第6話 晴

 受話器を耳に当てて、どれくらい経ったろう。貰った紙をもう一度眺めながら、晴は「おかしいな」と呟いた。

 家に着き、明日の準備をし終わった後。今日の礼を言おうと百花のところに電話をかけてみたのだが、一向に繋がらない。電話番号は合っているはずだが、しかし受話器から聞こえてくるものは無機質な呼出音ばかりである。

 書かれたアラビア数字は癖のある字だが、読み間違えるほどに悪筆ということはなかった。まさか彼女が書き間違えたのだろうか。自宅の電話番号を間違える人がそういるとも思えないが――悩んでいると、背後から声がした。

「どうした、晴」

「兄さん」

 振り返るとそこには、風呂から上がったらしい兄がいた。髪はまだ少し濡れていて、黒く艶がある。

「百花さんのところにかけているんだけれど、全然、出てくれないの。どうかしたのかしら」

「ご家族でどこかに出かけているんじゃないのか。誰も電話に出ないということは、ご家族も家にいないということだろう」

「そうかしら」

「そうとも。――納得したなら、早く寝なさい。明日も早いんだろう」

 説教じみた口調で言われて、晴は思わず唇を尖らせた。

 晴に両親はいない。晴がまだ幼いころに他界し、歳の離れた兄が彼女の親代わりになっていた。兄が社会に出るまでは親族付き合いや金銭面においてよく祖父や伯母の援助を受けていたが、兄が学校を卒業し稼ぎを得るようになってからはそれもほとんど無くなっていた。

 不承不承、解りました、と答える。と兄は、少し頬を緩めた。

「けれど、まァ、安心はしたよ」

「安心?」

「最近お前の様子が少しおかしいように見えたから、また何かあったのかと思っていたんだ。けれどそうやって新しく友達を作るだけの余裕があるのなら、心配はなさそうだな」

 どうやら兄なりに晴のことを見ていたらしい。

 兄は少し頑固なところこそあるが、誠実で、清廉で、見目もそれほど悪くはない。晴には隠しているつもりのようだが、縁談の話がよく来ていることも知っている。どこそこのお嬢様だの、なかなかない良縁だのと伯母が説得しているのも聞いたことがある。けれど彼がそれに応じたことは一度たりとない。食事だけでも、という誘いもすべて断っている。晴が以前それとなく理由を聞いてみたところ、兄は困ったように笑って「どんな縁より、お前の方が遥かに大事だよ」と言った――恐らく、兄が身を固めないのは自分の存在が隘路あいろになっているのだろう。

 だから晴は、兄を安心させるためにも早く一人前にならなくては、と思っている。今はまだ庇護を受けている身分だが、早く社会の一員となり、身を立て、自分とともに歩んでくれる誰かを探し、在りし日の両親のようにいられる素敵な人を見つけて。そうしたらきっと、兄も安心してくれるだろう。

 何度考えたか判らぬそんなことをまた思った、そのとき。

 不意にある人の顔が浮かんで、晴の心臓が小さく跳ねた。

 降る雨の中微笑む、端正な顔立ち。

 異質な雰囲気をたたえ、穏やかな瞳で彼女を見つめる、一人の青年。

「晴。どうかしたのか」

 声をかけられて、はっと我に返る。

 焦点を合わすと、兄が不思議そうに彼女を見ていた。慌ててかぶりを振る。

「なんでもないわ。仕方ないから今日は諦めて、明日もう一度、百花さんに電話をかけてみようと思っただけ」

 また言い訳に、彼女を使ってしまった。

 今日知り合ったばかりの友人へ、心の中で謝罪をする。まだ、兄に彼のことを話す気にはなれなかった。恋仲であるわけでもなく、そもそも相手に何を伝えてもいない、勝手に懸想しているだけだ。兄に変な気を回されるのも、下手に伝わってあの人に迷惑と思われるのも嫌だった。

 顔を上げて、にっこり笑う。そうして兄へ、夜の挨拶をした。

「お休みなさい。兄さん」

「お休み、晴」

 腹の底を読み取られてしまわぬうちに、自分の部屋に戻った。

 明かりをつける。畳の六畳間にあるものは学習机と本棚と、箪笥。本棚の中身は参考書と娯楽本が占めているが、娯楽本の割合の方がやや多い。

 窓の外はすぐ垣根で、その間には猫一匹程度の隙間しかない。開けたところで何の景色も見られないそれだが、今日は月くらい見つけられるだろうか。そう思いながら少し窓を開けてみるけれど、位置が合わなかったようで月の姿はなく、代わりに狭い夜空には、幾つか星が煌めいている。少なくとも、雨は降っていないようだった。雨男なのだと自嘲気味に笑ったあの人は、今は屋内にいるのだろうか。

 体調を崩したあの人は、今晩は友人の家に泊まるという。気分はもう治ったろうか。大事にはなっていなかろうか。――介抱している友人とは女性だろうか。そんなことを考えて、胸がちくりと痛んだ。自分はあの人のことを何も知らないのだと思い知らされる。

 窓を閉め、鞄の中から手帳を取り出してから、電気を消した。手帳を握って布団に入り、その間に忍ばせた写真を見て、彼女は小さく溜息をつく。窓から差し込む薄明りで見えるのは、あの人に頼んで一緒に撮って貰った一枚。図々しい娘だと思われないかと不安だったが、彼は快く応じてくれ、また出来上がった写真を渡すと、子供のように喜んでくれた。

 百花と今日子が言うには、あの人もまた、晴のことを憎からず思ってくれているという。次に会ったときは、あの人自身のことを聞いてみよう。教えてくれるだろうか。どんなことを聞こう。どんな仕事をしているのだろう。家族は、趣味は、好きなものは――そうして思いを馳せるうち、彼女の意識はうつつを離れていく。

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