第9話 誘い

「というわけで、琥珀は何も気づいていないようだよ」

 同日、夕餉ゆうげを囲みながら今日子の言葉に、

「ふむ」

 百花はそう呟いて、空豆の醤油煮を一つ口へ運んだ。

 今日子は本来、猫である。勿論、人のかたちを取れる以上人の食事を採ることはできるし、旨いものを食えば旨いと思うが、逆に言えばわざわざ人のように揃えたものを食う必要はない。そこらを走るねずみを獲って食うことへの嫌悪感はなく、だから本来ならばこうして食事を挟んで百花と向き合う必要もない。

 けれどそれでも今日子が百花と交代で朝と夕の食事を作り、食事の席を共にしているのは、百花の家からしっかりと二人分の生活費が渡されていること、そして何より、当時まだ十を数えたばかりであった幼い少女が一人で飯を作り食う背中が、今日子には見るに堪えなかったからだ。

 琥珀から「お前たちの作る食事は栄養が偏っている」と持たされた空豆の醤油煮は、白い飯によく合った。

「しかし、珀さんが何も気付いていないとは意外だね」

「遠目からだったからわからなかったんじゃないのかな。その後もさりげなく聞いてみはしたけれど、琥珀も朔も、晴さんの隠に関しては何も語らなかった」

「朔さんが気づいていないのは予想の上だよ。あのひとも、それなりの力持ちではあるようだが、隠を見るには足りていないようだ。晴さんの隠に関して、今日子からは二人に何か伝えたかい」

「いいや。僕からは何も言っていないよ、いたずらに朔の気を損ねたくはなかったからね」

 答えると、百花は空豆をもう一つ咀嚼しながら、もごもごと何かを喋った。聞き取りにくくはあったが、どうやら「そうかい」と言ったようだ。そのまま更に何かを発言しようとするので、食ってから喋れといさめる。少しの沈黙、嚥下えんげしてのち、百花はこう続けた。

「私も今日一日、いろいろと調べてきたよ、晴さんのこと。……それで、現在の晴さんについて、珀さんの所見が欲しいんだ」

「琥珀の所見、ね」琥珀は百花を抜けば、それが見える唯一の存在である。それを思えば彼女がそう望むのは当然だ。しかし、「けれど琥珀は、彼女のことに関し関わる気はない、と」

「わかっているよ」

 今日子の言葉を受けて尚、百花は深く頷いた。「わかっている。それも踏まえて、ひとつ、手があるんだ」

 にっこりと笑った百花の表情に、今日子がえも言われぬ不安を感じたとき。

 廊下で電話が、けたたましく鳴り出した。



 今日も、あの人に会えなかった。

 憎いほどに雲のない黄昏たそがれを見上げ、ため息を吐いてから、晴は自宅の玄関を見た。昼頃までは雨が降っていたから、これはもしやと思ったのに、残念ながら彼女が学校を出る頃にはすっかり晴れていた。天気の良さをこれ程にうといと思うのは、学校の持久走大会の開催日以外では初めてかもしれない。

 そんな風に空を呪いながら戸に触れて、おや、と思ったのは、閉まっていると思っていた鍵が既に開いていたからだ。家の者がいない日中は必ず施錠しているのだが、なぜだろう。家を出る前に鍵を掛け忘れたか、もしくは。怪訝に思いながら戸を開けると、玄関には、自分に比べたら大きな革靴が一足置かれていた。

 靴を脱ぎ揃え、漂ってきた線香の香りに誘われて居間へ足を向けると、襖が少しだけ開いていた。開けて覗くとそこには、仏壇の前に座り手を合わせる兄の姿。

 彼は合掌を解くと、立ち上がりながらこちらを見た。襖を引く音で気付いていたのか、晴がそこにいることに驚いた様子はなかった。

「晴。お帰り」

「ただいま。早かったのね、兄さん」

 朝、家を出るときには、「今日は帰りが遅くなるかもしれない」と語っていたのに。けれど彼はどうということではないとばかりに肩を竦めて見せると、

「仕事が予定より早く上がれた。それにしても晴、お前は遅かったな」

 聞き返される覚悟をしていなかったわけではない。それでも思わず、どきり、と心臓が跳ねた。

 けれどなんとか平静を装い、首を傾げてみせる。

「そうかしら」

「土曜日に補講はないと言っていた気がしたが」

「ああ。昨日までの補講の内容で解らないところがあったから、先生に訊きに行って――それから少し、図書室で勉強をしていたの。次の試験でまた良くない成績を取って、兄さんに叱られたくないもの」

 おどけて言うと、彼は眉根を寄せた。

「おれはそんなもので怒ったりはしないよ。人には得手不得手がある」

「でも、成績が上がったら喜んでくれるでしょう?」

「それはまァ、な」

「だったら、私だって頑張るわ」

 にっこりと笑うと、彼のひそめた眉が少し緩む。その困ったような表情を歪めて、兄もまた、曖昧にではあるが、笑ってくれた。

 その笑顔から目を伏せ、晴は表情が苦く歪みそうになるのを堪えた。勿論言った通り、放課後は先生に教えを乞いに行ったし、図書室で勉強もした。――けれどその本当の理由は、帰宅時間を遅らせたかったからに他ならない。

 隠し事をすることに対する罪悪感。けれど、兄にそういう自分の邪な思惑を悟られたくはなかった。仕草が不自然にならないように留意しながら、別のことを口にする。

「そうだわ。ちょっと私、百花さんに電話してみる」

「ああ、そうか。昨日は繋がらなかったんだったな」

「うん。今日はお話できるといいんだけど」

 そして晴は自分の部屋に戻った。鞄を机の上に置いて、代わりに貰った用紙を握り、廊下に取って返す。

 電話機のもとに行くと受話器を持ち上げ、間違えないように一つ一つ、ダイアルを回す。最後のダイアルが元の位置に戻って、受話器から呼出音が届き――そうして待った時間はそう長くなかった。

「はい、もしもし。堀越です」

 繋がり、届いたのは女の子の声だった。受話器を握る両手にやや力が入る。

「もしもし。夜分にすみません」

「あれ。その声は、もしかして、晴さん?」

 こちらが名乗るより早く、電話の相手は彼女のことに気付いてくれた。そしてよくよく聞いてみれば、その声は昨晩聞いたものによく似ていた。もしかして、と名を呼んでみる。

「百花さん?」

「そうだよゥ。その節はお世話になりました」

 あのとき聞いた鮮やかな声が、受話器の向こうから耳に届く。彼女の楽しそうに喋る様子を思い出して、晴は思わず嬉しくなった。

「こちらこそ、いろいろご迷惑をかけて。けれど、ああ、繋がってよかった。昨日は何度掛けても繋がらなくて……お出かけでもされていたんですか」

「昨日?」尋ねると、訝しげに言って押し黙った。が、直ぐに理由に思い当ったようで「ああ、うん、一寸ちょっとね」と曖昧に答える。

「そうだ、そんなことより、聞いておくれよ晴さん。今日子から聞いたのだけれどね、朔さん、家に帰れなくなったらしい」

「あら」想い人の置かれた不幸かつ予期せぬ境遇に、思わず素っ頓狂な声が出た。「どうして?」

「それがね、この雨でバスが往かなくなってしまったらしいよ。以前から結構な雨男だと思ってはいたが、まさか交通機関に影響を出してしまうほどだとは思わなかったねェ。まったく、恐れ入るよ」

「そう、なんですか」

 百花は笑い種のように語るが、反対に、晴の心中は沈んでしまった。彼がバスを使わないということは、暫くは会わないということだ。

 彼の境遇を見舞う言葉の一つも吐かなければ、とは思うが、澱んだ腹の内では上手い返事をすることもできず、思わず押し黙ってしまう。あの人に、会いたいと言えてしまえば楽になれるのだろうが、それもまた、出来ない。連絡先も知らないし、万一知っていたとしてもそんな身勝手は到底伝えられない――ぐるぐると回る心の内。

 沈黙を破ったのは百花の方だった。彼女は、晴の心などまったく気にしていないような、変わらぬ非常に明るい口ぶりで、こんなことを言ったのだ。

「そうだ、丁度良いところに電話をくれたね。晴さん、明日って予定、空いている?」

「明日、ですか?」

 突然の予定確認に、固まりかけていた頭をなんとか動かす。手帳と、台所に掛けた予定表を思い出すが、明日は特に何も書かれていなかったはずだ。

「……ええ。特に予定はないけれど、何かあるんですか」

「うん。晴さんさえ良ければ、なんだけれどね――」

 そうして百花が提案した「明日の予定」は、晴にとって、願ってもない申し出だった。

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