第5話 黒電話

 百花を頼む、と。

 そう託された日のことを、今日子は昨日のことのように覚えている。

 百花は現在、実家から少し離れた場所に立つ別宅で、独りで暮らしている。百花の年齢が十を迎えた年に、両親と祖父が彼女へ離れて暮らすように告げたのだ。

 その理由を彼女の両親等は、百花には「自立の為」などと話していたが、実際の処は違う。彼女の身の安全の為だ。百花も同様であるが、彼女の家系は皆、祓いの力を持っている。それを利用して人に害なす力や人ならざる者――妖怪を含む――を排除することを生業としているが、そのため、人に害をなそうとする人ならざる者から恨みを買うことも少なくない。人ならざる者の報復によって家が襲撃されようと百花だけは助かるようにという、彼女への配慮だった。

 その際、彼女の両親と祖父が、当時から彼女の実家を出入りしていた害なき妖である猫又の今日子へ頭を下げたのは、やはり娘が心配だったからなのだろう。どうか彼女の生活を助けてやってくれないか、と頼まれ、また今日子の方も、家の事情で独りで生きていかなくてはならなくなった彼女のことを不憫ふびんに思ってしまい、今に至る。

 確かに当時は百花のことを不憫に思った。出来ることなら悩みなく、健やかに成長してほしいと、親でもないのに願った。

 ――けれど。

 琥珀の家を追い出されてから、バスに乗って、帰路を歩き、家につき、門をくぐり、そして百花と二人で玄関の引き戸の前に立ち。戸の向こうで延々鳴り響いている電話の呼び出し音を何処か遠くに聞きながら、この娘は悩みなく健やかに育ちすぎたやもしれない、と、今日子は今更ながら深い後悔を覚えるのだった。

 これだけ延々鳴らし続けて出ないのだ、電話主も家主は留守だと判っていように、それでも電話の音が途切れることはない。となればその発信者は限られてこよう。ヂリヂリと鳴り響くベル音に、苛立ちが透けて見えるような気がするのは錯覚だろうか。

「嗚呼、もう。嫌だなァ」

「嘆いたところで仕方がないじゃないか。開けるよ」

 猫のかたちであったなら、髭も耳も元気なく垂れていただろう。今日子の嘆きに、しかし百花は取り合わず、鞄の底から鍵を取り出して戸に刺す。回すと、カチン、と軽い音がして錠が解けた。玄関の戸を開けると、遮るものの無くなったベル音がつんざくように彼女等の耳へ届いた。

「ただいまァ」

 おかえりと言う者もいない家だが、百花はそれに関して特に思うことはないようだ。鞄を置くと上框あがりかまちに座り、靴に手を掛ける。

 一方、今日子は下足を履いたままに足を持ち上げ、かまちを越えて室内へ一歩を踏み出す。足が床に触れる直前、今日子の下足はすみれ色の光となって消え足を覆うものは足袋だけとなった。今日子の纏うそれらは全て自らの力によって発現しているものであって、出すも消すも自在である。

 革靴を三和土たたきの隅に揃える百花を見ていると、不意に思い出したことがあった。

「そういえば、百花」

「何だい」

「百花はあの停留所で、何かを見たのかい」

 百花があの兄妹の会話に突然口を挟んだことが、少々気になっていた。他人のことなど顧みず自分の好き勝手やることの多い百花が、どうしてわざわざあのときに限って晴を庇うような行動に出たのだろう。もしやあの兄が彼女の好みだったとか? そんなことはあるまいが。

 脇に置いた鞄を取り上げ、靴下だけになった足で立ち上がる。百花よりほんの少し背の低い彼女を真っ直ぐに見て、小首を傾げた。そして、「何かとは、なんだろう」と、言う。

「いや」しかし今日子としては、聞き返されても困るのだ。何せ、具体的な理由があって尋ねたわけではないのだから。「なんとなく、様子がおかしいように見えたものだから。違うのなら悪かったね」

 すると百花は、困ったように眉を寄せた。やがて顎に片手を当て、俯き、うんうん唸りはじめる。

「百花?」

 名を呼ぶけれども返事はなく、彼女は顔を上げることもしない。そのまま歩き出した彼女は、今日子を玄関に置き去りにしたまま廊下をスタスタと行き――電話の前を通り過ぎ――そして台所へと入っていく。突然どうしたのだろう、ときょとんとしていると、再び百花が台所から顔を出した。暖簾のれんを少し持ち上げた百花は、佇んだままの今日子の姿を収めると、勝ち誇った表情でこう言ったのである。

「電話、よろしく」

 そしてふいと姿を消した。

 押しつけられたと気づいたときには、遅かった。

「……えェ、ちょっと、百花!」

 抗議の声に、返ってくるものは鼻歌だけ。

 鳴り止まぬ電話を前に、肩を落として立ち尽くす。百花を無理矢理引っ張って来ようとしても、徒労に終わるだけだろう。なんとかしてここまで連れてきたところで、今度は受話器を握らせるという重労働が待っている。どれだけ腐心しても結局は大方の確率で自分が出ることになるのだ――百年は生きた猫又である自分が、たかだか十六、七の人の子にやり込められている現実に頭痛を覚えながら、今日子は喧しく呼びつける電話の受話器を取り上げた。

 どれ程距離があろうとまるで隣にいるように会話が出来る、たいそう御節介な機械。まったく人間は厄介なものを作り出したものだと、嫌悪に顔を歪めながら恐る恐る受話器を取り上げ耳に当てる。

 しかし。おや、と怪訝に思ったのは、電話の向こうから届いたものがただの沈黙だったからだ。響く声は呼出音以上に鼓膜を劈くのだろうとばかり思い込んでいたので、今日子はいささか驚いた。

 双方で沈黙を続けていても何の価値も意味もない。恐る恐る、問いかける。

「……もし?」

 暫しの静寂、のち、答えが届いた。

「百花を、出せ」

 それはまるで地の底から響くような、低い低い、声であった。

 突如怒鳴りつけられることと同程度、いやそれ以上に恐ろしい。耳から入り一瞬のうちに全身を駆け巡った、獣としての拒絶反応、嫌悪感に思わずニャアと声が出た。我知らぬうちに二本の尾が出現する。もしかしたら耳も顔も、獣のものに戻っていたやもわからない。

 瞬時に毛深くなった両手で、挟むように受話器を支える。震える声で、声の主の名を呼んだ。

「こ、琥珀」

「無事に家に着いたようで何よりだ、今日子。――百花を出せ」

 琥珀とは妖仲間だが、向こうは祠付きであって、今日子とは等級が遙かに違う。今日子が格上の彼を相手に争ったとしたら、一溜りもないだろう。電話向こうからひしひし伝わる不穏な空気に腰が引けながらも、なんとか言葉を絞り出した。

「百花は、そのゥ、夕飯の支度で忙しくて」

「奇遇だな、こちらも夕餉が冷めてしまうので急いでいる。利害の一致とは目出度めでたいことだ、早く出せ」

 電話口から届くものに、「そこまで怒る必要はない」だの「次の際に返して貰えればそれで良い」などという声がやや遠く混じる。恐らくは朔が宥めているのだろう。いいぞ、頑張れ朔、と応援するが「黙っていろ」との一言で切り捨てられたようだった。

「お前たちはあれに甘すぎる。たまには灸を据えてやらんといけない」

「わ、解ったよ、今、呼ぶよ――百花、百花ァ!」

 琥珀の言うことももっともだ。仕草など電話の向こうに届きはしないだろうが、今日子は力一杯頷くと、送話口を手で塞いで彼女の名を叫ぶ。二度呼ぶと、ひどく面倒そうに百花が顔を出した。

「珀さんだろう? 写真のことにグダグダ言っているのだろう? 適当に話をつけておいておくれよ」

「僕では無理だよ。代わっておくれ、百花」

 懇願する声は自分で思ったよりも萎れていた。塩の掛かった青菜かもしくは蛞蝓かたつむりのようである。けれど百花は顔色一つ変えず、首を傾げて「仕方がないな」と呟くと小走りでこちらにやって来た。

 百花に向けて受話器を差し出す。けれど彼女はそれを受取ろうとはせず、

「ふむ」

 膝を折ってその場に座り込んだ。

 はて、何だろう。床に何か落ちていただろうかと、百花の視線を追う。しかし彼女の目は床を見ていなかった。電話機を置いた台の足、いやその脇、壁――そこにあるものに今日子が気付いたときには時遅く。

 ブツリ、と。

 百花は迷いも躊躇いもなく、電話線を引き抜いた。目の前で起こった恐いもの知らずの所業に今日子は暫し放心し、我に返ると慌てて全身で受話器に縋りつくが、勿論のことどこにも通じていなかった。いつの間にやら大きさを増していた受話器の存在で、自分が猫の姿に戻っていることに気づいたが、今はそれに構っていられない。

 よいしょと掛け声を上げ立つ彼女に、今日こそは説教をしなければと声を荒らげ名を呼ぶ。

「百花!」

「今日子。君は、私に聞いたね」

 しかし。

 それを遮るように彼女を呼んだ百花の声音は、なぜか醒めるように落ち着いていた。何を思っているのやら測り兼ねていると、百花はこちらを見下ろし、今日子が聞いていることを確認してから、背を向けた。

「停留所で何かを見たのか、と。言うかどうか迷った」

 そして、口を閉じる。

 躊躇うような沈黙の後、ぽつりと囁くように、こう言った。

おぬを見た。晴さんの、脇に」

「オヌ」

 突然吐かれたその名称に、今日子は思わず、息を呑んだ。同時に、放とうとしていた非難の言葉もまた飲み込んでしまって、出てこなくなる。

 隠。――名は知っていた。

 百花や彼女の家族はそれを、ある意味で式のような、またある意味で生霊のようなそれ、と喩えた。人の抱く恐れや憎しみ、負の感情を礎とし膨れ上がり、大きく育てば時に人や獣を襲うこともあるという。獣や妖が孕むことはなく、人だけが生み出すことの出来るそれは今日子のような下等な妖には見て取ることができず、また主である人にも見ることができないらしい。祓い屋の特性を持つ百花や、琥珀程の妖怪であれば感じられるが、それが誰を主とし、どのような由来で生まれたのかは、百花や琥珀にも判じ難い。

 その恐ろしいものが、あの狐が懸想した少女に憑いていると?

「それは、どういう」

「解らない」

 尋ねるが、百花はゆるゆると、かぶりを振った。その瞬間の彼女の表情を見てみたいと思ったが、残念ながら背を向けていて判らない。

「晴さん自身が抱いたものか、それとも誰かが晴さんに憎しみを抱いているのか――そうして誰かが、彼女に隠を差し向けているのか。まァったく、判らない。だから今は無駄なことを聴きたくも、考えたくもないのだよ。申し訳ないが、珀さんの説教も然り、だ」

 振り返ると、体を屈めて小さな今日子を抱き上げる。そうして瞳を真っ直ぐに見ながら、百花はこう、今日子に言った。

「とはいえ、人は誰しも腹に小さな隠を飼うと言う。あれはまだ、それほど大きな隠ではなかった。少し、調べてみようかね」

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