第2話 妖仲間

「最近、よく来るね」

 旧友の突然の言葉に、朔は思わず、含んだ緑茶を噴き出しそうになった。

 あれから何日が経ったろうか。朔はほぼ毎日のように友人の白狐――琥珀こはくのもとへ通って四方山よもやま話に講じていた。本当は、琥珀に会うのが目的ではなく、彼のもとから一定の時間に帰ることが目的なのだが、それは彼には言っていない。

 ひとつ咳払いして、いがらっぽい喉を元に戻す。平静を装って、尋ねた。

「そうだろうかな」

「そうとも。十年も間が空くことだって珍しくなかったのに、ここ最近は毎日のように家へきているじゃァないか。おかげで朝晩はほとんどが雨だ」

「ねぐらにいても、することがないのさ」

 震えそうになる声をなんとかたもち、軽く手のひらを開いて見せた。

 昨今はこの国もあるべきところに落ち着いたようで、もう何十年も泰平の世が続いている。人のつまらぬいさかいに巻き込まれることも、ねぐらの確保に東奔西走することもなくなった。だから、ひまであるという言葉に決して嘘はない。

 垣根の向こう、彼のほこらのある方向を見やりながら、琥珀は微笑んだ。

「まァ、私は良いのだけれどね。物を干している間、外に出ないでさえいてくれれば」

 むしろ来ていてくれた方が、いつ雨が降るのか把握できて喜ばしい。そんなことを冗談ぽく言った後、琥珀は網戸の外、縁台に視線をやった。追って朔も見やれば、縁台にはざるが置かれ、薄く切られた苺の砂糖漬けが並んでいる。どうやら、水分を抜いて干し果物にしようという魂胆らしい。

 琥珀はふらりと網戸に寄ると、開けて笊を引き込んだ。その上から一枚苺を取り上げ、口へ放り込む。咀嚼して、にっこりと笑った。

「うん。悪くない」

 そして元のように腰を下ろし、机越しに笊をこちらへ向けた。

 食え、ということだろう。有り難く相伴に預かることにする。放り込んで奥歯で噛めば、水分の抜かれた実から、砂糖の甘みと苺の酸味が上手い具合に混じり合って染み出し、舌を撫でた。

「旨い」

「ありがとう。――不思議なこともあるものだと思っただけだよ。服装も、着流しをやめて洋装など始めてしまうし、どういう風の吹き回しだろう、とね」

 その言葉に、ぎくり、と朔の心臓が跳ねた。

 奥歯に苺が貼りついてものが言えないふりをしながら、目だけを動かし琥珀の表情を見る。それは少なくとも、探るような視線ではなかった。どうやら、四方山話の延長として言っただけのようだ。

「特に意味はないさ。似合わないかな」

「そんなことはないと思うが。なんとも現代の人間らしいというか――そうだ」

 言いかけてふと、顔を上げた。

「人間で思い出した。そういえば今日は、今日子が来ることになっているのだった」

 猫又の今日子。元の種族こそ違えど今は同じ妖である彼女は、近況報告にときおり朔や琥珀のもとを訪れる。

 百年程生きているはずのあれは、いまは人の子と居を同じくしていたはずだ。その人の子も確か祓い屋か何かの血を引く娘で、人間にしながら妖怪に近い存在である。

 ころころとよく笑うあの人の子のことを朔は嫌いではなかったが、琥珀はあまり好んでいないようだった。それは人だから妖だからということではなく、性格の問題のような気がしてならない。

「おれがいては、邪魔かな」

「いいや、ただ茶を飲みに来るだけだ。お前さえ気にならないならいればいい」

 半分以上空いた湯呑に、また熱い茶を注いでくれる。感謝を述べて一口啜る、とそのとき、ガラガラと玄関の引き戸が開く音がした。

 誰だろう。

「今日子だろうか」

「いや。足音がする」

 朔の言葉に、しかし琥珀は否定を重ねた。耳をそばだてると、言う通り、軽い足音が近づいてくるのが聞こえ、朔は自分の予想が間違っていたことを知る。本来猫である彼女はその特性上、どこを行くときも足音を立てない。

 しかし、ならば誰が。

 近づく足音は、朔たちのいる客間の前で、ぴたりと止まった。そして一拍置いたのち、ふすまが派手な音を立てて勢いよく開く。

 そこに立っていたのは、人の子だった。

「も、百花ももか?」

 名を呼んだ琥珀の声には、少なからずの驚きが混じっていた。

 年の頃ならあの晴と同じくらいだろうか――溌剌はつらつとした、一人の娘。猫又の今日子の同居人で、祓い屋の血を引く件の娘、百花がそこに立っていた。

 琥珀が驚くということは、訪問の予定は今日子一人だけだったのだろう。

 けれど確かにそこにいる、本来ならば来る予定ではなかった娘。それが学生服の裾を翻し、満面の笑顔で叫ぶことは。

「朔さんが人の子に恋したって本当かい!?」

 ――言葉を理解するのが、数秒、遅れた。

 恋。人の子に。誰が? 理解に至るより早く、自身のことについて重大なことを叫ばれたという自覚が先に来た。

 頭が真っ白になる。呼吸が乱れ、脳が揺らぎ、やがて視界が薄れ、傾き、

「さ、朔!」

 琥珀に肩を掴まれ揺さぶられて、失くしかけた意識が戻った。

「気をしっかり持て、朔!」

「あっ朔さァん! よかった今日も来てたね! 聞いたよ朔さん、朔さんもすみに置けないなァ! それで朔さんの懸想してるってどんな娘なの、ねェ、かわいい? ねェ、ねェ!」

「朔、大丈夫か、朔、朔――やめんか、百花ァ!」

 しかし、朔の姿を認め飛び込んできた百花が、追い打ちとばかりに朔の耳元で叫ぶから、彼の意識はしばしの間、夢とうつつを往復することになる。

「そのう、こんにちは」

 そんな中、遅れておずおずと客間へ姿を見せたのは、和装の少女だった。小柄な体を更に小さくし、襖に隠れて客間を覗き込んでいる。

 怒りに我を忘れた琥珀は、耳は獣のものへ戻り、尾も現してしまっている。しかし構わず、その姿のまま少女に大股でずかずかと歩み寄ると、派手に怒鳴りつけた。

「今日子! どうしてこいつを連れてきた!」

「ぼ、僕だってこっそり来るつもりだったよ! け、けどねェ、そのゥ、家を出かけるときに気づかれてしまって、その、も、も、百花ァ!」

 血相を変えた今日子が小さく跳ねて客間を駆け、百花を後ろから羽交い絞めにした。百花に掴まれていた朔を琥珀が無理やり引きはがし、頬を軽く打って「気を確かに」など叫ぶ――

 ――そんな混乱状態が落ち着き、ようやく机を取り巻くように四人が席に着いたのは、壁時計の長針がちょうど半分ほど回った頃だった。

「すまない」

 琥珀は朔に対し、深々と、頭を下げた。

「最近、お前の様子がおかしかったから、何があったのだろうか、と。けれど、何も言わず見守ろうということにしていたんだが、その」

「いや。気にしないでくれ」

 琥珀の言葉に返した答えは、朔の精一杯の強がりであった。本来ならば言ってやりたいことの二、三はあったが、琥珀の頭の上に出たままの狐の耳がなんともうら寂しく垂れているものだから、それを見てしまうとどうにも吐くことはできなかった。

 そもそも最も文句を言いたいのは彼ではないし、できることなら反省を促したいのは別の方だが、無邪気な少女に毒を吐きたいとは思わなかった……吐いたところで通じるとも思えなかった。矛先がないとなれば、飲み込むしかない。

 ちらりとその『別の方』を見る。と、発言権を与えられたと思ったか。今日子の隣の座布団に正座をした百花は、待ってましたとばかりに口を開いた。

「それで、朔さんはさァ」

「……何」

 机に肘をつき、きらきらと輝く瞳で朔を見上げる。

 嫌な予感を覚えながら緑茶を啜る朔に対し、百花は無邪気な疑問を投げた。

「いつ頃つがいになる予定?」

 ――今度こそ我慢できず、朔は緑茶を盛大に噴き出した。

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