単なるスケッチ。だから先程は我慢できなかった洋服の色づけだって平気だ。そんな気分なのだ。


 顔のライン、黒髪、ふんわりとしたブラウス。そしていつもきちんと膝の上で揃えてある多恵子の両手。閉じられた膝、すっと綺麗に揃えている両足。それを手早く黒コンテで描き写す。陰影をつけるための下地の色をさっと乗せ、指先や握り拳でこすり馴染ませる。ふいに思った色を次々と多恵子の表情に、僅かに見える肌に、そして淡い色合いで描かれているブラウスの柄に乗せる。時々最小の平筆に少々の水を含ませ、軽くコンテの粉を滲ませて色を伸ばす。

 もしかすると多恵子は水彩が似合うのかもしれないと思うほどに、淡い彼女にぴったりのふわりとした画風に仕上がっていく。

 多恵子はくっきりする顔立ちではないが、黒目がはっきりとしている。微笑むと愛嬌あるころんとした目になる。その目を描こうと、スケッチブックからモデルへと目線を変えた時だった。

 彼女の顔が、とても硬くなっていることに気がついた。

「どうかしましたか」

「い、いえ」

 すぐに笑みは見せたものの、三浦がスケッチに戻り目を離した隙、再びモデルへと視線を戻すと、また多恵子の硬直した顔。

 三浦はコンテを置いた。時計を見て初めて知ったが、一時間近くスケッチに集中してしまっていたようだ。

「休憩でもしましょうか。お茶にしましょう」

 せっかく多恵子のために買った紅茶葉とカップだから、なにも無駄になったと勿体ぶって使わないのも馬鹿馬鹿しい。それを最後に彼女を見送る紙吹雪でもまいてあげるかのように使ってしまおうと思った。

 だが多恵子はその怒ったような顔のまま、黙ってそこに座っていた。何が気に入らなかったのか。それとも、三浦が望む自分に至らなかったことを責めているのか。まあ、いいだろう。気が済むまでそこで気持ちの整理をしてもらおう。僕が何を言っても……。そう思い、彼女をそっとしておこうと三浦だけアトリエ部屋を出た。


 ドアを閉め、三浦はキッチンに向かう。

 並べて用意していた紅茶葉、セットで買ったお揃いのポット。そして花柄の茶器。五客。どれも花柄だが、色と花の種類が違う。だから多恵子がどれを気に入るか、今日はどれでも選んでもらおうと思っていたが、それをやればお別れだけに虚しいだけ。三浦が勝手に選んだ。手に取ったのは黄色いカトレア柄のカップ。なんとなく、三浦が見た多恵子のイメージの色だった。


 細長いケトル、コーヒーポットを火にかけながら、紅茶缶を開けた。

 香りが良かったものを適当に数点選んだ。その中でも結局どれが気に入られるか判らず、三浦自身が気に入ったアップルを選んだ。未開封の缶を思い切り開ける。開けながら、スーツなど着て買いに行かなくて良かったじゃないかと、それをやっていたら本当に馬鹿みたいだったと振り返ったほどだ。


 藤岡氏に『沸かし立ての湯で煎れろ』と言われていたので、そのとおりに沸き立ての湯を銀の茶漉しを乗せたティーポットに注ぐ。蓋をして蒸らす? だったかと、藤岡氏に教わったとおりに煎れた。

 茶葉が開くまで、そろそろ多恵子を呼びに行っても良いだろうと、三浦はアトリエへ向かう。


「多恵子さん。お茶――」

 と言い、ドアを開けた三浦はそこで固まった。

 ドアを開けた向こう、窓辺のカウチソファー。多恵子が座っていたそこには、肌を晒している女性がいた。

 白い肌が窓辺の陽射しの中際だっている。よく見るとケヤキの椅子の上に多恵子が着ていた服が脱いだまま無造作に重ねられている。

 やはり気恥ずかしいのか、多恵子は今日着てきたシフォンのブラウスで胸元と下腹部が丸見えにならないよう前面は覆い隠していた。それでも彼女のウエストのライン、そしてショーツを取り払った柔らかなヒップのラインは丸見えで、その尻が申し訳なさそうにソファーの上に乗っていた。

「た、多恵子……さん」

 どうして。三浦も声にならない。だが直ぐに頭を駆けめぐったのは、多恵子の怒っていたような顔だった。あれは怒っていたのではない。彼女は思い詰めていたのだ。そう、辞めると決断をしたものの、彼女自身未練がまだあったのだと。

 どこかに逃げ隠れたいと言いたげな顔つきで俯きながら、でも、そこでじっと耐えている姿はとてもいじらしく見えた。

 まさに願掛けの紅茶を真面目に選んで別れがあると分かっても真面目にもてなして送り出そうとしたのが功を奏した? そうとまで思いこみたくなったほどだ。

 いや、この時を逃していつ彼女を描けるのか。これこそが最初で最後かもしれない。それでも――。

 一瞬、驚きのあまり真っ白になった三浦だが、すぐにイーゼルへと動き始めた。


 

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