ありきたりな女 4

 二十分のポーズ、十分の休憩でインターバル。それを六回、約三時間――。と、行きたいところだが、なにぶん初めてのことだろうからと、この日はワンポーズ二十分、三ポーズ三回のサイクル、一時間半でやめることにした。


「どうでしたか」

 コンテを置いた三浦は多恵子に尋ねた。

 彼女はソファーの上で早速、拳で肩を叩いている。予想通りのアクションに三浦もそっと笑ってしまう。

「動かないことが、これだけ大変とは思いませんでした」

「そのうちに慣れますよ」

 と、言い――三浦はさも当たり前のように多恵子がモデルを続けてくれるのだと思いこんだ言葉を発していたことに気がつく。

「いえ、もちろん、貴女がこれからも良ければ……ということになりますが」

 多恵子は何も言わず、そこで俯いて小さく微笑んだだけだった。あまり良い感触はなかったのか。

「あの、先生が描いた私を見せて頂けますか」

 もちろんですよと、イーゼルからスケッチブックを外し、三浦は窓辺のソファーに座る彼女に手渡した。

 多恵子がそれを一目見て、ハッとした顔に。意外だったので三浦も何事かと訳もなく緊張してしまった。

「なにか」

「いいえ、なんでもありません」

 急に多恵子の表情が曇った。そんな顔をされては、描いた三浦としても心外だった。

「今日はここで終わりましょう。お茶でもどうですか」

「いいえ。帰ってやらなくてはいけないことが残っていますので」

 そこは笑顔で答えてくれた多恵子だったが、三浦としては最悪の感触だった。


 彼女はそのままハンドバッグを手にすると、また言葉少ないままに『お世話になりました』と玄関で一礼。

 それはつまり、もう、三浦謙のモデルにはなれないと言う返事なのか。そしてまたそれを聞き返せない自分もなんなのか。

 三浦は思う。どうも最近、臆病になったものだなあと。何かを沢山得てきたと思うし、それと同じように失いもした。だが得る喜びも知っていれば、失う悲しみも如何ほどか良く知っている。その痛みを回避する方法も沢山知り尽くしてきたからこそ、ここのところ『痛さ』とは無縁だった気がしたのだ。それが、ここに来て『もう嫌です』と言われるのが怖いから、黙って見過ごすだなんて――。

 まさかこの女性を目の前に、こんな男になっている自分を見てしまうとは思わなかった。


「先生。次は来週ですね。それまでに事務所に行って契約してきます。あの、その時ご報告した方がよろしいですか」


 ガラス棒をりんと弾いた声が、玄関に響いていた。

 三浦はやや目を丸くしてしまい、暫し、多恵子を見つめてしまっていた。

「先生?」

「い、いや……。はい、来週の火曜日、また十時からお願いします。あ、貴女もご家庭が大変でしたら遠慮なく申し出てください。なにせ私の方がふらりとしている気ままな絵描き。いくらでも予定を合わせますよ」

「まあ、そんな。先生だって本当は忙しいでしょうに」

 彼女が初めて可笑しそうに笑いだした。なんとも愛らしい笑顔だった。別に、特別な可愛さというわけでもなく、どこか懐かしい、近所の知り合いの年下の女の子が笑ったような、よく見たことある笑顔。

(ああ、もしかすると、僕は……)

 ふとそう思った。彼女は何処にでもいる女性だが、何処にでもある、誰もが持っていて、誰もが知っている魅力を持っているのだと。だが何故だろうか。彼女だけからそれが見えたような気がしたのは。

 ともかく。彼女はまだ三浦謙のモデルをする気があると判り、ほっとした。


 事務所と契約したことは来週のモデルの日の報告で構わないと返事をし、多恵子をアトリエから見送った。


「ああ、いけない。また見過ごした」

 僕の絵を見て、表情を歪めた彼女の気持ち。それも聞けば良かったと、三浦はまたもや臆病な男になっている自分を踏みつけたい気持ちになっていた。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 それから多恵子はスケジュール通りにアトリエに来るようになった。

 モデル事務所との契約も滞りなく済み、三浦謙画伯専属のモデルとなる。ただ、今は未だ――。


「多恵子さん、こちらに集中して」

 三浦の指示に、多恵子がこちらを見る。イーゼルの前に立っている三浦と目が合う。

「違う。僕を見るのではないよ。今日のポーズの、指示した視線だ」

「すみません」

 今日はケヤキの椅子に座っている多恵子に、窓辺で頬杖をつかせ、窓の向こうを見るように指示していた。だがそんな彼女もじっと動かないだけなのは退屈だったのか、黒目だけがそろそろと動いていたことで三浦の集中力が削がれたのだ。

「うん、それでいい」

 最初に指示したとおりの視線に戻る。そして――不思議と多恵子は一度注意すると二度と同じ間違いはせず、今回の視線の注意も一発でその意図を掴んでくれたようだ。

 退屈故に何を考えていても構わないが、それでも視線だけでも気分は三浦の思うところと一致していほしい。慣れているモデルなら言うだけで分かってくれる。喩え彼女たちが子供のことを考えていようが、この帰りにスーパーで何を買おうか、昼メロの続きを妄想していようが、そんなことはなんでも構わないのだ。それでも視線だけは、気分だけは、絵と一致して欲しいわけだ。それが出来てこそ――描き手をその気にさせてこそ、プロの『美術モデル』。しかし素人の多恵子にそれを要求するのは無理だと思っていた三浦だったが、これがどうしたことか。ほら、多恵子はもうそれを解ってくれた。何を思っているか。そんなのは三浦には解らない。だが解ってくるのだ。彼女は三浦が指示した視線に適うことを本気で考えてくれているだろうと。この絵描きの傲慢な思い過ごしといわれても、これなら描けると僕が思っているのだから、それは三浦にも彼女にも正解なのだ。


 数回、多恵子をモデルにしてスケッチして思ったのは。まだ『裸婦』という関係にはほど遠いが、それでもどうしてか『筋が良い』ということ。これが意外だった。

 なにか三浦と元より通じている何かがあるような気がした。そうでなければこちらの『絵心』をこれだけすぐに飲み込めるだろうか? なにか喉元をすとんと通り過ぎていかない違和感が起きていた。

 もし、三浦が思っているとおりなら――。

(それなら、まだ可能性はある)

 そんな捨て切れぬ願望を強めるばかりだった。


 たいていが午前中、正午まで。残暑の陽射しが入る窓辺で変わらずにスケッチをしていた。まだカンバスに彼女を乗せる気はない。つまり三浦もじっと時が来るのを待っているのだ。その時が今は未だ来る気配はないが。

 スケッチブックには日に日に多恵子の婦人像としての絵が増えていくばかりだった。

 あのシフォンブラウス、そしてストライプのシャツ、レエスのカットソー。ほとんどがパンツスタイル。そんな彼女の顔の輪郭と表情とそして彼女の手持ちの洋服のラインをなぞるだけ。

 それでも良い。彼女の表情だけ、三浦はそれでなんとか凌いでいた。

 この日の多恵子は襟が大きい真っ白なワイシャツを着ていた。

 ひとつに髪を束ねる方が彼女は似合っている。顔の輪郭がはっきりするし、派手ではない顔つきだから表情もはっきりする。視線も良い。日に日に良くなってくる。表情も何を考えているか解らなくても、こちらに想像力と創作意欲をそそらせる顔をするようになってきた。ただ――。

(なんでか、またこの大きな襟のシャツは。彼女のせっかくの顎のラインを隠す)

 また忌々しく思っている。いま流行なのか、その尖った大きな襟は。僕は洋服のラインを描くために描いてきたんじゃない。思わずコンテを持っている指先に力が入ってしまう。忌々しく思うが為に、いつだって洋服のラインは必要以上に太くなる。

「先生、どうかしましたか」

 はっとし、三浦がスケッチを見ると、シャツの襟が真っ黒になるほど何度もなぞっていたようだ。

「いえ、はあ……いけませんね、僕も。貴女のこと言えなかったですね」

「いいえ」

 多恵子がポーズを解いてしまう。そして彼女は少しだけ何かを躊躇うように暫し視線を泳がせていたのだが、最後は三浦の正面に戻ってきた。

「いいえ……。きっと先生を苛つかせているのは私なのでしょうね」

 はたとさせられ、三浦はほんの少し目を見開き多恵子を見ていた。

「スケッチを見せて頂けますか」

 それはスケッチが終わると彼女が必ず最後に三浦に願い出ることだった。彼女は毎回毎回、三浦のスケッチを見て帰る。だが、初日のように顔を曇らせたのはあの日一度だけ。あとはいつもの変哲もない顔で眺め『これが私ですか』とか『私、こんな顔をしていましたか』と当たり障りなく気持ちよさそうに笑っていただけだ。それでも初日のあの顔が三浦にはどうにか屈辱的でもあったのだ。もちろん、その理由も分からずじまい。聞けるものか。――年寄りといわれても、そんなプライドがあるようだった。

 だがこの日はまだ一時間も時間が残っているのに、多恵子は見せて欲しいと願い出てきた。

 三浦も半ばやけくそだった。あんな真っ白なはずの襟が真っ黒になっている苛立ちをぶつけた絵を観られても構わないと思った。

「どうぞ」

 椅子から立ち上がった多恵子がイーゼルの傍にやってきて、三浦が差し出すスケッチブックを手に取った。

「まあ……」

 そんな残念そうな声。そして彼女の哀しそうな顔。いったいなんだというのだろうか。そう、もしかすると、これが君と僕の絵描きとモデルとしての答なのかもしれないよ。三浦の心がそう吐き捨てようとしてた。

「服のラインだったのですね。先生、時々、何かもどかしそうに描いていらした気がして――」

「そうだったかな。そんなつもりはないな」

 いや、もう多恵子さんに見抜かれたまま。本当にその通りだよと言いたい。だが三浦はぶっきらぼうにそう言い放ってしまっていた。その仏頂面のまま、多恵子からそっとスケッチブックを取り去り、イーゼルに戻した。

 こんな態度を出すつもりはなかったのだが。どうにも惜しくてどうしようもない思いに渦巻かれている。それを『女の裸を描きたいのだ』という本心を抑えてきたのに。彼女にあっさりと見抜かれてしまい、もう三浦もどうにもならなくなってしまったのだ。

 そうこんな時思う。何故、彼女は解るのか? 僕と波長が合う? そんなまたドラマティックなことを信じて良いのだろうか? 久しぶりのこの昂揚を手放したくないから、こんな少年のような悪あがき――。

「先生。私、出来ることしかできません」

「ああ、分かっているよ」

 そろそろ潮時か。この気持ちのまま日々を重ねても無駄なのかもしれない。気持ちは噴き出しかけてはいても、いまなら引き返せるのか。三浦がそう考えあぐねている間のことだった。

 スケッチを見て気が済んだかのように椅子に戻った多恵子が、そこで、窓辺の午前最後の陽射しの中で、ふうっと白いシャツのボタンを外し始めていたのだ。

 イーゼルにスケッチブックを戻し、新しいページを開いた三浦の手も止まる。

 彼女は三浦を真っ直ぐに見ていた。だけれど強く訴えるとか、弱々しくすがるような目ではなく、本当にいつもそこに居るようになった多恵子という出会った女性のままの目で三浦を見ている。

 ボタンをひとつ、ふたつ。小さな指先が迷うことなく外していく。やがて彼女が下に着ていた黒いキャミソールが現れる。彼女は白いシャツを肩からゆっくりと滑らすと、そのまま傍にあるソファーにシャツだけを置いた。

 先程とは対照的に真っ黒で飾り気のないシンプルなキャミソール。そして多恵子は何事も起きなかったかのように、彼女の使命である『椅子の上の婦人』へと戻った。

 それを見た瞬間。三浦の中で何かが湧き起こった。いままでも僅かにあったが、これは最高潮だった。

 それまであらゆる洋服のデザインで殺されていた彼女の体のラインが初めて露わになったと言っても良い。先程とは対照的な黒の、しかも飾り気がないキャミソールだというのも三浦の脳天に火を点けたような刺激だった。

「まって、多恵子さん」

 先程と同じポーズを取った多恵子の元へ、三浦は足早に向かう。

「髪、ほどいて」

 気迫ある顔だったのか、やや多恵子がたじろいだ顔を見せた。三浦もハッとして頬をさすったが、多恵子はなにもかもを分かってくれているかのように、髪を束ねている黒い輪ゴムを取りさってくれる。ふわりとまとまりのない細い黒髪が彼女の肩の上で綿菓子のように膨らんだ。

「顔、こっちに向けて」

 これまでも多恵子に触れることには極力遠慮はしてきた三浦だが、無意識にコンテで汚れた指先で彼女の頬に触れていた。だが多恵子もそのまま三浦の指先に従ってくれる。

「目は上だよ。そうだな、髪は……」

 若い娘のようにキラキラと艶のある黒髪ではなかった。なかなか手入れが行き届かないが故に毛先が乾いている。そんな主婦の黒髪。だが三浦はそれにそそられていた。わざと彼女の毛先をくしゃくしゃにして、彼女の肩の方々に跳ねるように散らした。それすらも彼女の許可なく勝手に。

「顎を少し上向けに。背もたれに自然に背を預けて――。でも、足は今日はぴっちりとくっつけて。そう電車に乗っている気分、緊張感で。だけど目はぼんやりと窓を見ているんだよ」

「はい」

 そのムードを掴もうと、多恵子も無心になっているのが伝わってきた。

「そのまま、いいね」

「はい」

 再び、三浦はスケッチブックに挑んだ。

 またコンテが爽快に滑り出す。造られたラインじゃない。彼女の息づかいが聞こえてくるラインが見えてきた。


 三浦はコンテを手に、多恵子ではない多恵子に向かう。

 やはりある。彼女にはある。三浦は確信していた。

 そして彼女は一枚脱いだ。その上、不思議な波長を感じ始めている。


 彼女の体のラインを一目見て、三浦はさらに思う。

 ――描きたい。そのもう一枚向こうの肌に、君は何を隠しているんだ。

 ありきたりな彼女の、ありきたりな何をかを見たい。

 ぱさぱさの髪に、どこか彼女なりに積み重ねてきた時間を三浦は感じたのだ。

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