第3話 オヌ

 涼しい風を頬に受けて、朔は目を覚ました。

 意識を取り戻した彼の視界にまず入ってきたものは、木目の天井と四角い電笠だった。二つ嵌った丸型蛍光灯はどちらも消え、橙色の豆電球だけが薄明るく照っている。電笠の意匠は客間の欄間らんかんのものとよく似ていたが、わざわざ職人にあつらえさせたのだろうか。

 布団から身を起こす。毛布は薄手のもので、眠っているにも、また起き上がるにも苦ではなかった。薄闇の中で目を凝らすと、部屋の端の一角だけ障子が開いて網戸になっている。彼を起こした風は、そこから吹き込んできたものらしい。

 しかし、と朔は考える。おれはいったい、どうしたのだったか。

 琥珀と今日子と百花と揃って客間で茶を飲んでいたはずだが、なぜ自分だけが一人、別室で布団に寝かされているのだろう。どうにも思い出せないまま、電傘の点滅器から垂れ下がる総をぼんやりと眺めていると、襖の滑る音がした。

「おや。起きたか」

 廊下に繋がる襖が開き、入ってきたのは琥珀だった。気分は落ち着いたのか、耳は人のものに戻り、尾も消えている。琥珀は手を伸ばすと総を掴み、二度引いた。一度目で豆電球が消え、二度目で丸型蛍光灯が二本とも点く。

 突然の明かりに慣れない目を擦りながら、朔は、居ない二人の名を呼んだ。

「今日子と、百花は?」

「追い帰した」

 答えは非常に端的で、ひどく解りやすいものだった。こちらに背を向けているせいで表情こそ窺えないが、そんなものなど確認しなくとも、彼が一体どのような感情を腹に溜めているかは明らかである。

 長く深い、息を吐く。そして続いたものは、疲労の濃い声音だった。

「まァったくあの人の子は、なんとも良くない。本当に、良くない。まだ十とそこそこしか生きていないとしても、もう少し先を考えてものを言うということができないものか。良くない」

 それを聞いて、朔は眠る前のことを思い出した。そうだ。

 動揺した朔が平静を取り戻す間も与えずに、彼女は「ねぐらはどうする」だの「子供は」だのと捲し立てたのだ。琥珀と今日子の制止も聞かず、彼の耳元で放たれる百花の突飛な言葉から避けるように、また逃れるように朔の意識は遠ざかり――それから先は、覚えていない。

 琥珀が、肩を落とし腕を組み、唸るように「良くない、良くない」と何度も繰り返すものだから、朔も思わず笑ってしまう。

「祓い屋としては良い性質なのではないかな。真っ直ぐで、己を疑わず、妖に対し容赦がない」

 祓い屋とはつまるところ、人に害を成す『人ならざる力』、もしくは悪しき力を排除する者のことだ。例えば人が朔たちの存在を害悪と見なせば、それがたとえ近しい妖であっても排除するのが、祓い屋の力を持つ百花の仕事である。――人との共生を選んだ朔や琥珀たちが、今更人に反旗を翻すことがあるかというと、それは蓋然性に乏しいが。 

 振り返った琥珀は眉を寄せ、これ以上ないほど渋い表情を作っていた。

「そんなもの、我々にとって歓迎できたことではないだろう」

「それはそうだ」

 声を上げて笑う。と琥珀は「笑いごとではない」などと呟いて、また深い息を吐いた。それから首をゆっくりと振って、

「まァいい、あれの話は終わりにしよう。――今晩は泊まっていくがいいよ。お前の分の夕餉も作ってしまった。それに」言葉を切り、障子に視線を向けた。その向こうは見えないが、夜半であることは判っている。躊躇うような沈黙の後、「いまから行っても、彼女はもう、いないだろう」

「だろうな」

 諦めの言葉は、存外容易に吐くことができた。

 顔色を窺うような琥珀の言葉だったが、晴とは今日を限りに終わる出会いではないはずだ。勿論会えなかったことへの失望はあるし、彼らに気づかれていたというのはまったくの予想外であったけれども、それで晴との関係が終わったわけではない。

「ありがたく相伴に預かろう。しかし夕餉の支度までして貰えるとは、まるでおれの母かのようだ」

「ほォ。朔、お前は母狐のことを覚えているのか」

「まさか」

 面白がって問う琥珀に、朔は肩を竦めて答えた。たとえて言っただけだ。母の差し出す餌を食ったのはもう何百年も昔の話であって、当然、覚えているわけがない。下手をしたら千年を超えているかもしれない。朔を産んだ狐はまだ朔がただの狐であった頃に狩られて死んだが、それこそ畜生であった頃の記憶である。狩ったのが人だったか狼であったかも定かでない。

 虚空でゆらゆらと揺れる総を、琥珀の手が掴んで留める。そうしながら琥珀が、思い出したように、ぽつりと言った。

「お前は怒るかもわからないがね、朔。私はあまり、人の子に拘ることを良いとは思わない」

 窺うように視線を合わせ、そしてゆっくりと逸らす。その目はどこか悲しげだった。

「人は滅多なことでは妖にはならない。妖になる力を、術を持たない。けれど人はおぬを生む」

「オヌ?」

「恐ろしいものだ。恨み、つらみ、人はそういったものを生み、腹に飼う。飼うということは育つということだ。そして隠は、やがて育てば妖をも凌ぐだけの力になる。人の身にして妖を凌ぐそれが、万が一にも妖へと変じたとしたら、それは」

 一呼吸置いて、囁くように言った。「想像したくもない」

 そしてゆるゆると、首を振る。

 困り果てた様子の琥珀の姿に、思わず朔は笑みを浮かべた。受け入れられずとも、しかし突き放せないのがこの友人だ。

 朔は、何とも優しい友の名を呼んだ。

「琥珀。お前は一つ、勘違いをしているよ」

 と、琥珀の目がまた、朔を向いた。その探るような目が可笑しくて、噴き出すのを堪えるのに苦労する。

 そこまで心配しなくとも、おれも妖怪の端くれであるというのに。

「おれにはあの人の子とどうなりたいという思いはないのだよ、琥珀。――おれは妖で、さもなくば畜生で、あれは人の子だ。どうしたい、どうなりたいとは思わない。おれたちに比べれば遥かに短い時を、彼女が幸せに生きてくれたらと。そう思うだけだ」

「朔」

 心配するなと、案ずることはないと言っているのに。――それでもやはり憐れむような表情を作るのだから、心とは複雑なものである。

 報われることのない未来の話などしたところで、誰も喜びはしないだろう。朔は話の方向を少しだけ変えることにした。暗く重くなってしまった雰囲気を拭うため、軽く腕を広げ、おどけた口調でこんなことを言う。

「そうだ。ばれてしまったのならこの際だ、多少は惚気のろけを聴いてもらうとしよう」

 そのために丁度いい小道具を持っていた。上着のポケットに手を入れ、それを取り出そうと探りながら、必要以上に明るい声でこんなことを言ってやる。

「知っているかい、最近のカメラというのは非常に優秀で、おれたちのような素人でもボタンをひとつ押下するだけで撮れるそうなのだ。この間、晴が持ってきて、二人揃った写真を撮ったのだがそれがまた良く出来ていて――」

 しかし。

 なぜだろう、ポケットをいくら掻き回せど、指に触れるものはない。

「どうした?」

 朔の異変に気づいたのだろう、怪訝そうな琥珀の声。それを聞きつつ、布地を引いてポケットを覗き込む。やはり中は、空だった。

 血の気が引くのを感じながら、顔を上げる。

「写真がない」

「何? まさか、どこかに落として」

「いや。ここに来たときは確かに……」

 あったはずだ、と、言いかけたその瞬間。

 朔の脳裏に、一つの可能性が閃いた。

「いや、まさか、いや……」

 証拠はないが、捨て置くには濃厚すぎる可能性、彼女ならやりかねないという疑惑の濃さに、思わず頭を抱えてしまう。

 いやいやまさか、流石の彼女もそれはやるまい。そう否定してくれることを望み、顔を上げる。

 しかし友人の表情は、既に悪鬼のように歪んでおり――



 ――直後。

 既にいない少女の名が、琥珀の喉から怒声となって、夜の静寂を切り裂いた。

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