第10話 約束、本音と建前
揺れるバスの車内前方には「一部路線を変更して運行致しております」という手書きの紙が貼られている。百花と二人で後方座席に陣取った今日子の目には、描かれた細かな変更路線図まで見て取ることは出来ないが、例え前方に座っていたところでそれを読むことはできなかったろう――それだけの気力すら、彼女にはなかったわけである。視界がグラグラ揺れているのは、悪路のせいだけではないはずだ。
どうして、こんなことになったのだったか。
「うゥむ」
「どうしたね、今日子。酔ったかい」
眉を寄せ唸ると、隣の百花が楽しげに声を掛けてきた。酔うものか、と呟くように答えて返す。もう何度と通った道である、この程度で酔っ払えるほど今日子の三半規管は弱くない。酔わせたければ
運転手が、聞き覚えのある停留所を口にした。即座に細い腕が今日子の目の前をにゅうと伸びて、停車ボタンを押す。明るい音がして、「とまります」と書かれたランプが紫色に光った。目的地が近づいてきて、不安がぶり返す。昨晩から何度も聞いた問いかけを、今日子はまた口にした。
「本当に、大丈夫なのかい」
「今日子は心配性だなァ。私に任せておいておくれよ、上手くやる」
「百花に
それでいつも痛い目を見ているのだから、しつこいほどの心配性にもなろうというものだ。それで少しは自信の行動を省みてくれたらいいのにと思うのだが、常に我が道を行くこの少女がそこまで配慮をしてくれることは、勿論のこと、ない。
そして痛い目を見ているからこそ、念を押したくもなる。
「本当に、きちんと許可を取ってくれたのだろうね」
恨みがましい口調で、今日子が尋ねる。勿論だよ、本当に心配性だなァと、そんな言葉が返ってくるのもまた、想像のうちだった。けれどそれでも安心できたのだ、だからそう答えてほしかった。
――しかし。
「許可?」
なぜだろう。
返ってきたのは不思議そうな声。いつもの、良く言えば無邪気、悪く言えば何も考えていないだけの笑顔をただ、こちらに向けた。
瞬時に走る悪寒に、思考が固まる。自分は何か、解りにくい問いかけをしただろうか? 否。
「も、百花、まさか」
まるで今日子の言葉を遮るように、ガクン、とバスが停まった。
外を見ればそこは目的の停留所だ。百花は「さァ、降りなくては」とわざとらしく呟くと、鞄を持って降車口へ歩いて行ってしまった。今日子は慌てて彼女の後を追い、料金口に二人分の小銭を突っ込むと急いで階段を下りていく。
「まさか、まさかだけれど、君……連絡をしていないなんてことは」
追い
「や、おはよう」
椅子に腰かけた一つの影。それに向け、気楽な様子で右手を挙げる。「ほら、挨拶」と脇を小突かれ、今日子も慌てて頭を下げた。
話が終わっていないことをすぐに思い出し言い募ろうとするが、それが出来なかったのは、停留所で待っていた彼女――晴の返した挨拶が、今日子の怒りを削ぐように丁寧なものだったからである。
晴は椅子から立ち上がると、深々とお辞儀をした。
「おはようございます、百花さん、今日子さん」
「遅くなってごめんね。昨日からの雨で、路が悪くなっていて」
「いいえ」
微笑んだ晴がゆっくりかぶりを振り、肩の少し下で髪の裾が揺れる。彼女が手に下げた鞄は二つ。通学用のそれと、四角い布鞄を握っていた。「今日は宜しくお願いします」と丁寧な挨拶を重ねられ、今日子は百花に言うべき言葉を遂に失った。まさか先方に何の話も通していないと、彼女の前でどうして言えるだろう!
そして百花は、そこまで予測済みだったのだろう。歯噛みする今日子を見て、彼女はいつものように意地悪く笑った。
一方、そんな二人の様子に気づかない晴は、ただ感謝を重ね、
「ありがとう御座います、今日は、その」
そして
頬を赤らめ俯いて、手を擦り合わせ、暫し迷い。
やがて顔を上げた彼女は、結局、本音と建前の両方を口にした。
「朔さんに、お勉強を、教えて頂けるなんて」
百花が望んだことは、琥珀の説教の回避と、晴に関する所見を琥珀に聞くことであって、結論から言ってしまえば彼女の目論見は成功したことになる。
連絡もなしに突然押しかけた女三人に琥珀は面喰らい、また玄関先で百花が披露した突飛かつあまりにも身勝手な訪問理由に渋い顔をしたが、あの柔らかい笑顔で丁寧な挨拶と感謝の言葉を重ねる晴の前である、常のように雷を落とすことなど出来ようがなかった。
「そうだ、つまらないものですが、良かったら。お菓子です」
「うん、あァ、ありがとう。頂きます」
言葉を選んでいるようなのは、現状に対する戸惑いを隠せずにいるのか、それとも彼女が妖を知らぬ人の子だからか。
いずれにせよ差し出された箱を受け取り眺めるその表情は、あらゆることを諦めたようではあるが、眉間に刻んだ皺は和らぐことなくそのままであり、彼の中にいくつもの感情が渦巻いているのが判る。
そういう珍妙な表情で暫くの間何かを悩んでいたが、今ここで何を思ったところで無駄だと悟ったのだろう。やがてゆっくりと息を吐いた。
「上がりなさい。勉強なら、客間を使うといい」
「ありがとう、珀さん」
悪びれない百花の感謝。琥珀は晴の死角から彼女を睨みつけるが、百花に
その視線がゆっくりと移動して、今度は今日子のもとに来る。今日子はそれに引き攣った笑みを返し、ともすれば変化が解けそうになるのを必死で堪えた。喜ばしいことにその視線は長く続かなかったが。
「百花は晴さんを客間にご案内しなさい。今日子は朔を起こしてきておくれ。あれは今――」
「あァ、うん、いい。判っている」
来訪時にはほんの少しだけ開いていた突き当たりの部屋の襖が、先ほど、不自然に急ぎ閉じるのを見た。恐らくは目を覚ました朔が、外の騒がしさに違和感を覚えて襖の隙間からこちらを窺い、そこにまったく予期していなかった来訪者――晴だ――の存在を見つけて慌てて隠れた、といったところだろう。
二人を先に行かせたあと、今日子も下足を消すと「お邪魔します」と呟いて上框を跨ぐ。琥珀の横を通り過ぎるとき、彼が不自然なまでの笑顔で「今晩は泊まっていくのだろう?」と呟いたことには全力で気づかないふりをしたが、恐らくそれは無駄な努力で、今夜は一晩中彼の説教を食らうことになるのだろう。
今日子は廊下を歩いて行って、突き当たりで足を止めた。まるで外界を
障子もまた締め切られ、明かりも点いていないその部屋は、昼間にしては比較的薄暗い。部屋の中央よりやや窓に近い場所に、布団が一重ね敷かれている。大きく膨らんでいるのは、その中で眠っている者がいるからに他ならない。
「朔」
名を呼ぶが、返事はない。目覚めているのだろうことは判っているが、起きておくれと布団の上から強めに叩いてみてもやはり反応はなく、暫く繰り返してみてもまったく答えがないものだから、いい加減、焦れた。
今日子は溜息をつくと、「いい加減出て来たまえよ!」と勢いよく掛け布団を取り払った。隠れている彼が情けない顔をしているだろうことも、ああだこうだと理由をつけてここを出ることを渋るだろうことも予想の範疇で、だから今日子は一切の言葉を聞かず引きずって行く心算であった。
――しかし。
「な、な、何をしているんだい!」
思わず声を荒らげたのは、実際に布団の中にいたものが、それらの今日子の予測と心算を遥かに飛び越えていたからである。
そこに眠っていたのは、人間の青年ではなかった。
在ったのは、半目を剥いて、口を開け、まるで死んだように舌をだらんと弛緩させた、金色の獣だった。毛に囲まれているため顔色まで見て取ることはできないが、四肢にも尾にも力なく、普段ぴんと立っている三角の耳も今は覇気を失くして垂れている。そうして仰向けになり腹を見せた姿は、道の端に転がった死骸の様子によく似ていた。
今日子はその獣を知っていた。否、知っていたどころではない。肩を揺さぶっても返事なく、狸寝入りを決め込む狐。仕方なく首根を掴んで持ち上げ大きく上下に振ると、獣は観念したように、ようやく黒目を今日子に向ける。おそるおそるといった様子のそれと今日子の目が合って、彼女は再びその名を呼んだ。
「朔!」
すると狐――朔の、力を失くしていた耳が、驚いたようにぴしりと立った。今日子の手によって吊り上げられたまま、低い声で、諌めるように彼は言う。
「き、今日子、声が大きい。あと、あまり振るな。酔う」
「大声も出したくなろうよ! な、何を君、狐の姿に戻っているんだ! 今、彼女が、ただの人の子が来ていることは知っていように、何のつもりでそう危ういことを」
「――いいか、今日子。お前もよく、覚えておくといい」
焦る今日子と対照的に、落ち着いた声で朔は彼女の言葉を遮った。その表情は先ほどの自信なさそうなものとは異なり、瞳は鋭くどこか大人びた余裕のようなものが伺える。
しかし幾ら鋭い瞳で見据えられようと、吊り下げられたその姿ではまったく格好はつかない。どれだけ良く喩えたところで、せいぜいが猟師に捉えられた獲物である。が、茶々を入れればそれだけ話が長くなると判っていたので、適当に相槌を打って続きを促す。朔は一つ頷いて弁論を続けた。
「例えば山を歩いていて熊に出くわした、などという予期せぬ危機に出会ったとき。そういったときに最も有効な回避行動は何か」
彼は大きな口の端を釣り上げ笑う。それからまた脱力して舌を剥き、そしてはっきりと言った。
「死んだふりだ」
そんなことを至極真面目に語ってしまうあたり、余程混乱しているらしい。確かに今は彼にとって不測の事態かもしれないが、この状態で死んだふりをしたところでどう事態が好転するというのか。
死骸の真似を続けたままで、声だけは自信に溢れさせながら、続けた。
「おれはこれで、二度も熊から逃れている」
「残念ながら今ここに熊はいないよ。朔」
「二度目は逃げ果せた直後に鷲に襲われたが」
「その逸話は今度、酒の席でゆっくり聞かせておくれ」
「つまるところ緊急事態の回避に、死んだふりは非常に有効だということだ」
どうやらこちらの話を聞く気はないらしい。耳を傾ける余裕がないのかもしれないが。
以降も、自身の人生に於いて死骸の真似がどれだけ有効であったか、自身の死骸の演技に自信があるか等を身振りを加えて延々重ねて話してくれるが、今日子としてはそんな話、直ぐに飽きた。そもそも今は、そんな話を悠長に聞いている暇などない。
だから今日子はべらべらと持論を展開する狐を遮って、
「晴さんに、会いたくないのかい」
彼の想い人の名を強調して、言ってやる。
すると効果は
と同時に、狐の表情から余裕と自信が消え去った。耳を垂らし、
「会いたくないわけではない。けれど、ただ、その……心の余裕がない、というか、心の準備ができていない、というか。そういうところだ」
視線を逸らせ、唇を尖らせてぼそぼそ喋る狐の言葉に、今日子は思わず呆れた。何と女々しい男であることか。
だから自分のことは部屋に放っておいてくれと言いたいのだろうが、そうは問屋が卸さない。百花の方はともかく、晴の方は半ば彼に会うことが目的で来たのであろうし。
「というわけで晴にはなんとか、上手く言っておいてくれ」
時間さえ許すのなら、この
「そうもいかないよ。頼むから朔、早く人に化けておくれ――」
「――今日子さん?」
しかしそれを遮って、彼女の名を呼ぶ声がした。晴の声である。
今日子は慌てて掴んだ狐を落とすと、その上に掛け布団を重ねた。突然のことで受け身を取ることはできなかったようで、朔は落ちた瞬間に潰れた蛙のような声を上げ、更に布団を重ねる際に力を入れ過ぎたのか、またその際にも妙な悲鳴を上げた。多少は気はなるがこの状態の朔の身を晒すわけにはいかない。敷き布団の上に落としたから大した怪我はしていないだろうと判断をして、襖を振り向く。
殿方の部屋を覗き見るのははしたないとでも思ったのか、喜ばしいことに、晴がこちらを覗いているというようなことはなかった。とはいえ確かに気配はそこにあるので油断はできないが。
襖一枚隔てた向こうへ問いかける今日子の声は、とても震えていた。
「ど、どうしたんだい。晴さん」
「お二人がなかなかいらっしゃらないので、少し様子を見てきておくれ、と百花さんに言われて……」
百花め、と思わず表情が渋くなる。今日子と朔に悪意があったとは断定しがたいが、決して善意があって出た言葉ではないだろう。特に何も考えずに言ったという確率が最も高い。
「それに、その、私も心配でしたし。……朔さん、体調でもお悪くていらっしゃるのですか」
慮るように尋ねられ、今日子の頭に一つのアイディアが浮かんだ。
百花と違い優しい彼女の心を利用するのはまこと心に痛かったが、この
「朔はねェ、布団から出たくないそうだよゥ」
すると、びくりと大きく布団が震えた。次いで、あ、いや、とくぐもった声が内から聞こえるが、晴には届いていなかろう。今日子は更に続けた。
「それにねェ、あなたに特に会いたいというわけでもないそうだ」
「ち、違ァ」
「仕方がないから晴さん、朔に勉強を教えて貰うのは諦めようじゃないか。僕や百花でわかることであれば教えるから、それでいいかな」
振り返り、襖に向けて問いかける。答えは少し、遅れた。
「そう、ですか」
帰ってきたのは了承の言葉、しかしそれは酷く躊躇いの色の濃いものだった。更に少し沈黙を重ねた後、「それなら、仕方がないです。ご迷惑をかけては申し訳ないですから」と言うが、その声は今日子にもわかるほど沈んでいた。声が震えていないところからすると泣いてはいないようだが、酷く胸が痛む。
けれど今日子ですらそう感じたのだ、布団の中の獣には更なる痛みを与えたろう――そう思いながら視線を布団に戻して、今日子は思わず目を剥いた。いつの間にやら掛け布団は雑に捲り上げられ、中は
驚きに声も上げられないでいると、背後で派手な音を立てて襖が開いた。琥珀はそんな乱暴な開け方は絶対にしない、となれば百花かと思ったが、そのどちらでもない。
振り返れば空いた襖のところには、人間の青年がこちらに背を向けて佇んでいた。
「やァ、おはよう、晴。いらっしゃい。勉強を教えて欲しいそうだね」
襖を開けたのは他でもない、朔であった。慌てて化けたようで、腰のあたりからほろりと一粒、妖力が零れて落ちる。流石と言うべきか変化に漏れはなかったが、その髪は少々乱れていた。
晴の声がした。表情までは、朔の背に遮られて見えないが。
「朔さん。――よろしいのですか。今日は寝ていたいと言っていると、今日子さんが」
「まさか。身嗜みを整えるため、いささかの時間が欲しかっただけだが、その際に冗談を言ったら今日子が本気にしてしまったのだ。気を損ねたのならおれが代わりに謝罪しよう。すまない」
「いえ。……いいえ」
否定をする声は、ひどく弾んでいた。
「謝るのはこちらの方です。お勉強を突然お願いしてしまって、すみません」
そして返す言葉も、先ほどとは打って変わって鮮やかで、腰抜けの雰囲気など欠片もない。
「とんでもない。おれで教えられる勉強であればいいのだけど。下手をしたらおれの方が教わる立場になってしまいそうだ」
「あら。そうしたら私が教えて差し上げますね」
「そのときはどうぞ、お手柔らかに頼むよ」
などと。
つい先ほどまで神妙な様子で「心の準備が出来ていない」などと宣っていたあの根性無しは、一体どこへ鳴りを潜めたのやら。上機嫌な様子の朔は、一度も部屋を振り返ることなく、晴を連れて廊下を歩いて行ってしまった。
そうして薄暗い部屋に残されたのは、今日子一人。
閉めたままの障子の向こう、庭からピチピチと楽しげに聞こえてくる雀の鳴き声だけが自分を励ましてくれているように思える。
静かな部屋の中、深い深いため息が漏れた。
「朔。僕は君に、昔馴染み以上の感情は特に抱いていないよ、けれどね。――そこまでまざまざと態度の差を見せつけられると、流石に腹立たしくなる」
猫の恨み言が、去った狐に聞こえているはずもなかった。
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