あやかしと、雨に

七十三

第1話 出会い

 天気雨のことを『狐の嫁入り』と言うが、ならば豪雨のことは何と呼ぶのが正しいのか。そんなことを猫又ねこまた今日子きょうこに尋ねたら、「『狐の三行半』あたりでどうかな」と、声を上げて笑われた。

 だとすれば自分は何度嫁に離縁されているのだろう。バツバツと音を立てて傘を打つ雨粒の音を恨めしく聞きながら、妖狐ようこさくはそんなことを思った。なぜかは自身も知らないが、朔は昔から、外出をするたび大雨に見舞われるのだ。妖とはいえ、少々化けられるだけの狐に過ぎない自分には、自然現象への影響力などないはずなので、ただの偶然なのだろうが。

 今は昔馴染みの白狐のところを訪ねた帰りだが、あれも見送りの際に笑いを噛み殺しながら「やはり雨だね」などとのたまった。朔の雨男ぶりは、あやかし仲間によく知られている。そして言葉の通り、厚い雲は切れ間を見せない。

 ようやく最寄のバス停に至ったときには、着物のすそはすっかり色を変えていた。軒下に身を隠し、やれやれと傘を畳んで、空を見上げる。しばらく眺めていると、毒々しいほどの黒は灰に近くなり、雨足はみるみるうちに弱まっていった。止むほどではないにしても、粒は小振りなものへと変わる。のきを打つ音も一聞いちぶんしてわかるほど大人しくなり、これならば道を行くにさほど苦労はしないだろう。――いつもこうだ。空のもとに出れば大雨に振られ、雨宿りをすればここぞとばかりに弱まる。太陽というやつは、よほど自分のことが嫌いなのだろう。

 雲を睨みつけ、朔が口の中でぼそりと文句を言った、そのときのことだ。

 ふと、背中に視線を感じた。

 ――振り返る。

 軒下に設置された三人掛けの椅子、そこには先客がいた。

 たどり着いたときには気づかなかったが、黒髪を肩口で切りそろえた学生服の少女が一人。年の頃は十六、七ほどか。学生鞄と、女物の赤い傘を携えている。妖力は感じ取れないあたり、どうやらただの人の子のようだ。

 その彼女が、鳶色とびいろ双眸そうぼうで、じいっと朔を見つめていた。

 あまりの凝視ぶりに、何か不自然なところがあったろうか、もしやどこか化け損ねていたか、と心臓を掴まれたような息苦しさに襲われる。しかし、触れて確かめてみれば、耳は確かに頭の横にあった。尾の重さも感じられない。手足も確認するが、人の姿としては十全だ。

 では一体? 怪訝に思いながら見返すと、彼女は、はっ、と驚くように目を見開いた。

 それから顔を背けて、小さな声で「ごめんなさい」と呟く。

「絵になるな、と思って。すみません」

 頬は赤く、消え入りそうな声だった。

 どうやら、正体を見破られたわけではないらしい。こっそりため息をつき、そして、微笑んで礼を言った。「いえ。ありがとうございます」

 外見を褒められて嬉しいのは、人でも狐でも同じである。ついでに、「雨男なので雨はあまり好きではないのですが、絵になると言って頂けるなら嬉しい限りです」などとおどけてみせると、彼女はそっと顔を上げた。――上目遣いの柔らかい表情に、腹の底の何かが動くような、妙な感覚がした。

 緊張がほぐれたのか、少女の肩の力が抜ける。小首を傾げて、今度はくすくすと声を上げて笑った。

「とても整った容姿で、それだけで素敵でいらっしゃるのに、着物に和傘なんて、最近ではなかなか見ない格好をされているから。思わず見とれてしまいました」

「変、かな」

「いいえ。お似合いです」

 軽く袖を振って眉をひそめる朔へ、少女はかぶりを振ってそう言った。が、どうやら最近では、着流しは一般的なものではないらしい。化け狐である以上、目立つのは良くない。次回の外出からは改めよう、と心に決める。

 それから少女は、いくつかのことを朔に話した。近くの学校の生徒であること、いつもバスで登下校をしていること、先日の試験の成績がかんばしくなかったこと、そのせいで補講を受けていたら、帰りがいつもより少し遅くなってしまったこと。

 朔は、古い友人のもとを訪ねてきたという話だけをした。

 ――やがて、一台のバスが姿を見せる。

 書かれた方面からするに、朔のねぐらへと向かうものであるようだった。

「ああ、来た。それでは」

「あの」

 立ち上がりかけた朔の、別れの挨拶を遮るようにして、彼女が声を上げた。

「また、会えますか」

 すがるような表情だった。

 しかしながら、どうだろう。白狐のもとを訪ねるのは毎度気まぐれで、数日後に訪れることもあれば、それきり数年会わないことも珍しくない。となれば次にこのバス停を訪れるのはいつになることか――

 しかし。

「そうだね。――また、ここで」

 けむに巻く言葉を考えるより早く、口が先に動いていた。

 人の子と約束など、何を馬鹿なことをしているのだ、おれは。一瞬ののちにそう思い、ああ、いや、と、とっさに言い訳を考えるが、俯いて目を細めた彼女を見たら、その言葉も消えてしまった。

「嬉しい、です」

 ――まあ、いいか。

 やがてバスは軒先までたどり着いて停まり、音を立てて扉を開く。

 少女は椅子を立ち、扉口まで見送りにやってくると、名残惜しそうに彼を見た。

「お気をつけて」

「君もね。雨に濡れて、風邪をひかないように」

 上り口に足をかけ、乗り込もうとして、しかし。

 そこでもう一度だけ振り返る。肝心なことを聞き忘れていた。

「そうだ、君、名前は」

 再会するにも名を知らないのでは、不便だ。

 すると彼女は、にっこり笑った。

 ――天から落ちる小粒の雨は、未ださらさらとやむことがない。しかし薄くなった雲間から、細く光の帯が差し込んでいる。

 それを背に負いながら、彼女は自分の名を告げた。

はる、といいます」

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