肌に惚れる男 4

 湯を沸かしたまま待っていると、服を着た多恵子がアトリエ部屋から出てきた。

 やはり彼女は目を合わせてくれない。仕方がないだろうと、三浦も黙ってアップルティーを入れ始める。


 多恵子はリビングのソファーにただ力無く、自分から座っていた。


「お疲れ様でした」

 自分のために、なかなか決意がつかなかった『脱衣』を決してくれた多恵子への労い。

 三浦は丁寧に、彼女の正面に紅茶を置き、自分も向かいに腰をかけ同じ紅茶を手にした。

「良い香りですね」

 やっと気が戻ったかのように、いつもの多恵子の微笑みをやっと見せてくれる。

「多恵子さんに美味しく飲んで頂こうと、僕が選んでみました」

 そういうと、多恵子がとても驚いた顔で三浦を見た。

「先生が」

「いや、大変申し訳ない話だけれどね。ここに置いてある紅茶があまり使っていない物で、だいぶ前の物だったのですよ」

 そんな物を先日はご馳走してしまって申し訳ないと、三浦は照れ隠しも手伝い笑って誤魔化した。

 だが多恵子はいつものやんわりふわりとした笑みを見せてくれ、三浦もホッとする。

「美味しいです。そう言えば、そろそろ秋本番ですね。私、寒くなってくるとアップルティーが飲みたくなるんです」

「そうでしたか」

「アップルパイも食べたくなるんです」

「秋の林檎づくしですか。いいですね」

 三浦もカップ片手に笑う。紅茶も悪くない。そんな気持ちにさせられた。多恵子もいつものように笑っている。先程、あれほどの緊張感で部屋の空気を司っていた初々しい裸婦とは思えなかった。その多恵子が急に言う。

「いい大人なのに。みっともないところをお見せ致しました」

 彼女らしく丁寧に頭を下げられてしまい、三浦は恐縮するばかり。

「とんでもない。それだけの勇気を――」

 言葉が続かなかった。言葉に出来ないほどのことを、彼女はやってくれたのだと分かっている。

 それにしても。あれだけ感情的に涙を流した同じ女性とは思えないほど、多恵子は毅然としていた。涙と共に戸惑いも流しきってしまったのだろうかと思うほどに。

 だが、三浦は意を決してカップを置く。彼女と出会い、どうなるか分からず彼女の決意にばかり任せて、こちらの描く男は様子見を繰り返してきた。痛手を負いたくないからと――。

「多恵子さん。改めて申し込みます」

 多恵子を見て三浦は言う。

「今日の貴女を描かせて頂いて、僕はもっともっと貴女を描きたいと思った。今日のこと、とても勇気がいることだったと思います。一度のことでもとても怖いことであったと思います」

 切々と話しかける三浦を、多恵子もちゃんと正面で目を逸らさずに見てくれている。

「それでも僕は、貴女にモデルを続けて欲しいと強く願っています」

 これが僕の一番の気持ちだよ――。最後に自信なさげに付け加えると、今度は多恵子が持っていたカトレア柄のカップを置いた。しかし彼女はそのままじっと床に視線を落とし、黙っている。今日だけの勇気だったのか。それともまだ続ける気があるのか。今の多恵子の顔を見ても、三浦にはまったく予想がつけられなかった。まるで、告白をした少年の気分。僕の申し出が彼女に断られるのか、受け入れてもらえるのか。三浦も俯いてしまう。

「先生、私は……良かったですか」

 シンとしていた中、急に聞こえたガラスの声に、三浦もはっと多恵子を見上げる。

「ええ、もちろんですよ!」

 声を大にして言っていた。その声が部屋中に響いたので、三浦自身も驚き、そして多恵子も思わぬ声を聞いたのかたじろいでいる。もう三浦は頬が熱くなる思いだった。しかし暫し唖然としていた多恵子から、ふと緊張が解けたように笑った。

「先生がイーゼルに置いていった、私の……初めての絵を見せて頂きました」

 多恵子の顔に、あのやんわりとした笑みが広がり、ころんとした黒目を細め三浦に向かってくれる。

「とても嬉しかったです。本当にこれが私なのかと思いながらも、身体の線を見て、ああ、やっぱり私なんだわと――」

 F10サイズのスケッチブックは、画板ほどの大きさがある。そこに自分の裸体が悠々と描かれていた感動。三浦も一度きりかも知れないと、油彩ではないが心を込めて描いた。多恵子にぴったりのふわりとした画風で。

「あの絵は、貴女の物です。僕はただ、貴女の世界に少しだけお邪魔して、盗み書きしたんですよ」

「盗み書き?」

「すみません。ちょっぴり覗き見の気分でした」

 咄嗟に口をついて出た言葉。それを、おどけて言ってみたのだが、自分で言っておいて『なんて下品なことを言うんだ』と三浦は我に返った。

 だが多恵子は『まあ』とまた笑い出した。ころころといつまでも笑っている。それはまるで無邪気な少女のようだった。

 そして多恵子がまた丁寧にお辞儀をしていた。

「取り柄もなく、ただただ本当にそこらへんにいる主婦です。それでも先生の作品のお役に立てるのなら……」

「よろしいのですか!」

これまた大声で飛び上がった三浦を、今度の多恵子はにっこりと微笑みかえすだけ。

「いけない。息子が帰ってきてしまうわ――。先生、私はこれで」

腕時計を眺めた多恵子が急に帰り支度を始める。

三浦も掛け時計を見上げて、だいぶ時間が経っていることに気がつき驚いた。

「あ、ああ。そうだね。お疲れ様――」

 そのまま多恵子は何事もなかったかのように、すうっと風のようにアトリエから出て行った。


 しかし後になって三浦は気がついたのだ。

 多恵子は……。やはり恥ずかしかったのだろうと。これからもモデルを続ける気持ちにはなれたが、彼女にとっての今日は『大変な日』だったに違いない。

 それなのに。服を身につけたなら『いつもの自分に戻ろう』と、下手に泣いてしまった分、自分を奮い立たせ、紅茶を入れて待っている三浦の前に戻ってきたのではないかと。

 三浦とあれこれ裸体について、これからについて、そしてあれこれと慰められるのも、彼女には恥ずかしかったのかもしれないと――。

 なんだ。彼女も照れていたんだ。三浦はふと微笑みたくなったが、彼女の今日の決意を思うと笑えなかった。


 夫以外の男に全裸を見せた。一大事に違いない。

 だが、三浦も女性達の事情を良く知っているつもりだ。今までのモデルでも既婚者はいた。変な話だが、旦那公認のモデルもいた。その場合は大抵は芸術に理解ある夫であったり、妻がモデル業をしていることを容認している男だ。あとは、妻の方がまったく秘密にしていること。この場合は三浦もかなりの気配りを要す。ばれたら『浮気相手』とされかねない。モデルを引き受けてくれたマダム達は、モデルとしては堂々としてくれるが、いざ夫にばれるとなると焦り始める。

 彼女たちは、三浦のカンバスに収められるとそのまま去っていく。そして三浦もカンバスの中の女性として、そこで別れる。それだけの関係だ。――それでも。互いに創作に向き合っている間は『パートナー』に等しい。それを『浮気じゃない、不倫じゃない』と言い立てたところで、やはり普通の男は『自分しか知らないはずの妻』を奪われた気持ちになることだろう。

(どうするのだろうか)

 三浦には、彼女の夫にはこの世界を理解できるとは思えなかった。どのような男性か知らないが……。

 多恵子も引き受けてはくれたが、そこのあたりをどうするのだろうかと、三浦は既に案じていた。

 いつもなら。『プロの美術モデルなら、こちらが言わぬとも、そちらの事情として上手くやってくれている』と描き手は放っておく。そしてモデルの負担にならないよう密かに気遣うだけの、そう、やはりこれも『ビジネス』なのだ。


 しかしどうしてか。多恵子であっても『美術モデル』となったからには、今までと同じように接するべきなのであろうが。

 やはり三浦もそこは今になって案じてしまうようだった。


 アトリエに戻って多恵子という女性の『裸婦』を眺める。

 三浦はその彼女を見つめて、様々な思いを馳せる。これからの作品のこと、彼女とのこと、そして自分のこと。

 だが心の中で、裸婦がこちらをずっと離さずに見ている。

 ――今宵は眠れそうにない。

 そんな心境だった。いや、いつも新しい裸婦に出会った時、初めて描いた時はそんなふうになってしまうのだ。しかしなんとも久しぶりの。

 今夜は多恵子も眠れないかもしれない。そう思いながらも、どこかで、彼女はそんな思いを胸に抱きながら夫の横に寄り添っているのだろうかと思った。罪悪感を抱え、彼女は三浦が知らない男の傍に薄着で寄り添い、そっと横たえているのだろう。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 いざとなって、彼女はまたもや断ってくるのではないか。

 まだそんな恐れを抱きながら、三浦は多恵子を待つ。

 今日は木炭を手にして待っている。目の前のイーゼルにはF10号。ただし本日から、カンバスに向かう。既に思う色合いの絵の具で下地も仕上げていた。

 そこに今日は下書きをする。そしてテレピン油でさらに油絵の具で下書きを。久々のパレット。そこに油壺をセットし、リンシード油を注いでおく。カウンターには使い慣れた様々な大きさと形の絵筆に、ペインティングナイフ。


 今度は別れの予感ではなかった。まさに三浦謙が本番に向かう時の儀式だった。


「おはようございます」

 いつものように多恵子がやってきた。本当にやってきてくれた。

「来てくれましたね」

 ホッとした様子の三浦を、逆に多恵子が不思議そうに見ていた。

 それでも早速アトリエ部屋に入った多恵子が、本当にこの前のように脱いでくれるのかと、三浦としては未だに信じられない思い。だが多恵子はジャケットを脱ぎケヤキの椅子に置くと、流れるような動きで着てきたベージュのカットソーを三浦の目の前でめくりあげた。三浦の目に、ちらりと焦げ茶色のブラジャーが見えてドキリとさせられた。

「あ、僕は外に――」

 そして多恵子も「はい」と淡泊に答えただけ。まだ三浦がドアを出てもいないのに、既にスリムなデニムパンツも脱ごうとしているところだった。


 いやはや。時々思うのだ。覚悟を決めた女は本当に潔いものだと。

 どのモデルもそうだったし、ついには多恵子もそうなってしまったようだった。


 そろそろ良いだろうと部屋にはいると、先日のように、多恵子は素肌でカウチソファーに座っていた。

 ただもう、どこにも恥じらいがないかのように。前も隠さずに、悠々とそこに腰をかけて待っていたのだ。

 いつもの時間の窓際だが、すっかり秋となってきた今は、多恵子がこのアトリエにやってきた残暑の頃よりも陽射しが違う。そこで彼女は、優しくなった柔らかな光の中でゆったりと気楽にくつろぐように、悠然と微笑んでいた。

「大丈夫ですか」

「はい……。覚悟を決めてきましたので」

 束ねている黒髪の先を、多恵子が撫でる。

 その潔い表情は、服を着ている彼女をスケッチしていた頃となんら変わらなかった。

 どうも、未だに信じられなくて緊張しているのは、三浦のようだった。


 

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