第23話 境界線のJ

□第23話□

□境界線のJ□


「……そうして、儂は、父ジレと母アデーレに生み育てて貰ったのじゃ」

 むくは、少し頭を捻った。

「“白銀のウルフ” ですか? 初めて聞きました」

「それはじゃな、渾名での。ちいとばかし胸が辛くなるのは、軍医になる前は、若い志もあって、傭兵もしておったと言う事じゃ。でも、人を傷付けてはいけないの」


 むくは頭を撫でられて、ほかほかの気分になった。

「むくちゃんには、この、“ジレとアデーレ” に託した、“遺志” を受け止めて欲しいのじゃ」

 ウルフは、たまに猫撫で撫でをするので、恥ずかしい気分にもなって来た。

「……はい。教会でお話が途中になってましたね」


 むくは、くっと顔を上げて高い窓の向こうを見ていた。

「ジレひいおじいちゃまとアデーレひいおばあちゃま。二人は、幼馴染みから青年に至る迄、ずっと会えませんでした。それは、本人同士の意思に関わりはない所で起きた事です。国や地域そして宗教に、境界線が、何かの糸で描かれているでしょうか。夫であるジレは、妻アデーレの肩を抱ける距離におります。この二人は、赤い糸で固く結ばれているとしか言えないのです……」

 むくの口から言の葉が堰を切った。

「むくは、そう、“遺志” を受け継ぎました」

 胸の前で手を組み、曾祖父母に誓った。


「……。むくちゃん、儂は、孫がむくちゃんで良かったぞ。本当に、良かった。嬉しい……」

 ウルフは、目にあつい物を湛えた。

 そして、むくの前にしゃがみ、手を取って頭を下げた。


 ウルフの胸が落ち着いた頃、ソファーに、“JM”と書いた。

「これで、両親も救われる筈じゃ……」

「さあ、むくちゃん、レストランで何かお腹に入れないかの?」

「はい。夏に痩せてしまいましたから、ちょっとがんばらないといけないですね」


 むくは、水色で織り文様が市松のセットアップをカーキ色のリボンでウエストをマークし、お気に入りの水色に白いドットが入ったカチューシャをして仕上げた。

「お似合いじゃよ」

「アチャ。照れます。でも、ありがとうございます」


 ――レストラン、“Muttiムッティ”。


 二人は、広間に降りて行き、予約していた席に案内された。

 しかし、遅い時間で他に誰もいなく、“ムッティ” は静かに波を打っていた。

「これなら、落ち着くかの。好きな物を食べるのじゃよ」

「うーん。メニューに沢山書いてありますね。ドイツですから、ザワークラウトだけは、食べて行きたいです。ミカジューもいいですね」

「ウェイターさん、ミカジューは、和製英語でオレンジジュースの事じゃよ」

「ソーセージ、ジャガイモ、チーズにパン。少しずつでいいから、食べてみんかの。儂は、それに黒ビール」

「畏まりました」

 ウェイターが去って間もなくであった。


 カッコッカッコッ。


 知った顔が近く迄来た。

「アチャ。びっくりです。Aya様、どうしたのですか? 日本には?」

 むくは目をきょろっとした。

「どうって、どうもこうもレストランでお食事よ。それ以外に何か? それに、私は、日独あっちこっちターンだわ」

 隣に立ち止まると、むくに席を勧められた。


「ご事情がありそうですね」

 Ayaに気を配った。

「ここ、リューゲン島のコテージで、Kouと会ったの」

 Ayaは嬉しさ半分、哀しさ半分と言う顔をしていた。

「儂らは、又、用があって、リューゲン島に来たのじゃ」

「ここは、リューゲンと言う島なのですか、ウルフおじいちゃま?」

「明るくなれば、分かるじゃろ。明日、連れて行かなければならない所がある」


「所で、“J” は、撒いて来たのではなかったの?」

Nonノン。わざわざ、つけられましたわ」

 手を銃の様にして示した。

「そこのウエイトレスさん、紅一点だの」

「左利きの女かしら?」

「Aya様、ウルフおじいちゃま、騒ぎは止めて欲しいです」

「大丈夫よ、むく様」

「話せば分かるわい」


『片手でしかも右では、どこに当たるか保証はない。自分に何もしなければ、撃たない』

 左利きの女が片言で圧倒した。

「私に脅し?」

「Aya様、撃たないと仰ってます。お話し合いですよ」

 むくは、取りなした。

『私達は、“未来への手紙Jの刻印撲滅機構”。Kouが持っていたぼろぼろの手紙は、バラの花びらを押花にした物であった。本当に探しているのは、アデーレ=アルベルトの手記。知っているなら、教えろ』

「知らないわ」

「知らないのう」

「知らないです」


『おいおい……。っざけるな』

「Kouにちょっかい出されて、こっちこそ、今、さいっこうに、ふざけないでって気持ちなの」

『くっ。本気で知らないなら、アデューだ』

 手負いの女は去ろうとした。

「なぜ、アデーレひいおばあちゃまの手記を探しているのですか?」

 女は、背を向けたままでいた。

『空白の一六年、Jの刻印のせいで苦しみつつ生き抜いた筈だ。それを未来に還元したい』

「この国や人類の負の遺産ですか。アデーレひいおばあちゃまに聞くといいです」

『もう、亡くなっているだろう。幽霊でも出すのか』


「先程、アデーレひいおばあちゃまとお話しをしました。暗い道の先には、幸せの日々が待っていました。だから、こんなに笑顔になれる日を大切にしたい。人を赦すと言う決意を。人の心に、境界線は、ありません。赦す赦さないの境界線もありません」


『……。本部に帰って報告する』

「もう、儂らをそっとして置いてくれるかの」

『そうだな……』

 女は、堂々とレストランの入口から消えた。


「Ayaさん、Kouさんは……」

 むくは、立ち返って、Ayaを心配した。

「彼と私は、異母兄妹ですって……。もう、言いたくないから、内緒なのよ? ずっと、とても素敵に見えて、焦がれていたの。あの人しか、愛せないわ」


「むくに、思い当たる事があります」

 自身の話をした。

「むくは、もっと寛容であれば良かっです。電話もメールも、お食事するにも。むくが、電話を掛ける方からは電話を貰えません。むくがお食事を奢る方からは、今度は奢ると誘われません。むくは、むくに奢ってくださる方をうっかり誘い損ないました」

 少し思い出してしまった。

「大切にしなければならない方と、実際は違う方を選んでしまって、むくは、未だ悪い子です。大切にされないのを分かっていても好きなのです。側で声を聞いていたい。妖精でいたいです……」


「ごめんなさい……」

 俯いた顔をはっとして上げた。

「さあ! 先ずは、ミカジューで乾杯です。ザワークラウトを召し上がれ」

 陽気に立ち直るむく。

 しかし、ウルフは、見逃さなかった。


 妖精の翳りは、ドイツの夏でもしぶとかった。

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