ありきたりな女 5

 ある変化が起きたこの日。多恵子が初めてアトリエでお茶を飲んで帰ることになった。


「多恵子さんは紅茶でしたね」

「はい。あの、私が煎れましょうか」

「いえいえ。僕に入れさせてください」

 浮かれていた。久しぶりの昂揚感と手応えに、三浦はほんの少しの勇気を出してくれた多恵子をどうしても労いたかったのだ。

 しかし残念なことに、三浦自身が紅茶派ではない為いつ買ったのか分からないティーバッグしかない。賞味期限を見たが一応大丈夫。それでも、やや申し訳ない気持ちになった。

 カップもどちらかというと珈琲向け。それにティーバッグを放ってお湯を注ぐだけの簡単なものだった。今度、画廊の彼に紅茶のことを聞こうと思った。


「紅茶の香り、ほっとします」

 それでも多恵子は笑顔で味わってくれ、心苦しさを覚えながらも、三浦も胸をなで下ろす思い。

 そこで三浦もインスタントの珈琲で一服。初めて多恵子と『仕事後の慰労会』の気分だった。

 だが多恵子は出会った時からそうだが、言葉が少ない。会話は出来るが、余計なことは言わない。まあ仕事と思っているからだろうが。

 この日、初めてゆっくりと絵描きとモデルを解除された状態で向き合っていた。


「多恵子さんは、絵に興味があったのですか」

 画廊屋の彼ともここ最近、この話で盛り上がっていた。あれは興味があるからここに来たのだとか、まだ勇気はないが興味があるからとりあえずやってみているのだとか。三浦としては描き手として『なにか理解しているものを感じる』等々。男の酒を挟んでは、そんなことが近頃の二人の話題だった。

 そんな話題の女性が紅茶を味わいながら、さらりと言う。

「私も描いていました」

 なんと――。三浦は仰天し、そして自分の確信は間違いなかったのかと飛び上がりそうになった。それと共に彼女の履歴書を思い出したのだが、短大卒であったのは思い出したのに、短大名が思い出せない。元より地元の人間ではないのでそれがどのような学校か分かりやしない。ただ学科が『生活科』とだけ。生活科ってなんだ? と思ったのだ。

「でも高校でやめました。美術部に入っていましたが、先輩や同級生に仲の良かった友人があまりにも上手くて。すぐに挫折してしまったんです。短大にも美術コースがありましたが、そちらではなく、生活科の服飾コースに進みました」

「つまり洋服のデザインですか」

「まあ、名前だけ見るとそういうことになるのですが。そればかりじゃなく、生活科ですから言ってみれば『家庭科』のようなコースなんです。あの当時で言えば『花嫁修業』が出来るコースと言いましょうか」

 はあ、花嫁修業――。懐かしい言葉だなと、三浦は緩く笑ってみた。しかし多恵子の時代はまだそんな時代であっただろう。もっと言えば三浦の時代もまさにそれだった。女は成人したら花嫁修業をして、良き花嫁として早く嫁ぐのが女の花道だった時代だ。それでも多恵子が『描いていた』ことで、三浦の中で下げられなかった溜飲がすうっと落ちていく気にさせられたのだ。

「もしかして、多恵子さんは――人物を描かれていたのですか」

 だから。素人で初心者のはずなのに筋が良いのかと思わされた。だが多恵子は首を振った。

「いいえ。風景だけです。人物の善し悪しは分かりませんし、どう描いて良いか分かりませんでした」

 持っているカップの紅茶へと眼差しを伏せた彼女。どこか残念そうな目。描くことを好んでいたが、才能ある者を見て打ちのめされ諦めてしまう。良く聞くことだ。そんな彼女の青春の思い出を掘り起こしてしまったのだろうか。彼女はその紅茶の底に沈んでいる何かを探し当てるかのように、カップをくるりと回し始める。

「とても精巧な静物画を描く先輩の絵を観て、すごいと思いました。先輩は東京の武蔵野美大に。私の仲の良かった友人も、高校道展で特別賞をもらうほどで。彼女も静物画で、精巧ではなくてもとても雰囲気のある絵を描く子でした。彼女も東京の美術学校へ進学しました。とてもじゃないけれど――私は……」

 そこで多恵子が黙り込む。

 いつも言葉少ない彼女だが、こと絵になるともしや話してくれるのかと、三浦はそのまま待ってみた。

「とりあえず進学した短大も、それとなく美術の要素がある学校でした。諦めた私ですが、服飾も目新しいことなので楽しく学んでおりました。それにもう早く結婚しようと思っていましたし」

 そこで持て余すように紅茶のカップを回していた彼女の手が止まった。

「地元の短大ですから、同じ高校から進学した同級生も結構いました。同じ美術部だった同級生も。ある日、そんな彼女と『美術コースはどうか』という話になった時、『今度、モデルが来て本当の裸の女性をデッサンする授業があるんだよ』と教えてもらったんです。どうしてか衝撃的でした」

「衝撃的だったと?」

 裸婦を描き続けている三浦にはとうに忘れた刺激かもしれなかった。だがこの話で三浦もふいに思い出した。学生時代、初めてヌードモデルを目の前にデッサンすると決まった時は、確かに、授業の前日まで画廊屋の彼も含めてやんやと描き仲間と男らしい下世話な話題で騒いだことを思い出した。なのにいざその時になると、皆が真剣に描き始めていたことを思いだし笑いそうになったのだが。

「まあ、僕も覚えがありますよ。男同士の悪のりで、前の日までエキサイトしていたことが」

「先生もそうだったのですか? 私の同級生も、女性ですがそうでした。同じ部屋には男の子も一緒ですし、彼等ってどんな目で描くのだろうと」

「懐かしいな。ただ過ぎれば慣れというか」

「そうみたいですね。授業が終わった後に、彼女が描いた絵を見せてもらいました。とても神秘的に思えました」

 彼女の絵が? と三浦は聞き返す。同じ裸婦を描く経験を持つ者として、彼女の過去にある人物だろうが、小若い娘が描いたものであろうが、それでも『神秘的』と多恵子に言わせたことにややジェラシーを感じたのだ。三浦はまだなにも彼女に言ってもらっていない。

 だが多恵子は柔らかな笑顔を浮かべ、ほんの少しどこかを彷徨っていた。その時に感動した同級生の絵を思い浮かべているのが分かった。思い出の中でも彼女の中では印象深いのか、話せば話すほど、彼女の頬が紅潮してきたのを三浦は見た。

「人前で女性が裸になるということが、自分が通っている学校の一室で現実にあることも娘だった私にはとても衝撃的だったし。同級生がそんな本格的なことをやれるんだという――そんな驚きも。分かっていたのに、私もやりたかったんだ描きたかったんだという後悔も。その授業が行われる教室を覗きに来た生徒が男女問わずいっぱいいました。それでも教室のカーテンはぴっちりと閉められ中は静かで絶対に見えませんでした。だからこそ、とても神秘的に思えたんです。モデルの女性と描き手の彼等だけの特別な空間、息づかいが――」

 そして思い出に浸る多恵子はそこでほうと息を吐いた。

「だから。モデルになる女性のことも、描く人のことも、私にはあの時からずっと神秘的なんです。そして裸になる女性の心意気も、描かれる画家の心意気も――」

 多恵子はそこで黙ってしまい。ずっと俯いてしまった。どうしたことかと三浦がほんの少しのぞき込むと、彼女は唇をきゅっと固くひき結んでいる。それ以上を言いそうで言えないと言った顔に見えた。

「心意気を知りたかったのですか」

 だから僕のモデルをとりえあず引き受けたんだね――、そう問いたくて、そして三浦もそこまで言えず、黙ってしまう。

 だが、多恵子は急に顔を上げ、いまにも泣きそうな顔を両手で覆う。どこか苦悩のその表情は、いままで淡泊に接していた彼女から初めて感情を溢れさせている生々しいもの。流石の三浦も言葉が出なくなり、そのまま多恵子を見ているだけになってしまった。

「そんな自分が怖い――」

 神秘的で、手に届かない、どこか遠くの話だと思っていたのに。なのに私は好奇心でここまで来てしまった。モデルを始めてやや一ヶ月。毎回欠かさずアトリエに通い、そしてついに今日は、シャツを一枚脱いでしまった。三浦には――そんな彼女の声が聞こえてきた。確証はないが、そう聞こえてきたのだ。

「多恵子さん。無理をしないで良いのですよ」

 嘘だ。と、思いながらも――。それでも三浦が納得できる内面を見せてくれたのだから、今日のところはこれで良いじゃないかと思ったのだ。


 やっと分かった。彼女は絵を嗜んでいたし、興味もあったし、モデルを描くということにも、ある程度の『予備知識』があったからなのだと。

 ありきたりな彼女ではあるが、下準備はそれなりに出来ていたわけで、さらには三浦の誘いに乗ってくる要素も元よりあったのだと。

 なによりも三浦が安心したのは、ただ自分の美を認めて欲しいだけの願望ではなかったということ。絵を知っているなら、最初から叩き込むよりも、それなりにすんなり動いてくれたのもこれで分かった。


 多恵子は紅茶をもう一杯飲むと、最後にもう一度、今日のキャミソール姿の自分の絵を見て帰っていった。

 その絵を見る彼女の目が、いつもと違っていた。まるで自分で自分を試しているかのような。自分で自分を叱責しているかのようなそんな顔。


 三浦は思った。


 次だ。次回に来る。


 だがそれは賭けだった。

 彼女の最後の迷いどころだ。

 どうしても駄目なら次回で最後。そうでなければ、彼女は今度も一枚脱いでくれるだろう。いや、もしかすると――。


 三浦にとっても、最後の迷いどころか。

 どうしてか心がとても揺れていた。


 彼女が飲み干した紅茶のカップを手に取ってみる。

「願掛けしておくかな。良い紅茶葉を探しに行くか」

 本気だった。でも、なんだか女を口説き落とすことに必死になっている男のようで、三浦はまたもやハッとさせられていた。

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