第4話 停留所にて



はくさんは、相変わらず頭が固いなァ」

 空を見上げれば東はすでに深藍に染まり、星がちらちらと瞬き始めている。西の山沿いはまだっすらと赤が残っているが、それもすぐに消えるだろう。

 今日子は百花の横について歩きながら、小さくため息をついた。まったく、今日は琥珀のところで夕餉を御馳走になる予定だったというのに、なんとも残念なことをした。

 琥珀の作る食事は本当に旨いのだ。香の物一つ取ってもそこらの品とは一線を画している。あまりに旨いので、以前、「食い物ではない何かを化かしているのか」と聞いたことがある。が彼は眉をひそめ「いずれも真っ当な食材だ」と言っていた。あれも妖としてそれなりの力を持つ狐である、食い物など自身の力でどうとでも加工できように、敢えてそうしない。料理は趣味なのか、それとも万能故の苦労への憧れなのか、そこまでは判らないが、いずれにせよ今日子はあれの作る飯を食わせてもらうのが好きだった。

 だが、今日は。

「琥珀だって、怒るよゥ。やりすぎだよ、百花」

「そうかねェ」

 飯を食えなかった八つ当たりも若干含め、窘めるように言うが、当の百花はケロッとしている。大したことをしたとは思っていないようだ。

「と、いうか、朔さんが打たれ弱すぎるのではないかな」

「確かにそれはあるかもしれないけれどね」

 長い付き合いの中で気づいたことだが、あれは色恋に免疫がない。畜生の割には繁殖に興味がなかったのか、ただの狐であった頃にも、つがいでいた記憶はないのだという。

「でもああ言えばああなると明らかなのだから、少しはおもんぱかってやらないといけないよ。第一にね、言うにしてももう少し言い方というものが……百花?」

 と、まだ言い足りない小言を敢えて途中で切ったのは、前を行く彼女が突然足を止めたからだった。立ち尽くした彼女の表情を伺うと、彼女は不思議そうな表情で遠くを眺めている。

「ね、今日子。あの子、似ていないかな」

「あの子?」

 百花の視線を追う、と、少し先のバス停の軒の下で学生服の少女が一人、椅子の端に腰かけていた。膝の上に手を置き、肩を丸め、俯いて、どこか寂しげな様子でいる。

「椅子に座っている女の子のことかな」

「そう」

「似ているって……」しかし今日子には、見覚えがない。雰囲気からしてただの人の子のようだが、そもそも妖である今日子には人の知り合いはそう多くなかった。百花の学校の知り合いとかだろうか。であれば彼女が知るわけはない。「誰に?」

「彼女に」

 すると百花は鞄から、一枚の紙切れを出して眺めた。風にしならないところを見るとしっかりとした厚みのある紙であるようだ。印刷されたものの精細さからするに、どうやら絵ではなく写真らしい。

 覗き込む。そこに映っているものを見て、今日子は思わず目を剥いた。

「も、百花、それ、何?」

「写真。朔さんが持っていたのを借りて来た」

「か、借りて、って、朔の許可は」

「やっぱり、似ているよねェ」

「百花!」

 思わず叫んだ同居人の名は悲鳴のようになった。猫の姿であったなら、今日子の尾はこれ以上ないほど太くなって天を指していただろう。

 写っていたのは二人。柔らかい笑顔を浮かべる少女と、強張った面持ちの青年が、写真紙の中で顔を寄せ合いこちらを見ている。そして――認めるのも恐ろしいが――その青年とは彼女の旧友である化け狐に、また少女は、今バス停で腰かけている彼女によく似ているのだった。

 恐らくはそれこそが、あの旧友が懸想しているという人の子なのだろう。名前は確か、晴とか言ったか。

「琥珀、琥珀。僕は関係ないよ。全て百花がしたことだよ。琥珀」

「何をぶつぶつ言っているのだい。行くよ、今日子」

 猫が長い年月を生きることで妖になるのと同じように、狐は月の力を得て妖になるのだという。ならば月に謝罪を投げればあの旧友等に届くのではと空を見上げるが、月は我関せずとばかりに、薄雲の向こうでおぼろぐばかりだった。

 そして今日子の思いを斟酌しんしゃくしないのは百花も同様で、彼女は今日子の袖を掴むと引いて歩き出す。

「行くって、その、どこへ」

「バス停に決まっているだろうに。バスに乗らなくては家へ帰れないよ」

 しかしその目が、目的は別にあると雄弁に語っている。

「よ、良くないよ。百花、百花ァ」

 けれど今日子の制止など、この百花が聞くはずない。萎びた声を上げながら、今日子は引き摺られるように歩いていく。と、どうやら晴の方が二人に気づいたらしく、はっと顔を上げた。

 その瞬間の晴の表情はまるで暗闇に一縷の光を見つけたようで、またかすかに動いた唇は、音こそ聞き取れなかったがどうやら「朔さん」と呟いたようだった。しかしそこにいる人間が見も知らぬ女二人だと判ると、すぐにまた目を逸らして再び俯き、何かを耐えるような寂しげな表情になる。

 その様子に、今日子と百花は思わず顔を見合わせた。

 百花の目は「声をかけてみようか」と言いたそうなそれである。止めても無駄なのだろう、肩を竦めて、好きにすればいい、と答えた。

「あの」

 百花が声をかける。と、彼女の肩がびくり、と震えた。

「人違い、でした」俯いてこちらを見ないまま、縮こまって言う。「すみません」

 どうやら人見知りのきらいがあるらしい。これでは、遠回しにものを言ったところで話は進みにくそうだと感じる。

 けれどそういうところで、百花の物怖じしない性格は役に立った。大きく首を傾げると、彼女に向けてはっきりこう尋ねたのだ。

「もしかして、朔さんを待っているのかな」

 跳ねるようにこちらを見た、その反応が雄弁な回答となった。

 晴は目を丸くして、こちらの姿をまじまじと見る。和装と学生服の二人組を、奇妙だと思っただろうか。けれどそれについては何も言わなかった。そんなことよりも遥かに先に立つことがあったようだ。

「あの方を、ご存じなんですか」

「まァ、そうだね」

「そうですか。あの、失礼ですが」少し躊躇うような沈黙の後、彼女はこんなことを百花に尋ねた。「朔さんとは、どのような御関係でいらっしゃるんでしょう」

 投げかけられたその問いは、しかし二人にとって非常に難しいものだった。

「か、関係?」

 今日子は口籠る百花の姿を久しぶりに見た。

 が、さもありなん、百花と朔の関係性などどう言ったものか、今日子にも見当がつかない。まさか、ここにいる同居人の妖怪仲間ですとは流石に言えまいし。百花が助けを求めてこちらを見てくるが、つんとそっぽを向いてやる。普段の仕返しである。困り果てた百花は「何と言ったらいいのかな」と曖昧に呟いて、人さし指であごを掻いた。

 しかしその少女は、答えられずにいることに妙な解釈をしたらしい。短く息を呑むとみるみる表情を暗くして、膝の上に固い拳を作った。

「その、すみません」

「え?」

「出過ぎたことを、聞いてしまって。いえ、朔さんは素敵な方ですから、その、こ、恋仲の方は、いらっしゃるのだろうとは、解ってはいましたのに、あの、すみません、わ、私、本当に失礼なことを」

「え? こ、恋仲って、え、えェ――ち、違う違う!」

 滅相もない、と大きくかぶりを振る百花。彼らの日常を知っていれば絶対にすることのない勘違いに、今日子は思わず吹きだした。

「百花と朔が恋仲だって? 何だそれ、傑作じゃないか。百花、末永く幸せにね」

「なんて面白くない冗談なんだか。妙な誤解はやめて欲しいね、誰があの昼行灯ひるあんどんになんて懸想するかって話だよ」

「そうでしょうか。……素敵な人だと、思いますけれど」

 二人の軽口にそっと挟まれた、晴の言葉。

 これは、また。彼女から吐かれた好意的な印象に、今日子は思わず感心し、また、あの朔が人の子とこうも上手くやっているとは、と驚いた。おそらくは百花も腹の内でそう思っただろう。けれど二人は特に気にしていない素振りを装って、揃ってにっこり笑って見せる。

「素敵、かな。私達には解らないけれども、ともかくそういった関係じゃァないよ。少なくとも、甘くも酸っぱくもないそれだ」と笑いながら首を傾げて、「そうだ、自己紹介がまだだったね――私は百花。こっちは今日子で、私の同居人。朔は今日子の昔馴染み。関係性は、簡単に言ってしまえばそんなところかな。ねェ、今日子?」

 咄嗟に上手い説明を考えついたものだ。同意を求められた今日子は、間違いは言っていない、と頷いて見せた。

 晴の方は、自分が晴という名であること、通学にこのバス停を利用していること、朔とは少し前にここで出会ったこと、などを話した。なお、その自己紹介を受けて百花が「それで晴さんは朔さんのことをどう思っているのだい」などと言い出しそうになったが、慌てて今日子が百花の口を押さえたことで何とか事なきを得た。

 刺激の強いことは言わないように厳命してから手を放し、百花が口を開く前に今日子が問う。

「それで、晴さん。朔を待っていたって言っていたけれど」

「ええ。昨日もここでお会いして、それで、その際に朔さんが、また明日、と仰ったので。てっきり、今日も来るものかと」

「それだけで、こんな時間まで?」

 学校帰りの少女が一人でいるには、いささか遅い時間である。

 すると晴は暫く押し黙ったあと、小声で、恥ずかしそうに答えた。「もう少しだけ、もう少しだけ待ってみようと思っていたら。いつの間にか、こんな時間になっておりました」

 縮こまる晴の姿を見て、百花が小声で今日子を呼んだ。

「今日子」

「なんだい、百花」

「私は今、初めて、今日朔さんを気絶させたことを後悔したよ」

「そりゃァ良かった。百花も人としての心を手に入れ始めたということかな」

 毒を吐いたつもりだったが、百花に通じたかどうかは定かでない。

 うゥむ、と今さら慙愧ざんきの念を感じて唸る百花は放置。今日子は朔の友人として、晴に向けてこう言った。

「こんな時間まで待って頂いて忍びないけれど、今日は朔はここには来ないよ。ちょっと体調を崩してね、友人の家に泊まっていくことになった」正確には泊めてやると琥珀が言っていただけで、はっきり決まっていたわけではないが、恐らくはそうなるだろう。

「ご加減が……? その、朔さんは、大丈夫なんでしょうか」

「あァ、うん。僕らが出てくるときにはまだ眠っていたけれど、ちょっと貧血を起こしたようなものだから、じきに良くなるだろう。明日には元気になるんじゃないかな」

「そうですか。それは良かった」

 強張った表情が柔らかくなる。胸を撫で下ろし「お大事に、とお伝えください」と温かい言葉を言った。なんと心優しい人の子だろう、同居人に爪の垢を煎じて飲ませてやりたいと半ば本気で思いながら百花の方を向くと、何かくだらないことを思いついたようで、きらきら輝いた瞳でこちらを見ていた。

 嫌な予感しかしない。訝しげな表情を作って見せると、彼女は顔を寄せこんなことを言った。

「ねェ、今日子。見舞いに誘ってみようか」

「火に油を注いでどうするのさ」

 それは何としても許可できない。彼の体調の優れない今、下手に驚かして彼女の目の前で狐に戻られては面倒である。あれの変化は非常に優秀で人に見破られたことはまずないが、それでも妖仲間としては心配だった。連れていくにも会わすにしても、まずは当人の体調が万全でなければ。

 今日子は向き直って、晴を見る。人の美醜に関しそれほど詳しいわけではないが、瞳の大きな可愛らしい人の子だなと思った。

「晴さん、いつも朔と仲良くして頂いてありがとう。友人として礼を言うよ」

「いえ、いつも私ばかり話していて――ご迷惑でなかったら、嬉しいのですが」

「とんでもない」

 朔も貴女のことを気に入っているようだ、ということを適当に語ってみせると、彼女は俯いて、頬を染めた。

 ――そんな風に三人で朔の話をしていると、やがて一台のバスがやってきた。

 行き先には覚えのない方面を書いていた。停まり、音を立てて扉が開く。晴はと見ると、彼女もそれに乗る気配はない。停車場に人がいたから停まったのだろうが、ならば違うと断らなければ。そう思いながら顔を上げるけれども、しかし違った。開いた扉から降りてくる影があったのだ。

 それは人間の青年だった。見た目の年頃は朔や琥珀に似ているが、実際にはそうではあるまい。二十代に入った頃だろうか、精悍な顔立ちをした青年であったが、どこか儚げにも思えた。

「晴」

「兄さん?」

 そしてその人影は彼女の名を呼び、そして晴は素っ頓狂な声でそう言った。目を見開いて、その人を見つめている。

「どうして、こんな処に」

「お前の帰りが遅いから、探しに来たに決まっているだろう。まったく、こんな時間まで何をしていたんだ」

 心から怒っている、というよりは、ほとほと困り果てたという様子。腕を組んで眉を寄せ、深くため息をつく様子はどこかあの苦労性の狐にも似ていた。

 それに晴は手を握り合わせたまま、あの、その、と口籠る。その理由を察するに時間はかからなかった。晴はこの青年を兄と呼んだ――となれば確かに、男を待っていて帰れなかったなどという理由は、肉親に話すには少々恥ずかしいものがある。

 助け舟を出そうかと思ったそのとき、百花が一歩前に出た。また余計なことを口走るのではと肝が冷えたが、杞憂となった。余所行きの表情を作って、百花は彼にこう言ったのだ。

「ごめんなさい、晴さんのお兄さん」

 青年の視線が百花を見る。妹と同じく学生服を着た少女の存在に、彼は不思議そうな表情をした。

「君は?」

「初めまして。私たち、今日、部活動の関係で晴さんの学校にお邪魔した者なんですが、帰りのバス停の場所が判らず困っていたら、たまたま校門近くで出会った晴さんが、道案内をして下さったんです。けれど、道すがらお喋りをしていたら、思いの外盛り上がってしまって。それでそのまま、ここでずっとお喋りしていたら、いつの間にかこんな時間になってしまっていたんです。だから、晴さんの帰りが遅くなったのは私たちのせいです。どうか晴さんを怒らないであげて下さい」

「百花さん」

 晴が驚いたような声を上げる。百花は晴を見て、にっこりと笑った。

 兄と呼ばれた青年は、腕組みをしたまま妹を見た。

「晴、そういうことなら早く言いなさい。理由があるのなら、おれもむやみやたらに叱ったりはしないのに」

「ごめんなさい」

「本当のことを話したら私がお兄さんに怒られると思って、庇って下さろうとしたんですよね。晴さん、とても優しい方だから」

 すると青年の表情が綻んだ。まったく、と呆れたように呟く。

「君達も御両親が心配するでしょう、早くお帰りなさい。女の子たちだけで出歩くには、もう遅い時間だよ」

「はい」

 やがて夜闇を貫いて、バスが遠くからやって来る。目を凝らして行き先を見ると、それは百花の家へと導くものであった。バスは勢いを少しずつ殺すと、狙い違わず停留所の隣に停止した。

 音を立てて、乗車口の扉が開く。

「そうだ、晴さん」

「はい?」

 百花は鞄から帳面を取り出すと、鉛筆を走らせる。今日子も見慣れた癖のある字で、百花がさらさらと書いたものは自分の氏名と電話番号、住所だった。そしてページを無造作に引き千切り、「はい」と差し出す。

「これ、私の住所と電話番号。何かあったら、電話して。ほら、何か、相談に乗れるかもしれないでしょう? 学校のこととか、勉強のこととか――他にも、いろいろ」

「勉強のことなら、教わるのは百花の方かもしれないけれどね」

「うるさいなァ」

 茶々を入れると、肘で軽く小突かれた。本当に聴きたい話はそれらではなかったが、彼女の兄のいる手前、実際のことは言いにくい。けれど晴は、言外に込めたその思いも読み取ってくれたようだった。百花の差し出したそれを受け取ると、心から嬉しそうに「ありがとう」と礼を言ったのだ。

「それじゃァね、晴さん。それから、お兄さんも。こんな時間まで、妹さんを付き合わせてしまって、本当にすみませんでした」

「いや、こちらこそ早とちりで、恥ずかしいところを見せてしまってすまなかった。仲の良いお友達が出来たようで、兄としても嬉しいよ。妹をどうぞよろしく頼む」

 そしてゆっくりと、頭を下げる。こちらこそ、ともう一度礼をして、今日子と百花はバスに乗り込んだ。空いた席に並んで座り、窓の外に手を振る。晴は嬉しそうに大きく腕を振り、兄はにっこりとほほ笑んでいた。

 やがてバスが走りだし、停留所から離れていく。

 バスが道を曲がって見えなくなるまで、二人はずっとこちらを見ていた。

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