神の庭にて

カント

本編

 『人生というのは何が起きるか分からないものだ』――何とも安っぽい言葉だと思わないか? 今の時代、言葉はどこにでも溢れていて、そんな台詞などどこに居ても聞ける。だから、見落としがちになる。これは安っぽく見えても、見事に本質を突いているものなのだと。

 俺がそれを強く認識するきっかけになったのは、忘れもしない、十九歳の冬だ。三月――空は青く、しかしまだまだ春の息吹には程遠い、うすら寒い風が庭園に吹き込んでいた。俺は青い安物のジャケットで首元を隠しつつ、ぼんやりと橋の上から池を眺めていた。

 そこは、地元では有名なとある神社の傍に造られている庭園だった。いや、逆だったかも知れない。豊かな森と美しい湖と静かな池――その穏やかな地を神の住まう『庭』と捉え、その傍に神社を造ったのだったか。まぁ、どっちだって構わない。とにかく、俺はその日、歩いて三十分ほどの庭園を回り、終着地であるその池に架かった橋の上に居たんだ。

 池は円形とは程遠い、複雑な形状をしていて、その全容を口で説明するのは難しい。俺は『ナスカの地上絵の両翼を広げたハチドリ』のように見ると思うし、別の友人は『両手両足が異様に長い亀』のようだと言う。どっちが正しいかは分からない。はっきりしていることは三つ。その池は場所によって橋が架かっていて、池の上を眺めながら庭園を回れるようになっているということ。場所によっては濁っていたり澄んでいたりすること。そして――その時の俺が居た橋の下には、とても大きな錦鯉が居たということだ。

 俺は寒風の中、ぱくぱくと口を開けてはこちらの放り込むパンくずに喰らいついていく、その鯉を見つめていた。体は大きい。俺の両手を大きく広げたよりも体長は長い。赤と白のまだら模様が美しく、しかし他の魚を差し置いてパンくずを攫って行く姿は滑稽で、俺は思わずこう言った。

「気軽でいいよなぁ、お前は。池の中で泳いでるだけでいいんだもんな」

「お前に何が分かるねん」

 突然、低い声が響いた。俺は驚いて辺りを見回したが、近くには誰も居ない。平日の庭園に居るのは老人や子供連れの母親くらいで、俺のような受験を終えて時間の空いている学生はおろか、そんな声を出せるようなオッサンは何処にも居なかった。

「……空耳?」

「空耳なわけあるかアホ。お前はっきり聞いとるやんけ」

「誰だ」

 俺は混乱していた。もう一度近くを見回すが、やはり声の主は見当たらない。すると、オッサン声は言った。下や、と。

「下?」

「よう。暇そうにしとるなぁ」

 錦鯉が俺を見上げて口をパクパクとさせている。俺は眼をパチパチと何度も瞬かせて、やがて橋の上でうずくまり、何とか足元――つまり、橋の欄干の下あたりに誰か居ないかを確認しようとした。……いや、無理だ。忍者でもない限り、橋の下にはひそめまい。だが、忍者の方がまだ現実的だ。

「最近、よう見る顔やんけ。羨ましいわ、その日その日で飯にありつかなあかんワシらと違って、えらいええご身分やんけ」

 また橋の下から――いや、池から、だ。声がした。オッサン声だ。見ると、やはりあの鯉が口をパクパクさせている。

「マジで?」

「何がや」

「鯉?」

「だからなんやねん」

「動画撮っていい?」

「ええけどこのご時世や、造りモンとか難癖つけられるだけやで」

 鯉はどこか馬鹿にしたように言った。その冷めた口調に俺は少しむっとして、立ち上がり、橋の欄干から身を乗り出すようにして錦鯉と視線を合わせた。

 鯉は相変わらず――しかししっかりとこちらを見上げている。疑似餌が半分姿を見せているようにも見えるが、どうやら彼が声の主であることは疑いようのない事実のようだ。

 人生というのは何が起きるか分からない――俺はそんなことを考えていた。まさか鯉が。

「で、どないしたんや」

「えっと、どないしたとは?」

「どうしたんや、って聞いとるんや。自分、何かえらい辛気臭い感じやんけ。わしで良かったら話くらい聞くで」

 実に流暢な関西弁だ。俺は混乱しながら――本当に混乱すると逆に身動きが取れないことを俺は思い知った――鯉に言った。でも。

「でも、何や? 鯉に聞いてもらうのが嫌か? でも自分、こんな場所に平日一人で来とるってことは話し相手も居らんねやろ? じゃあわしが聞かんかったら誰に話聞いてもらうんやって話で。ちゃうか?」

「はぁ、まぁ」

 気味の悪いくらいにペラペラと、しかもこちらの事情を察している鯉だった。俺は尋ねた。

「でも、何で聞いてくれるんです? 暇してるから?」

「アホか、どう見たら暇そうに見えるねん。さっきからお前の投げるパン拾うのに必死やったっちゅうねん。今もそこそこ腹減っとるわ。

 まぁあれや、わしも一応神社に住んどる身やからな。わかもんが何も面白ないわ~って顔しとったら気になるやろそら。それに、兄ちゃんにはここ数日、パン貰ってるからな。ある種の恩返しや。鯉の恩返し。知っとるか? 魚も割と律儀な方なんやで。鶴の方が有名かも知らんけどな」

 よく喋る鯉だ。

「で? はよ言えや、言わんねやったらはよパン投げろや」

「偉そうっすね」

 俺は溜め息をついた。それから、どこか観念してしまって事情を吐露していた。思えば、あの時の俺は疲れていたのだ。志望校は全て見事に滑り、滑り止めの受験にも滑り、友達からは同情と憐みのこもった眼差しで見られ――彼らはそれぞれそれなりの場所に合格し、道を切り拓いている。ところが、自分はどうだ? 就職なんて考えてもいなかったから、残る道は浪人か自宅警備員しかない。

「アホくさ」

 鯉は俺の悩みを一言で切り捨てた。俺は衝撃を受けた。まさか話してみろと言われて話してみて、ここまでバッサリやられるとは。

「ええことやないか。浪人でも自宅警備員でも好きなこと出来るんやで。そも、汝は何しに大学へ?」

「いや大学入るのが社会の前提みたいな風潮あるじゃないですか」

「あるかいそんなもん。仮にあってもや、そんなんせんでもガンバっとるヤツは世の中幾らでも居るやんけ。

 兄ちゃんはあれやな、まず自分が何したいのか四六時中考えることから始めた方がええ。ええか、四六時中やぞ。せやないと意味ないからな」

 鯉はまるで、居酒屋で隣に座った新入社員を諭すかのような口調だった。いや、実際問題、彼はそんな気概だったのだろう。

「将来のことなんかな、誰もかれも分からんもんや。わしかてそうや。誰もパン投げてくれんで、かつこの池の中が変わりおったらもう餓死一直線や。皆そんな中で生きとるんや。兄ちゃんだけが宙ぶらりんな訳やあらへん」

「……あ、もしかして慰めてくれてます?」

「お前どの面下げてそんなこと言っとんねん。これが口説いてるように見えるんか? 若人を導こうというわしの親切心、ギリギリか? ギリギリでしか伝わってないんか?」

「いやそんなことは……ありがとうございます」

「まぁなんや、まだ腹に落ちひんねやったら明日も来たらええ。パン投げるのが前提やけどな」

 鯉が何者だったのか、俺には分からない。神社に住んでいる身だと自分でも言っていたから、神の使いなのかもしれないし、妖怪の類なのかもしれない。だが、少なくとも俺にとっては、やたら流暢な言葉で相談をバッサリ切り捨てていくオッサンのような存在だった。そう、オッサン鯉との会話は、その後も暫く続いた。翌日もその翌日も、俺は何となくオッサン鯉に会いに行った。会いに行って話を聞いてもらっていた。

 人間には時間が必要な時節があるのだろう、と思う。俺はきっとそれだったのだ。俺はオッサン鯉との遣り取りの中で、徐々に焦りを消していった。やがて。




   ●


「ちょっといいかな」

「はい」

 宮司が俺を呼んだ。橋の上の掃除をしていた俺は、珍しく庭園にやってきた宮司と顔を突き合わせた。

「今日も熱心に掃除してたね」

「はい、思い出の場所ですから」

 告げて、俺は周囲を見回す。時が止まったかのように庭園は静かで、橋は少し古びたけれど、まだまだ頑強だ。寒風が吹いているのもいい。いつかの鯉のオッサンとの出会いの日を思い起こさせる。

「実は、キミにお願いしたいことがある」

「何でしょう?:

 結局、俺はあの後、この神社で働くことを決意した。鯉のオッサンもそれなりに賛成してくれた。鯉のオッサンとはそれ以降会えていない。今日もこの池のどこかを巡っているのかも知れないが、あの関西弁が聞けないのが少し寂しくもある。

「この場所によく居るキミにだから出来ることだ。……この橋は昔から、人生に迷った人が立ち寄ることが多くてね」

 そう言うと、宮司は俺に何やらスピーカーのようなものを手渡した。目を瞬かせていると、宮司は続ける。

「いいかい、絶対に秘密だよ。キミならばそれを守れると信じたから、告げる気になれた。

 お願いというのは単純だ。もし、この場所に毎日来る、疲れた感じの人が居たら、今渡したこれを使って話しかけて、相談に乗ってあげて欲しい」

「……はい?」

 宮司は何を言ったのだろう。混乱する俺の手から、宮司は再度スピーカーを取り、口元にあてて何事か呟いた。

「こんな感じで話しかけるんだよ」

「うわっ」

 俺は思わず驚愕の声を上げた。橋の下から低い声がしたのだ。慌てて橋の欄干から身を乗り出してみても、それらしき人影はどこにも見当たらない。

「橋の真下に発声器が取り付けてある。丁度この近くの鯉は、よく池の底からこちらを見上げて口をパクパクさせるから、それに合わせて声をあてると、まるで鯉に話しかけられたかのような気分になるよ」

 ……衝撃で俺は頭を押さえた。つまり、あの鯉のオッサンは。

「これは大事な役割だよ。人の悩みに直接耳を傾け、心を解してあげるという、ね」

「……すいません、ちょっとショックで。返事は後日にしても?」

「ああ、構わないよ」

 宮司はにこやかに言った。嗚呼、人生というのは何が起きるか分からない――俺の胸中にはそれだけが占めていた。まさかあの鯉が――。




   ●


「引き受けてくれますかねぇ、彼」

 一人になった宮司は、橋の上で池に向かって語りかけた。すると、池からは一匹の鯉が顔を出す。

「さぁなぁ。まぁでもやるんちゃうか? そんな気するわ」

「しかし、貴方も人が悪い。何故真実を話さないんです?」

「話さんでも気づくやろ、その内。それにや」

「それに?」

「まだ一段階あった方がおもろいやろ? 人生、何が起きるか分からんもんや――そう思える瞬間は中々無いで」

「わざとそう仕向けるあたり、人が悪いですね、貴方は」

「まあ鯉やからな」

 鯉はそう言うと、明朗快活に笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

神の庭にて カント @drawingwriting

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ