第7話 帰路

 夜のうちに友へ「昼前に御暇おいとまするよ」と言っておいたら、一体どこで聞いていたのかまったく律儀なもので、天はしっかり昼前から雨を落とし始めた。

 昼飯も食って行けばいいと言われたが、そこまで世話になるには申し訳がなかった。あれが他人に料理を振る舞うのが好きなことは知っているが、手土産もなくやって来た身分ではいささか厚かましすぎる。

 毎度のことながら黒い雲を見上げ肩を落とす朔へ、友が笑いを噛み殺しながら「土産に」と持たせたものは紙包。不思議に思って覗くと、中には小振りの大福が五つ入っていた。作った干苺を練り込んだ餡を使って作ったのだという。相変わらず芸達者な奴だ。

 左手に土産の重みを感じながら、右手に傘を握って雨に濡れる道を行く。いつものバス停にたどり着くと、丁度一台のバスが出ていくところだった。利用する人間の少ない停留所には相変わらず誰もいない――かと思いきや。

 軒の下には、小さな影がひとつあった。眉を寄せ、なぜか困ったような表情で、閉じたままの傘を眺めている和装の少女の姿。それは、彼のよく知るひとだった。

「今日子」

 雨音で聴こえるかどうか不安だったが、呼んだ声はしっかり彼女のもとへ届いたようだ。馴染みの猫又ははっと顔を上げた。彼の姿を認めると、八重歯を見せて嬉しそうに笑う。腕を掲げ大きく手を振るから袖が肩口に寄ってしまって、少々気の毒なことになっているのが気になったが、恐らく彼女自身は気にしていないのだろう。柄を握った手を、傘を落とさない程度に広げて振って返事とした。

 軒の下まで歩いて行き、軽く滴を払ってから傘を畳む。その横にやって来ると、今日子は小さく首を傾げた。

「朔。おはよう、気分はもう良くなったかい」

「お陰様かげさまで」

 朔が椅子に腰を下ろすと今日子も隣に座った。

 彼女は傘を隣に立てかけ、膝の上に小さな鞄から取り出したものを「ごめんよ」と朔へ差し出す。丁寧に薄紙に包まれたそれを受け取り、薄紙を摘まんで開けば、予想通り、微笑む少女の顔が現れた。

 今日子を横目でうかがう。こぶしを鞄の上に置き、肩を縮こまらせ、眉を寄せて唇を結んだ彼女は、ひどく居心地が悪そうに見えた。そこまで慙愧ざんきの念に捕らわれなくても良かろうに、と逆に朔の方が申し訳なくなってしまう。

「ありがとう」

 開いた包みを元のように閉じてポケットにしまい、礼を言うと、今日子はますます首をすくめ、極めて罰の悪そうな表情をした。本当に、そんな顔をしなくてもいいのに――しかし言ったところでさらに恐縮するだけだろう。だから小さく笑って、「食うかい」と、大福を一つ渡してやった。けれどそれにも良心の呵責かしゃくを覚えたようで、力なく項垂れる。

「まったく、僕の監督不行き届きだ」

「仕方がないさ。あれはそういう子だ、天真爛漫でいいじゃないか」

「そんなもの、誰かへ迷惑をかけていい理由にはならないよ。……うん、旨い」

 伸びる大福の皮を噛み切ると、今日子は言った。

 朔もまた同じように、大福を一つ取り出してかじる。確かに旨いが、量を食うには飲み物が必要だなと思った。軒の外には大量の水があるが、流石に人の姿で雨水を啜るわけにはいかないので我慢する。

「そうだ、今日は百花は」

「学校へ行っているよ。送り出してから、鍵を掛けて出てきた」

「そうか」

「昨日は午後、学校を抜け出して僕についてきたんだよ。今日はしっかり勉強して貰わないとならない」

 唇を尖らせ、拗ねるように言うともう一度齧りついた。口の端に粉をつけながら口を動かす様は、まるでわらべのようだ。飲み込むと、今日子は疲労の色の濃い溜息をついた。

「昨日の今日だ、本当なら行きたくなかったけれど、写真は早く返したいし、謝罪もしなくてはならないし……」

「それで独りで来たのか。偉いな」

「子供扱いしないでおくれ。僕だってもう百にはなっているのだ」

 唸る今日子の頭を軽く撫でると、彼女は大福を握ったまま睨むように朔を見た。

「百年如きではまだまだ子供のようなものさ。く言うおれだって、琥珀にしてみれば青二才だろうしな」

「朔と琥珀はいったい、どれほど生きているんだい」

「おれの歳はあまりよく覚えていないな、琥珀なら知っているかもしれないが。琥珀も一千年近く生きていたように記憶しているけれど、あまり詳しいことは知らない」

 妖の外見は生きた年月に比例しない。数百年生きてなお若い朔や今日子のような者もいれば、妖になったばかりだと言うのに年寄りのような外見と思考をしている者もいる。個々によって様々だ。

 ――年月に比例するものは、外見よりも。

 朔は残った大福をぽいと口に放り込むと、空いた手でポケットから葉を一枚取り出した。それを両手のひらで挟んで、少し間を置いてから、ゆっくりと左手を滑らせていく。そうして葉と引き換えに彼の手の中に現れたのは、白い手拭いだった。葉を一枚、化かしたわけだ。

 指に付いた大福の粉を払うために作ったそれである。目的の通りに手を拭ってから、今日子に向けて、ひらりひらり振って見せた。

「ただ、琥珀の奴の化かす力はおれなんかとは桁違いだ。あれは壊れたものを直すこともできるらしいぞ」

「そうなのかい」

「割れた器を直すところは見たことがある」

 いつだったか、それも琥珀の家で夕餉を食わせて貰ったとき。運んでいた大皿を一枚、琥珀がうっかり落として割ってしまったときのことだ。自らの失態に渋い顔をしながら欠片を回収し、いちばん大きな破片の上にすべての破片を集めると、フウと軽く息をかけた――次の瞬間には、散々に割れていたはずのそれは元の大皿へ戻っていた。

 傷一つ残さず元に戻った器を見て、感心した。何かに作用する力、自分或いは自分以外の他の物を化かす力、そういったものは、長きを生き、世を知ることで高い技術を得ることができるのだ。

「だから恐らく琥珀の奴はきっと、おれたちが思っているより長い時を生きている。まァ、そもそもあれは祠付きだ。力が大きいのはそのせいもあろうがね」

「あれはやはり、凄いのだなァ」

「それでも時には十幾つしか生きていない人の子に、怒ったり沈まされたりするのだ。まだまだ精進が足りているとは言い難いよ」

 それは朔自身も、そして今日子にも当て嵌まることだが。

「本当に万能なのだね、琥珀は」

「おれもそう言ったことがある。ただ、あれは『失くしたものを戻すことは私にもできない』と言っていたな」

「失くしたもの。どういう意味だい?」

「失せ物、落とし物のを知ることは出来ないとか、そういうことじゃないのかな。あァ、そうだ」

 壊れたものを直す、で思い出した。

 呟いて、朔は握った手拭いを一度振る。纏った力は光の粒となってほろほろと落ち、地面に触れる前に消えた。そうして元の葉の姿に戻し、それからもう一度、変化させる。力を纏ったそれの影は彼の命に従いふわりと伸びて、やがて出来上がったものは、女物の和傘。

 目を丸くする今日子に、朔はしたり顔で「使え」と差し出した。

「骨が折れたのだろう」

「気づいていたのかい」

 受け取りながら、素っ頓狂な声で言う。

 が、彼女以外誰がいるわけでもないバスの停留所で、困ったような表情で畳んだ傘を眺めていたのだから、彼女の身に何があったのかなど少し考えを巡らせれば直ぐに知れよう。

 傘を矯めつ眇めつし、異常がないことを確認した今日子は、そっと溜息をついた。

「まったく、朔が羨ましいよ。こんなものをいとも簡単に作ってしまうなんて、琥珀程ではないとはいえ、君の力も相当だ」

「この程度のこと、少し生きればすぐ出来るようになるさ」

「僕にはまだ、そんな程度のこともできない。精々が」言葉を切り、手の平を上にして目の前に差し出した。彼女の力が手の上に集まり、やがて現れたものは彼女がよく愛用している煙管きせる一管。「慣れ親しんだものを呼び出すくらいだ」

 両手で摘まんで、もう一度嘆息する。雁首は空で、吸うために出したわけではないようだった。

 暫くそれをぼんやりと眺めてから、やがて今日子はぽつりと言った。

「それからもう一つ、朔に謝らないとならないことがある」

 今度驚いたのは、朔の方だった。百花は他にも何かやらかしていたのか。とはいえ彼女が何をしたところで所詮は子供の悪戯である、朔自身は腹を立てるとも思わなかったが、心配なのは琥珀に知れたときのことで、何をしたのか知らないけれどそれが彼の耳に入ったときには一体どうなることか――と肝を冷やしたが、その心配は杞憂に終わった。

 今日子は躊躇うように少し沈黙を置いてから、ともすれば雨音に負けてしまいそうな小声で、ぽつりと言った。

「晴さんに、会ったんだ」

「晴に?」

 予期しなかった想い人の名に、思わず繰り返す。彼女は首を縦に振った。

「昨日の帰り、ここで。……朔を、待っていたよ」

「おれを?」

「そう。君が彼女と最後に会ったとき、また翌日もというような挨拶をしたから、ずっと、待っていたのだそうだ。だから、朔は今日は友人の家で体調を崩して、友人の家に泊まっていくから、今日は来ないと伝えた。勝手なことをして、ごめんよ」

 その瞬間、朔は幻覚を見た。

 雨音のない停留所で、一人俯いて椅子に座る少女の姿。膝の上に握った手は固く、丸めた背は寂しげで、肩ほどの黒髪を照る夕陽と風に揺らしながら、来ては行くバスに乗るわけでもなく無言でただそこに座り続けている――

「ありがとう」

 それはただの自信の妄想である。今日子の言葉に不意に思い描いただけの、直に見たわけでもない光景だ、しかし。

 思ってしまったからには、言わずにはいられなかった。

 聞いた今日子は、鈍重な仕草で頭を上げた。その瞳に込めた感情は、のちの言葉からすれば不可解とかそういったものであったのだろうが、なぜだろう、どこか苛立ったときのそれにも似て見えた。

「どうして礼を言うんだい、君は」

「今日子たちが晴へ、もう帰るよううながしてくれなければ、そのあともずっと、彼女を待たせることになってしまっていたやもしれないだろう」

「怒らないのかい」

「どうして怒ることがあろうよ」

「君を卒倒させたのは百花だよ。となれば昨日、ここで晴さんを待ち惚けさせた諸悪の根源は、他でもない彼女だ」

「……それは、まァ」思わず苦笑を浮かべてしまう。「けれど、そんなことを今更責めても仕方がないだろう。結果的に彼女をきちんと家に帰してやれたのだから、それでいいのではないかな」

 今日子は何かを言いたそうに小さく口を動かすが、合う言葉を見つけられず、結局諦めたようだった。呆れたようにかぶりを振って、ハァと大きく息を吐く。

「琥珀程とは言わないが、君もたまには怒るがいいよ、朔。そうでなければ、怒り方を忘れてしまうよ」

「怒り方、ね」

 善処しよう、などと答えながら、はて、自分が最後に激高したのはいつだったろうと考える。思えばもう、長いこと怒っていない。どうしてかと問われたら答えは、そこまで腹立たしく思うような状況に出会っていないからという至極単純な理由に尽きるが、確かに、長いことを生きていくということは不要なことを忘れるということでもある。もしかしたら彼女の言う通り、自分は怒り方を忘れてしまっているのやも、と冗談交じりに朔は思った。

 確かに感情の発現を忘れるのは宜しくないが、怒らず騒がず、日々穏やかで居られるのは良いことだ。そう言って微笑みかけると、今日子の眉間の皺が和らぎ、また彼女の口の端は少し歪んだ。まったく君は、と言って、彼と同じように笑う。続いた言葉はただの軽口であった。

「そうやっていつもぼんやりしているんだから。いつか本当に怒りたいときに困ってしまっても、僕は知らないよ」

「そのときにはまァ、自分で何とか思い出すさ」

「本当かねェ。……さて、と」

 今日子は弄んでいた煙管を紫の滴に変えて消すと、気合を入れるように軽く自分の膝を叩いて、えいやっと立ち上がる。雨をやます気配のない空を見上げ、折れた傘と手提げを左腕に掛けると、朔の作った和傘を両手で掲げた。

「写真を返せたことで、いくらか気が軽くなった。腹も決まったし、僕はそろそろ行くとするよ」

「家に帰るのか」

「いいや。昨晩の電話のことを、琥珀に謝らなければならない」

「あァ。あれか……昨晩は延々ブツブツ言っていたけれども、朝方その大福に恨み節を叩きつけたら、幾分か落ち着いたようだったし、もう大丈夫だろう」

「だといいのだけど。――傘をありがとう、借りていくよ」

 薄紅の藤をあしらった蛇の目。肩に掛けられたそれは彼女の笑顔と和装によく合っていて、自分の趣味が間違っていなかったことを再確認したようで思いがけず嬉しくなる。「それじゃ」軽く手を振ることで別れの挨拶に変えると、今日子はこちらに背を向けて、雨の中に足を踏み出した。

 そうして彼女は琥珀の家に向かい、停留所に朔だけが残される。

 朔はゆっくりと背もたれに体重を預けると、ひさしを見上げ、去った猫又と友のことを思った。琥珀は今日子に多少の文句は言うだろうが、今日子もまた琥珀と同じように、百花に引っ張り回されているだけの被害者であることは重々承知している。だから彼女が思っているほどには、彼の小言は長くならないだろう。危険性があるとすれば百花だが、あれは琥珀の説教など聞くような人間ではないし、聴いたところですぐにすり抜ける。琥珀や今日子は彼女のそういうところにほとほと困っているようだが、あの神経の図太さは羨ましいとしばしば思う。あの楽天的で前向きな性格を少しは学びたいものだ。そうすれば自分も幾分かあの少女との関係に対し――

 そんな俗らしいことを馬鹿らしいほど真剣に考えていたから、朔は、音を立てて乗車口が開くまで、自分の乗るべきバスがやって来たことに気がつかなかった。

 残った大福の袋を慌てて掴み、「乗ります」と叫んで急いで車両中央の乗車口からバスに乗り込む。

 階段を上って、設置された機械から乗車券を引き抜いたそのとき、チリンチリン、と何やら金物の触れ合う音が聞こえた。音の発信源はバス前方。何かと怪訝に思いそちらを見ると、バスの運転手脇で、人間が一人、料金を支払っているところだった。どうやら、料金入れに小銭が落ち、触れ合う音だったらしい。

 料金を落としているその男は、朔には見覚えのない人間であった。とはいえ人などこの世のどこにでもいる、見覚えがないだけであったらそれほど気にも留めなかったろう。けれど朔がその人間のことを妙に気になったのは、それの伏せた目が必要以上に人を厭うようであり、またその双眸から生まれている表情がどうにも空疎なものに思えたからだ。妙に陰気な印象のある男だった。

 愛想の良い運転手がそれに向け「ありがとう御座いました」と言ったが、それにも目を合わせず、俯いたままただ無言で、車内を振り返ることなく下車していった。今の停留所で客が新たに一人乗り込んだことにすら、気づいていないかも判らない。

 空いた席に腰掛け、何とはなしに外を見る。と、バスの隣にあの男がいた。降りたその人は何かを伺うように、ゆっくりと首を動かして辺りを見ていた。失せ物でも探しに来たのか、それとも探しているものは人か。いずれにせよ何か特別な事情を抱えているようだ、などと勝手な推察をする。生きる人らの思うこと、抱く関係は、妖のそれらとは比較にならぬほどややこしい。

 そんなことを思いながら眺めていると、停留所の男が顔を上げ、不意に朔と目が合った。関わり合いになりたくなくて思わず目を逸らしてしまいそうになるが、それは人にとって礼儀知らずだとされる行為であることを知っている。妙なところでつまらない非礼を働いて、人の世で生きにくくなるのも面白くないと思い、軽く会釈をして返す。けれどそれにとっては朔の反応も興味がないものであったようで、ふいと顔を逸らしてしまった。

 シュウ、と音を立てて扉が閉じ、やがてバスが動き出した。かつて仲間が『鉄の猪』と揶揄したそれは、少しずつ速度を増し、停留所と男の姿を遠ざける。

 伸ばしていた背を丸め、背もたれに重心を預ける。ねぐらまでの路を行く、まるで揺り籠のようなバスの揺れ。一晩中、友の愚痴と酒に付き合っていたからだろうか、背中から伝わる揺れは瞼を少しずつ下ろしていき――そうしていつしか深い眠りに落ち。

 目的地を告げる車内放送でようやく目を覚ましたときには、見かけた妙な男のことなどすっかり忘れてしまっていた。

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