第8話 薬缶の笛
朔の嘘つき。
と、腹の奥で旧友への恨み言を吐きながら、今日子は高野豆腐をひと欠片口に運んだ。
噛み締めるとよく吸った出汁が口の中に広がるが、まったくと言っていいほど舌に味を覚えないのは、料理人の腕が悪いわけではなく、ひとえに彼女の置かれた現状のせいである。
「まったくあれはあまりに分別がなさすぎる。確かに親と離れ日々を送ることでいくつもの苦労はしているだろうし、また、特殊な生まれと能力に思い悩むこともあろう。だから出来る限りの援助をしてやりたいと思うのは私も同じだが、それにしても幾分かは節度というものを――聞いているか、今日子」
「聞いているよゥ」
けれど吐けた相槌は酷く弱弱しかった。旧友は、彼はもう怒っていないだろうと言っていたのに。一体これのどこが、気が済んでいるというのか。
相伴に預っている少々遅い昼飯は、他でもないこの男、琥珀が作ったものである。この芸達者の作ったとなれば、どんなものでも旨くないわけがないのだ。ただ、向かいの席からくどくどと、終わる見込み無く続けられる説教を料理とともに喰らわされているのだから、出されたものが例えどんな絶品であれ味など楽しめるわけがなかった。ふと、これの説教を何かに録音しておいて聴きながら食えば、どんな不味いものでも食えるのではなかろうか、などという冗談を思いついたが口にする度胸はなかった。もしかしたら朔は、これの愚痴に付き合うことに疲れたから帰宅を選んだのではないだろうか、などという邪推すらしてしまう。
向かいの席に正座して、俯き眉間に皺を刻んだ琥珀が語ることは、昨晩の電話の無礼のことから、同居人の日常態度及びそれに対する今日子の監督姿勢のあり方に対する苦言。自分は少々甘すぎるのかもしれないと、彼女自身も自覚しているだけに耳に痛い。けれどもあの若さゆえの奔放さ、鮮やかさに惹かれている部分もあるのだと思うとなかなかに強くも言い難く――とも考えていた、そのとき。
部屋の外、何やら音がした。子供が戯れに吹く笛のような、長く、甲高い音。合わせて琥珀が顔を上げ、「ああ」と言う。
「湯が沸いたようだ」
「何の音かと思った。そうか、
これこそ説教から逃れる好機である。問いかけると、彼は立ち上がりながら首肯して返した。彼女に背を向け、襖に手を掛けながら答える。
「茶を入れる湯がなかったから沸かしたのだ。少し待っていてくれ」
「ああ、いや、お構いなく」
形式ばかりの遠慮、けれど彼もそれはわかっていたのだろう。肩越しに苦笑すると、「いい茶葉が手に入ったのだ」と言って、呼ぶ笛に答えるため部屋を出て行った。
そうして部屋に今日子だけが残される。
やがて遠くから聞こえる笛の音が止んだ。言葉もなく、今日子の箸の打つ音と、さらさらという雨音だけが室内を満たす。椀を持ち上げ吸い物を啜りながら窓の外を見ると、やはり濃灰の雲が立ち込めていた。食事の粗方を食い終わった今となっても、
そういえば朔はそろそろ家に着いたろうか、と思っていると、また廊下から甲高い音がした。しかし今度のものは、笛とは全く異なるものだ。ジリジリという振鈴の音――恐らくそれは電話のベル。襖を開けて見ると、予想通り、廊下の隅で黒電話が一生懸命に家主を呼んでいた。
廊下を歩き台所の暖簾を上げて、琥珀の様子を伺う。しかし彼は薬缶に構うだけで精一杯のようだった。
「琥珀、電話だよ。取ろうか?」
「ああ、頼む」
妖の家に電話をかけてくるものなど限られているが、さて、誰だろう。
廊下を歩いて黒電話の元までたどり着くと、受話器を上げ、耳に当てて挨拶をする。電話を取ったのが琥珀ではなかったことに窮したのか電話の相手は暫く黙り込んでいたが、やがて、「あァ、今日子か」と合点が言ったように彼女を呼んだ。その声は、昼間に聞いたのと同じものであった。
「おや。朔?」
「うん。琥珀はいるかな」
問われ、台所の方を見やる。こちらに来る様子はまだなかった。
「薬缶が湧いたので、台所にいるよ。どうしたんだい」
「いや、それがな」
帰ってきたのは、笑みを含んだ声。何処か自嘲にも見えるそれで、困ったように言った。
「乗り継ぎの駅まで来たんだが、そこから先のバスが動いていないという。土砂が崩れたか冠水したかまでは知らないが、この雨で道が塞がってしまったそうだ。今、
「成程」
そういえば朔の住処は人里から少々離れた山の方、行き来には
廊下の先、玄関の戸の向こうでは、まだ雨粒が懸命に地面を叩いているようだった。
「ちょっと待っていておくれ、今、聞いてくるから」
「頼む」
受話器を電話機の横に置いて、繋いだままそこを離れる。暖簾の間から台所の中を覗くと、琥珀は棚を開いて茶葉を探していた。
「誰からだった?」
「朔からだよ。雨で立ち往生してしまって、帰るに帰れないからもう数泊させて貰えないかとのことだ」
伝えると琥珀は、クッ、と喉で笑った。
「雨男は本当に難儀だな。――構わないが、何か茶請けを買って来てほしいと伝えてくれ。菓子の残量が心許ない」
「判ったよ」
電話機に戻り、その旨を伝える。彼は了承の意と、丁重な礼を今日子に託けて電話を切った。
「伝えてくれたか」
ちょうど今日子が受話器を置いたとき、琥珀が顔を出した。急須を握った彼の姿を見返しながら、小さく頷いて見せる。
「解ったと言っていたよ」
「そうか」
頷いて、首を引っ込める。台所に行くと、琥珀は二つの湯呑に茶を注いでいるところだった。急須の首から流れた濃い緑色が、湯呑の中にふわりと広がってゆく。
視線を変えて食器の水切り籠を見ると、そこには今日子の昼飯が盛られていた食器類が置かれていた。もう片づけたのだろうか、手早いことだ。
「しかしあれも、難儀だね。雨男なのだから、もう少し交通設備の整った都会の方に住めばよいのに」
「その意見にはおおむね同意だが、あれはどちらかといえば狐の性分がやや強くあるからな、あまり人を寄せつけたがらない。出来るだけ静かなところに棲みたいのだそうだ。確かに私も、あまり人間の多いところは好きではないが」
「うゥん」
確かに、妖であるからというのも勿論だが、そうでなくとも、しばしば見かけるあの
――それと。
人を寄せつけたがらない、という言葉で思い出した。朔が寄せつけないのは人だけではなかったはずだ。
「そういえば、朔はつがいになったことがないのだったね。妖狐のイメージにはあまりそぐわないような気がするよ。不思議だ」
と、琥珀は首を傾げた。
「妖狐のイメージ。そうだろうかね」
「そうだとも。現に妖狐には、良い外見で人間を騙すイメージがあるじゃないか。ほら、人間の伝承にもいくつか残っているだろう、人間の男を誑かす雌狐の話とか、権力者を抱き込んで食い物にしたりとか」
盆で手の塞がった琥珀の代わりに客間の襖を開けながら、あれやこれや、あれも狐か、といくつか有名な伝承を挙げてみる。と、琥珀は喉で小さく笑った。
「確かに、化かして誑し込む性分のある者もいないとは言わないが。しかし今日子、これは知っているかな。狐とは、畜生には珍しくも、生涯にただ一頭だけをつがいの相手とし添い遂げる性質があるのだよ。――朔は一生を添い遂げる相手にいまだ出会えていないと、それだけの話ではないのかな」
もしくはようやく、出会えたところであるのか。
客間の机からはやはり昼食の皿は片づけられていた。元のように着席し、差し出された湯呑を受け取って茶を一口啜る。
「そういえば琥珀は、晴さんを見たことがあるのだったね」
「一応、あると言えば、ある」
曰く、浮足立った様子で帰っていく朔に違和感を覚え、そっと後を追ったところ、あの停留所で会話をする朔と女の子の姿を見たのだそうだ。彼女と話をする朔の様子、また朔を見る彼女の様子にはとても割って入れぬ雰囲気があり、結局、何を言うこともなく帰ってきたのだという。
「どんな子だと思った?」
「遠くから見ただけで、あまりまじまじ観察したわけではないから、何とも言えん。ただ、朔の話からするには、とても優しい子だと」
「そうかい」
相槌を打ちながら、今日子は昨晩のことを思い出す。同じく学生の百花と、頬を染め、嬉しそうに朔のことを話す様子は、何の変わり映えもない、ただの年頃の少女に他ならなかった。
しかし。百花は言っていた――「彼女の陰には
この様子では琥珀は、彼女の傍らにいるらしい隠の存在には気付いていないようである。けれども百花の言うことが本当ならばそれは確かにいるのだろう。あれは性格に多少の難はあれど祓い屋の素質は充分だし、そういった気を見紛うことはまずない。
思案し、曇ってしまった表情を琥珀に見られてしまったようだった。眉を寄せ、怪訝そうに首を傾ぐ。
「その彼女がどうかしたのか」
「いいや。何も」
何が確定しているわけでもないのだから、まだ言うべきではないだろう。そう考えて、今日子はかぶりを振った。そのことに琥珀がどんな判断を下すかもわからないし、また、それが彼の口から朔に伝わることも避けたい。それが妖との関係にどういった影を落とすのかは今日子にはわからないが、それがどうであっても想い人の欠点など指摘されて気分の良いものはおるまい。
何気ない素振りで笑顔を作って向けるが、怪しまれたやもしれない。けれど琥珀はそれ以上何も言わず「そうか」とだけ答えた。
「というかそもそも、私はあまり彼女のことには首を突っ込まないようにしようと思っている。朔の私的なことであるわけだし、あれがその件に関して私を頼って何か言ってくるのなら友として援助もするが、そういうわけでもないのなら構うのは筋違いというものだろう。そもそも他人の恋愛事に必要以上に口を出して、馬に蹴られて死にたくはないからな――と、うん?」
不意に琥珀が、素っ頓狂な声を上げた。窓の外を向く彼の視線を追って今日子も外を見るが、そこには雨天の庭しか見て取ることはできない。湯呑を置くと立ち上がり、雨が吹き込まぬ程度に窓を開けると、垣根の向こうを見やるように首を伸ばす。暫し後、小さく唸って窓を閉め、また同じように席に着いた。
「どうしたね、琥珀」
「いや。こちらを覗く人影があったような気がしたのだが、気のせいだった」
「朔が来るにはまだ早かろうよ」
電話があったのはつい先ほどだ、着くにはあまりにも早すぎる。告げると琥珀は、それもそうだなと言って笑った。
――玄関の呼び鈴が鳴るまでに、それから一時間はしなかったように思う。
戸の開く音、それから「御免下さい」と声が続いた。琥珀と今日子が立ち上がり玄関に向かうと、そこには二人の予想した人物が、濡れた傘を一本携え立っていた。
出迎えた琥珀が、「お帰り」と言うと、朔は眉を寄せて苦笑した。
「けれど、早かったね。もうしばらくかかるかと思ったけれど」
「ああ。戻る最中、
今日子が尋ねると、朔は妖怪仲間の名を挙げた。朧車の尚子。彼女はその特性上、仲間を乗せて運ぶこともできる。
「彼女に、琥珀の家に向かう途中だと言ったら、道中だからついでに乗せて行ってやると言うのでありがたく乗車させて貰ったのだ。が、その礼としてお前に貰った大福を一つ分けてやったら、『さても旨いものだ、もう一つ、もう一つ』と。結局すべて食われてしまって、参ったよ。代わりにこれだけ急いでくれたというのはあるけれど」
「あれは食い意地が張っているからな。食い物をちらつかせたお前が悪かろう」
「それもそうだ。……けれど褒めてくれ、こちらは死守したよ」
そして朔は、白い紙袋を差し出した。受け取った琥珀と一緒に中を覗き込むと、そこには箱がいくつか入っている。
「どんなものが良いかわからなかったから、和菓子と洋菓子を取り合わせて幾つか買ってきた。味の程はおれも知らん」
「お前の趣味を信じる。今、お前の分も茶を淹れるから、上がってくれ」
「ありがとう」
琥珀はにっこり笑うと踵を返し、台所へと向かって行く。
それを見送りながら朔は、傘の柄を軽く叩いた。雨粒と一緒にさらさらと光の粒が落ちていき、力を失ったそれは傘の形を失ってただ一枚の木の葉となる。そうしてすべての荷物と雨から解放された彼は、大きく伸びをして「お邪魔します」と言った。
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