ありきたりな女 3
紅茶よりも珈琲が好みだとやっと思い出してくれたのか、画廊店主の彼は彼女が帰ったあとに、新しいカップで珈琲を出してくれた。
彼もいつものカップを片手に、彼女が座っていたソファーに腰をかけた。
「こうなったなら、君のことだから脱がすだろうなあ」
にんまりとした笑みを浮かべ、彼は細い顎を自信ありげに何度もさすった。
「人聞きの悪い。今まで一度とて、無理矢理脱がしたことはないよ」
呆れた三浦は彼の期待めいた視線をどこかに追いやりたくなり、見つめていた茶色の珈琲の中にぽとんと落とし、カップをテーブルに置いた。
「だからだよ。やがて、君の絵を見て、筆を持つ手を見て、君の目を見て、女は脱いでしまう。今度は君がじらされそうだな。どれぐらいの間じらされるか賭けても面白そうだ」
先程まで『無理だ、やめろ』と見せておいて、いざ三浦が描くと意欲を見せると彼はこのとおりの上機嫌。まるで他人事のように楽しんでいる。だが彼は言う。あれは、なかなか脱がないだろう。脱いだら脱いだで、どんなことになるか、どのような絵を君が描くのか、ワクワクしてきた。と、彼の方が興奮していた。
「なあに。画伯と向き合い始めたら彼女も脱ぐさ。結構、まんざらでもなさそうだった」
どうしてか男性的な笑みを浮かべる彼。そこは男なのだろう。人妻が脱ぐ。それだけでもかなりそそられるシーンでもあるのだろう。
『楽しみにしてる』と上機嫌な店主と別れた。
次回、彼女と会うのはこの近くにあるアトリエだ。
といっても、狭いマンションの一部屋を借りているだけで、借りているのはこれまた画廊の彼だった。
彼も青年期は絵描きを目指していた。代々続く画廊の跡取り息子だけあって、彼も描くことには幼少から興味があったようだった。彼と出会ったのは東京の美大で同期生だった。だが彼は早々に自分の才能に見切りを付けた。『画廊屋の息子だから絵が描けるだなんてことはなかったな。でもさっぱりした』と言い、専攻を変え卒業後は地元の札幌に帰り店を手伝うようになった。だが彼にはやはり画廊屋の血筋があったのか目利きの評価は高い。
年月が流れ、彼は画廊店主として落ち着き、三浦もそれなりに筆で生計を立てていた。そんなある時、放浪をしていた三浦に『一度、北海道で描いてみないか。雪国の女もいいぞ』などと彼が誘ってくれた。北の都市、札幌。一度は行ってみたいと思っていたので、ふらりと立ち寄ってみた。そしていつの間にか居着いていた。
次なる放浪欲求は今まだは出てこない。北海道が広いせいだろうか。道内のあちこちにスケッチに行くが、札幌に帰ってきても暫くそこに腰を落ち着けている。割と居心地が良いようだった。そんな中でモデル事務所で依頼したモデルからスケッチを起こし数点の油彩を描いてはいるが、これぞと納得のいく世に送り出したい裸婦画はまだ描いていなかった。
アトリエへと向かう道すがら、三浦は彼女のことを思い浮かべていた。梅雨がないこの土地ではあるが、夏の間はずっと舗道には紫陽花が咲いている。爽やかな夏空の下で、煌々と揺れる青い紫陽花はとても清々しい。さあ、どう描こう。今どんなに考えても、モデルと向き合い、この手に木炭やらコンテやら筆を持たねば、くっきりとしたものは見えないのだが。
久しぶりに感じる裸婦との出会い――。いや、まだ決まったわけではないが、三浦の足取りは軽かった。
―◆・◆・◆・◆・◆―
本当に形ばかりだが、彼女には履歴書を持ってきてもらうように言っておいた。
「佐藤多恵子さん、ですね」
「はい」
この日になってやっと彼女の名を知った三浦。
名前の他にさりげなく、でもしっかりと確かめたのは『家族構成』。夫と、子供が一人。しかも中学生ときて、そんな大きな子供がいる人には見えなかったなあと、三浦はそっと彼女を確かめるように眺めてしまった。
今日の彼女は、画廊に初めて来た日も着ていたシフォンのブラウスにアイボリーのパンツ。そしてセミロングの髪はひとつに束ねられていた。黒いハンドバッグを傍らに置き、向かいのソファーで楚々と控えめに俯いている彼女は、やはり少しばかり構えているようで、座っている姿もとても固く見えた。
もし今、目の前の彼女をこのままスケッチしようと思ったら、あまり描きたいとは思わないなと、三浦は思ってしまったのだ。
「私が紹介するモデル事務所と契約をしてください。貴女への報酬はその会社から支払われます。私『三浦謙の専属』とお願いして契約しておりますから、ここ以外の依頼主のモデルへ行く仕事や出張を依頼されることはありません。ご安心を――」
個人で契約したいところだが、まだ信頼関係が成り立たない内は、本当に『仕事だ』という体勢がよく見えるほうが彼女も安心するだろうという判断だった。
多恵子もそれで納得し、モデル事務所と契約することで同意してくれた。
「そうですね。まだよく知りもしない男女が、ある意味密室で二人きりです。不安でしょう」
「いえ、そんな……」
いや、不安だろうと三浦は思っている。
絵描きといえども相手は男。男がいきなりその気になってしまい変なことにならないだろうか。彼女はまだその不安を払拭できないままここに来たことだろう。さらにまだ、自分がモデルになることにも半信半疑、以上に、自分でもまだ決断したことに迷っているかもしれない。
まあ三浦も、モデルとの経験がない――とは言い切れない男ではあった。かなり若い時の話だ。絵描きとモデルがそういう関係になりやすいものだと世間では思われていることだろう。仲間でもライバルでも確かにそんな描き手はいるし、それでこそ創作意欲を盛り立て、才能を発揮する男もいた。描き手にも色々いる。モデルもある程度の覚悟をして行く者もいるだろう。
しかし、今回は三浦が素人の女性に声をかけたのだ。
何が目的か。描くために決まっているではないか。
「佐藤さん、これは仕事だと割り切ってください。私は新しい絵を貴女から描き出したい。それだけだと理解してください」
「はい、先生」
まだ不安そうだが、仕方があるまい。
仕事とは言え、その向こうで三浦が最終的に望んでいるのは『裸婦』なのだから。
彼女も迷いに迷ってくれているのだろう。
「本当に力を抜いてください。初日なのに、私が描けなくなってしまう」
「す、すみません」
それらしく、慌てて力を抜いてくれた多恵子ではあったが、ますますぎこちない有様だった。
三浦も苦笑いをこぼしつつ『本当に新しい絵を描きたいだけ』と、彼女に向かって念じてしまう。
女性が欲しいなら『今なら』もっと他の方法で探す。いや……若い時のことは棚に上げるがね? と、三浦は一人で宙を仰いだ。
―◆・◆・◆・◆・◆―
彼女と契約の話を終え、リビングからアトリエに使っている一室へと案内する。
そこは本当に三浦が絵を描くための一室で、画材道具とモデルに使う小道具や椅子に、ソファーにカウチなどを置いているだけだった。一歩踏み入れれば、そこは油彩の匂いがぷんと漂う。
窓からは、今日も札幌特有の暑さを忘れさせてくれる青い空が広がっていた。その窓辺にあるカウチソファーに多恵子を座らせる。
白い布製のカウチソファーに、先程のように多恵子が楚々と座る。
ぎらぎらとしていない夏の陽射しはやわらかく、触れるとひんやりとしていそうな夏空の中に彼女が座ると、どこかふわりとした水彩画のようなイメージを三浦は抱いた。
中央ではなく、肘掛けがある端に座るよう、三浦は多恵子を促す。
そこに彼女が腰をかけると、ふわりとシフォンブラウスが膨らんだ。三浦はそれを目にしながら多恵子の足下に跪く。そのせいか、それだけで多恵子が驚いた顔で三浦を見下ろしていた。
だが三浦もいちいち反応しない。『いつも通り』を彼女に見せるつもりだ。
「足をこう、少しだけ開いて」
彼女の両足から玄関で履かせたスリッパを抜き取る。小さな足だと三浦は暫く目を奪われていた。だがそのまま彼女の足を手に取り、ぴったりと両足を合わせないようにと拳一個分開かせる。すると脹ら脛も太股も自然な状態で開く。
「自然に座って欲しいのですよ。写真撮影のモデルとは違うと考えてください。だから力を抜いて」
「はい」
「だけれど、ウエストはこう――」と多恵子の腰に振れない程度の位置で手だけ添え、彼女に『こう動かせて欲しい』と促すように手だけ動かしてみせる。多恵子がその通りに少しだけ腰を捻る。
「足は自然でも、背筋は伸ばして、胸を張って――」
指一本、彼女の腹から胸元へと触れないようになぞる。三浦の指先に操られるように、彼女の腹部と胸がきゅっと筋が通ったように伸びる。こちらが思っているイメージのままに従ってくれる。
「顎は少し引いて。捻ったウエストとは逆方向に顔を向けて。そして俯き加減に、そう……瞼をそっと閉じるような感じで。でも閉じないで」
多恵子はゆっくりと三浦の言葉のままに。
「そして腕はそっと柔らかく肘掛けに乗せ、そのままそっと身体を少しだけ傾けて――」
そのままゆっくりと身体を傾ける多恵子。ポーズ的に最初から少しばかり辛い要求かもしれなかったが、今日はそれが出来なくても知って欲しいと三浦は思う。
窓辺、陽差しの中、少しだけ気怠そうな婦人の姿が出来上がる。
「そのままで」
出来上がったポーズを崩さないでとばかりに、三浦は録画画像を一時停止させるような思いで両手で制し、そのままイーゼルへと向かった。
「きついでしょうが、暫くはそのままでいてくださいよ。動かない。それがモデルの仕事です」
「……確かに。なかなか体力も気力もいりそうですね」
「そうですよ。いま、とても良い感じですから、そのままお願いしますよ」
何故か早口になっている自分に三浦は気がついてハッとした。
だが自然と手が急いでいる。イーゼルの高さを調節し、愛用のスケッチブックを開いて置いて、画材を並べているカウンターを手元に引き寄せ、いつもスケッチで使っている黒いコンテを手に取っていた。
気がついた時には、彼女を真っ直ぐに見据え、スケッチを始めていた。
やはり、何かを見た。
指一本、彼女を指示している時も、何かを感じた。
本当にそこらにいる目に留めなかっただろう女性なのに。今も目の前、服をまとっているのに、コンテを持って向き合った途端に三浦の中から何かが湧き上がってきた。
やがて三浦は彼女が着ているブラウスのラインをスケッチし始めたのだが。
(なんだ。忌々しいブラウスだ。ふわふわと彼女の体のラインを隠してしまって)
乗ってきた気分を半減させられた思い。一人スケッチブックの前で、ひっそり眉をひそめつつ、今の流行とやらを三浦は呪った。
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