2章 肌に惚れる男

肌に惚れる男 1

 いつもの画廊屋。同期生の彼と向き合うソファー。ウィンドウー側にあるいつものテーブルには、いくつかの紅茶缶と花柄のティーカップセットが見せ物のように置かれていた。

「本当に一人で買いに行ったのか。絶対に行けないと思っていた」

 買ってきた紅茶缶とティーカップを手にした画廊屋の藤岡氏は、またもや半分面白がっているにやけた顔でそれらを物色していた。

「なにを。君に頼んでもアドバイスなし。買い物に付き合ってもくれないし、代わりに買いに行ってもくれなかったじゃないか」

 客商売、君なら接待品として良く知っているだろうと、アドバイスを受けに訪ねたのに、この彼と来たら『人をもてなしたいなら、自分の目で見て買ってこい』とあっさりと突き放してくれたのだ。

 まったく。日頃から人のことをすぐに面白がる彼と分かってはいても、今回ばかりは三浦も彼のことを『本当に意地悪な奴だ。昔から』とねちっこく繰り返し突きつけてやりたい気分。それでも彼は可笑しそうに笑うだけ。

「やめてくれ。いい歳した男が二人揃って、デパートの地下に紅茶葉を買いに行ったり、生活雑貨用品のフロアで花柄の茶器を物色するのか。気色悪い」

「気色悪い? 君だって奥さんの買い物に付き合わないのか」

「付き合うものか。付き合っていたのは若いうちだよ。そのうちに女房も、いや、女も分かってくるのだよ。男と一緒に選ぶことに意味がないことを。結局、自分が気に入ったものを一人で買うことと変わりがないのだと」

 そう聞くと『なるほど』と半分頷きそうになり、三浦ははたと我に返る。

「僕は君の女房ではないぞ」

「だからだろう。俺たちは夫婦ではない。困るなあ。独り身だからと、俺を亭主みたいに頼られちゃあ」

 さらに我に返り、三浦もぐうの音も出なかった。いつのまにか彼の女房のような気分になっていたのかと。確かに。札幌に来てからというもの、三浦の日常で一番近しい人間はこの藤岡氏だけだった。それだけに彼にあれこれ相談することも多いし、彼も男同士の付き合いとして気楽なのか、二人で食事をすることも酒を呑みに行くことも、たまにレジャーに誘われて共に出かけることもある。もちろん、彼の奥さん公認だ。変に女と遊ぶより、大学時代の同期生と連んでいる方が彼の奥も『安心だわ』ということらしい。


 そんな藤岡氏はまだ花柄のティーカップを片手の中で弄ぶように回しては、柄を鑑定するかのようにしげしげと眺め、手放そうとしない。

「それにしても、気張ったなあ。紅茶はまあ妥当なところだが、こんな客用に出すようなカップまでね。しかも彼女用に買いにいったはずなのに五客セットを買うか?」

「うるさいな。気に入ったカップがセットだったんだ。それよりなにより、紅茶を買うのも、カップを買うのも、勇気がいったんだ。僕はあまり百貨店にはいかないものだからね。それに君みたいにお洒落じゃない。ああいうところに行くのは気が張るよ。しかも僕より若くてきちんとした制服姿の娘さんが接客してくれたりして――」

 画廊屋の彼は仕事柄、いつも仕立ての良いスーツをさりげなく着こなしている。元より東京で共に過ごしていた学生時代からそのセンスはある男だった。やはり坊ちゃん育ちというのか、育ちの良さがそこに出ていた。それに比べ三浦は、どうでにでも着られたら良いというカジュアルな量産系の服ばかり。

「なに気取っているんだ。向こうはどんな人間も買ってくれさえしたら良い客なんだよ。高級な服を着てやってきても買わない奴は良い客じゃないわけさ」

 商売人らしい言葉だなあと、三浦は呆気にとられる。

「しかし君とて立派な画伯。時には格のある集まりに呼ばれるのだから、その為のスーツを数着は持っているだろう。この前の出品パーティの時に俺の紹介で仕立てたあれを着ていけば良かったじゃないか」

「馬鹿馬鹿しい。たかだか紅茶を買いに行くのに、スーツを着るだって?」

「――にしては、気張ったなあ」

 またそこに戻るかと、三浦はひさびさに噛みつきたくなったのだが。藤岡画廊の主人である男の目が、急にそのカップになにか値踏みするような、商売男の目に変わっているのに気がついた。

「ふうん。君がここまで願掛けするとはね。主婦の彼女、そんなに良いんだ」

 三浦は頷かなかった。自分でもまだ分からない。衝動はある。駆られる気持ちもある。だが、彼女が脱がないことにはまったく答は出ないからだ。

「前の、横浜セレブ夫人の時とは違うねえ。彼女にはここまでしなかっただろう? まあ、あれは彼女も望んで脱いだわけだから、願掛けする必要もなかったか。しかしあの絵は好評だった」

 昔話まで持ち出して。本当に君は意地悪だなあと、三浦はもう返す言葉もなく、力無くソファーに深く身を沈め黙っているだけ。ポプラの葉陰が落ちる画廊の外の歩道を眺めた。

「君はセレブ夫人の真の姿を上手く描き出していた。あれこそ君らしい才能で実力だよ」

 そうだった。多恵子が見ていたあの大型の油彩。二年前の作品だった。そのセレブ夫人を題材にして数点、油彩画を仕上げた。彼が言うとおり、大型以外はすぐに売れてしまった。

 その女性とはある顧客を通じて知り合った。昨今はセレブと良く耳にするが、三浦が使い続けてきた言葉で言えばブルジョアか。いわば、金持ちの顧客の知り合いである金持ちの奥様という縁だった。どちらかというと夫人の方が乗り気だったのだ。それに彼女は元モデルだった。卑猥なヌードモデルなどの経験はないが、仕事柄、脱ぐこと肌を見せることは経験済み。多恵子と違うのはそこで――。裸婦画の話を持ちかけるとセレブ夫人はすぐに承諾してくれた。セレブ夫人とは何回かお茶を交わすうちに彼女の中にある何かを描き出したくなったのだった。そこは多恵子に感じたインスピレーションと同じだ。これが絵描き三浦が毎回描く題材を見つける時の感覚なのだ。だが三浦が『描きたい』とまでに気持ちを駆られたのはセレブ夫人は会って数回、彼女の内面を知り始めてから。多恵子は一発でだ。これが恋ならセレブ夫人は付き合っていく内に……であって、多恵子は一目惚れということになるのだろう。

 二年前の夫人と多恵子を交互に頭に浮かべ、三浦は閉じていた口を開く。

「あのご夫人は佐藤さんより若い女性だった。裕福な生活の中にありながらも、まだ染まっていけないそんな若さの中に満たされない不安定さ。それは裕福な家の若奥様という人生を歩む特定の境遇を持った人からしか見いだせないものだったよ」

 うむ、そうだった。と、藤岡氏も頷く。

「夫人の女性たるもの、彼女そのものが題材と言うより、裕福な家の若夫人の空虚と言ったところかね。そのもの悲しさがよく表れていたよ」

 そしてその夫人とはそれっきり。強いて言えば年賀状で年始の挨拶が届くか届かないと言ったところか――。と『このご夫人との仕事は終わったのだ』と綺麗に締めくくった三浦の心内を、またもや藤岡氏は引っかき回してやろうとばかりに、意地悪い笑みを浮かべていた。

「そのセレブ若夫人が言っていた。三浦先生に少しばかり男性として期待していたのに、私の思い過ごしだったのね――と、とっても残念そうに」

 この、綺麗に心の中で締めくくろうとしたのに蒸し返したなと、三浦は彼をじっとり睨む。

「なに言っているんだ。親子ほど歳が離れていたんだ。いくら成人した若妻でも節操というものがあるだろう。それに、本当に僕の方は純粋な絵心でしか向かい合っていなかった」

 ほほうと、藤岡氏がわざとらしく感心した声を漏らし、顎をさすった。

「勿体ない。俺が独身だったら、今宵限り、絶対になんとかするな」

「奥さんが聞いたら怒るぞ」

「なに、君も『別れた奥さん』に操を立てているのか」

 画廊の外を行き交う人々へと、三浦はそっぽを向く。

「まさか、本当にそうなのか」

 いつものようにからかっただけなのに図星だったのかい。と、藤岡氏は眼を見開いていた。

 図星ではないと言い返したいが、それをすればするほど如何にもその通りと示すようで、三浦はひたすら口を閉じるだけになってしまった。

 そして藤岡氏が『ううむ』と唸った。

「わからないでもないな。なにせ君たちは、好き合ったまま別れてしまったんだから」

「そうだったかな」

 まだウィンドーのうららかな午後の風景へと逃げている三浦に、『俺には誤魔化せないぞ』と藤岡氏が向かい側から詰め寄ってくる。

 もう逃げる術もない。札幌で再会し、この二年間、本当にこの藤岡氏と青春の日々を取り戻したかのように男同士の気兼ねない付き合いの日々を重ねてきたのだ。酒を交わすうちに、自分の今までの人生に事情も少しずつ漏らす。彼、藤岡氏にはそれはもうとことん話し尽くしたと言っても良いだろう。


 その通りに三浦には離婚歴がある。

 そして別れた妻との間には子供が一人。離婚した時に、妻に任せた。二人はそのまま広島で暮らし、すっかり成長した子供は大学進学にて今は広島を出ている。

 妻にはまったく会わなくなったが、息子には時たま会う。この前も彼は父親の三浦が札幌にいると知り、『俺も札幌に行ってみたかったんだ』と父親を頼りにして観光にやってきた。

 その時に別れた妻とは連絡しあい『貴方、お願いしますね』、『もちろんだよ。任せてくれ』と言葉を交わした。それぐらいは続いていたし、三浦もそれなりの義務は金銭にしろ父親としてのあれこれも怠らなかったと思うのだ。


「だけれど、皮肉だね。三浦の絵が、ぐんと際だち、今まで以上に人々の目に留まるほどの才能が開花したのは、沙織さんと別れてからだ」

 藤岡氏の言葉に、三浦はただそっぽを向けたままに、ポプラ街路樹の歩道を闊歩する人々から目線を変えることが出来なかった。

 彼の言うとおりに、三浦の絵があちこちから評価されるようになったのは、妻と別れてからだった。


「この主婦の彼女に、まさか――沙織さんのような思いを抱かないだろうな。だとしたら、駄作になる」

 今度の三浦は、旧友の彼へときちんと顔を向けた。そこには聞き捨てならない言葉を彼が言い放っていたから。

「駄作じゃない」

 きっぱりと言い放ち、三浦は彼を睨み付けていた。だが藤岡氏はちっとも怯まず、分かっているからこそ俺も言い放ってやったのだと言わんばかりの顔。しかも三浦をどこか見下ろし圧するように。

「君と沙織さんの間では『愛の名作』でも、画壇では『駄作』と判断されたのは否めない事実だ。君だって……。それが身に染みたから彼女と別れたのだろう」

 画廊屋の彼が突きつけてくる、容赦ない『三浦の事実』。それこそ、三浦の作品の経歴。画家としては汚点の。それを思い返すと、三浦は力が抜けそうになる。そしてとてつもなく哀しくなり、闇の淵を垣間見てしまうのだ。

「愛欲で描ける奴もいるが、三浦は愛欲では描けないと答を出した画家だ。その証拠に、離婚後の君の作品は素晴らしいよ。俺も在学中から君には目をつけていたんだ。こうして札幌に来てくれた時も嬉しかった。だからこそ、今回も期待しているんだ。今度の君はあの主婦から何を描き出すのかね。今までの、ある程度の特異な囲いに在る男女関係にもそれなりにこなれた女性ではないことも、すごくいいね――」

 脱ぐことに慣れているプロのモデル。男に免疫がつきすぎた異性慣れしている女性。そして我が美を三浦に託したい女として自信のある女性。それぞれの女性が三浦が筆を握ると、すんなりと脱いでくれた。ただ――離婚後、モデルと肉体関係になったことは一度もない。

 そうだ。画廊屋の彼が言うとおりに、男になった途端に三浦の場合は『駄作』になるという恐れを、最愛の妻で知ってしまったからだ。だからそれから愛欲で女は描けなくなった。


 選びに選んできた紅茶缶に、客用のティーカップ。それらが画廊店のウィンドー側にあるテーブルの上、艶々と照り輝いている。

 ポプラの葉陰を落とす和らいだ初秋の陽射しの中で、三浦が無くした何かを象徴するように。


「ありふれた惚れた腫れたで描くなよ。君は肌に惚れて描くんだ、三浦」


 何度も何度もカップを手にしては眺めている藤岡氏は、やはり商売人の顔。

 画伯三浦への忠告でもあり、そしてきっと旧友としての忠告でもあるのだろう。


 三浦もただ静かに頷いた。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 アトリエには、未開封の紅茶葉缶と花柄のティーセットが準備済み。

 ところがだった。


『先生、申し訳ありません。次回のモデルの日がどうしても都合がつけられなくなって――』

 多恵子からそんな連絡が携帯電話に入った。

「構いませんよ。予定を変えましょう。まだスケッチの段階ですから、慌てず、ゆっくりいきましょう」

 多恵子が白いシャツを脱いだ日は『もうすぐだ』と思っていたのに、どうしてか今の三浦はそんな気分ではなくなっていた。

 モデルスケッチの日を、一日、変更することに。三浦にとっても都合が良い気がした。

 なんでも九月に入り子供の学校が始まると、学期始めで母親としてやらねばならない学校関係のスケジュールが多い時期なのだそうだ。しかも互いの都合を合わせようとしたら、月中までなかなか折り合いがつかなかった。

『月の中頃には、落ち着くと思います』

「気にしないで、息子さんのためのお母様としてのお務めもきちんとされてください」

『有り難うございます――』

 申し訳なさそうな声が、どこか多恵子らしくて、三浦は『気にしないように』と念を押しておいた。


 ふと、広島の別れた女房もこうして息子を育ててくれたのかと思ったりした。


 河川敷には銀色の須々木が穂並みを輝かせている。

 自宅マンションのテーブルに、携帯電話を放って、三浦はソファーに寝転がった。

 暫く、描く予定が無くなった。しかし、どうしてか。あの紅茶缶とティーカップを買ったが為に出てきた痛手話に、コンテを持つ気になれなかったのも事実。


 丁度良い、休憩期間だと思った。

 そしてもしかすると――。多恵子も覚悟が決められないのか、覚悟を決められるまで引き延ばしているのか。そんな合間を揺れているのかもしれないとも思った。

 多恵子が覚悟を決められなければ、また振り出し。新しいインスピレーションとの出会いを待つ日々が始まる――。


 北国の空は夏も秋も同じ深い青。だが雲の形が秋らしく変わるのは、ここも同じか。そして空の高さも今まで見たどんな空よりも遠く遠く離れていくように見えた。

 

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