アリアドネ
カント
本編
ガキの頃から人の言うことを聞かない人間だった。いわゆるへそ曲がり、天邪鬼と言う奴だ。
そして、どうもそれは社会において決定的に不都合だったらしい。
俺は一つ息を吐いて、この為にわざわざ新調した登山靴、その靴ひもを結びなおした。どうもうまくいかない。いや、それは今日のこの日まで常に、か。だからこんなところに来る羽目になった。
後悔は無かった。親は俺がガキの頃に何処かに消えたし、預けられた施設でも、そこを出て働き始めた場所にも俺の居場所は無かった。天邪鬼な性格はどんなところでも災いする。人の和は乱すし、目の敵にされることも多くなる。すべて自分のせいか? そう言われればそうなのだろう。俺は俺の性格を直す気が無かった。直そうとも思わなかった。
「細い枝ばっかりだな……」
また歩き始める。土壌のそこかしこで根の浮き出す森を、時折躓きそうになりながら。だが、どうも宜しくない。周囲の木々は自らを誇る様にその枝葉を天へ広げて見せているが、逆に木々の間隔が狭く、密集しすぎていて、一つ一つに栄養が行き渡らないのだろう。
目に見える範囲の枝は、どいつもこいつも細く、弱々しい。ロープを掛けられそうな、いい具合のモノが見つからないのだ。こればかりは俺のせいではない。この森のせいだ。この森が悪い。この森が。
「そろそろ夕方だな」
独り、呟いた。街を出て電車に乗ってここに着いて、もう数時間は歩き続けていることになる。どんどん奥へ来ているが、気にすることは無い。もう戻る気は無いのだ。きっかけは単純だった。職場の人間から勧められた儲け話に乗った。結果、有金は消えて借金が残った。行く先は一つしかない。
未練は無かった。どこまでも俺にとって都合の悪い、下らない人生だった。前世というものがあるなら、俺はそこでかなり悪どいことをしたのだろう。だから今度の生は何もかもうまくいかなかった。そう考えないとやり切れない。
ああ、それにしても良い枝が無い。もう適当に括ってしまおうか。そんなことを考えた時だった。
「人が居たわ! ほら、こっち!」
きゃんきゃんと高い声が、不意に森の中に響いた。それが丁度、俺に下手な儲け話を振ってきた女の声にそっくりで、俺は眉をしかめながら声の方を振り返った。
夕陽が差し込む森の奥に、人影が二つ。男と女のようだ。男は肩にかなりいかついビデオカメラ――TV番組のスタッフが持っているようなやつだ――を持っていて、体はがっしりとしているが、その面長の顔つきにはかなりの疲労が見て取れた。一方の女はというと、上等なスーツに身を包んで、足には何とヒールを付けている。かなりの美人だが、かなりの化粧もつけているようだ。
「ああ、助かった! ねえあなた、登山者の方ですか? あたしたち、どうも迷ってしまって――」
女はそれから一方的に事情をまくしたてた。下らない話だ。この森――自殺の名所たる鬱蒼としたこの森の実態をお茶の間に届けるべくやってきたTVスタッフの一員で、軽い気持ちで他のスタッフより先に森に入ってみたら、あっという間に迷ったのだという。
「道案内、お願いできませんか? 外まで!」
俺の嫌そうな顔が見えないのか――いや、この女は恐らく、そんなこと気にも留めていないのだ――彼女は輝くような笑顔でそう告げた。隣のカメラを構えたスタッフを見ると、彼も訴えかけるような目で俺を見つめている。……ああ、本当に宜しくない。何もかもうまくいかない。この世とのオサラバを覚悟してやって来た場所で、迷子を案内所に連れて行けと言われるなどと、誰が予想できただろう。
「……っていうかあなた、もしかして自殺志望の方じゃないですよね?」
「まさか。分かりました、ご案内しましょう」
俺は溜め息をついて歩き出した。方向感覚は悪くない方だ。より良い場所を探るため、地図もコンパスも持ってきている。下手に自殺志望ですごめんね、などと告げるよりも、まずこの闖入者らを追い返し、それから改めて良い場所を探す方が賢明だろう。良い場所。それは一瞬でこの世とサヨナラ出来る、今の俺にとって宜しい場所だ。ラグビー選手の腕よりも太い枝が大地と並行に伸び、眼前は開けていて、この森一面が俯瞰できる。今まで不都合なことしかなかったのだ。最期の最期くらい、そんなベストプレイスを探しても許されるだろう。
「方角的にはここを真南です。進むに進めば、新幹線の線路だって見えてくる」
「無理だな」
突然、歩く俺の背中から、低い男の声がした。また闖入者か――驚いて振り返ると、括った薪を背負ったひげ面の男が、俺たちを冷たい目で見つめている。
「あなたは?」
「登山者に見えるか?」
質問に質問で返す奴は大体性根が曲がっている。俺がそうだ。こちらの得たい答えを知りながら、わざとそれを漏らそうとしないのだ。男はそんな俺の不快感を見て取ったらしいが、それすらも彼にとっては些末な出来事だったらしい。
「可哀想に。お前たち、何がしたくてこんなところに入ったのか知らんが」
女がきゃんきゃんと事情を説明し始めた。しかし、薪を背負った男はそれを途中で遮り、言った。
「出られんぞ、ここからは」
「どういうことです?」
その通りの意味だ、と男は応えた。それから「ついて来い」とも。
「そろそろ日が暮れる。話は俺の家でゆっくりしてやろう。どうせ時間はたっぷりとあるのだから」
男はそう言って踵を返した。女は「帰りたい」だの何だのと喚いていたが、やがて態度を変えない薪男に諦観を抱いたらしい。
こうして、俺たちは男の家に通された。家と言っても立派なものじゃない。山小屋――そう、山小屋だ。風がびゅうびゅうと差し込む小汚い山小屋。誰も手入れをしていない山小屋。そこで彼は語った。
「この森は、入った者を返そうとしない」
馬鹿なことを、とビデオカメラの男は笑った。確かに、童話や怪談のような話だ。だが、男はどこまでも真面目だった。
「ならば目印でも何でもつけながら外に出ようとしてみろ。どう足掻いても途中で森の中に戻ってしまう」
ビデオカメラの男と女はそれを迷信の一言で笑った。だが、二日目、三日目、四日目、五日目、六日目、七日目――日々が立っていくにつれ、彼らの顔からは生気が消えていった。
原理はよく分からない。だが、確かに薪男の言う通りだった。目印をつけ、地図とコンパスを何度も確認しながら進んでも――或いは、来た道を戻っても、俺たちはいつの間にか、目印を付けた場所に戻されていた。そう、戻されていたのだ。人間は真っ直ぐ進もうとしても、全体を俯瞰できなければ徐々に真っ直ぐではなく斜めに進むようになる――そう言った生態の話ではない。
A地点にAという印をつける。その後、南に行ってB地点にBという印をつける。更に南に行く。するとどうだ。Aの印が現れるのだ。
何度やっても同じだった。薪男の家には戻れたから毎日彼と話はしたが、男の話は常に同じだった。この森は入った者を返そうとしない――いわば無限ループの状態にあるのだ、と。
十四日目、女は薪男の家から出なくなった。一番帰りたがっていた筈なのに、だ。希望を持った者ほど折れやすい。そんな考えが頭を過ぎった。俺はというとどうでも良かった。ここで野垂れ死んでも首を括って死んでも結果は変わらないからだ。だが、何となく癪だった。俺の人生はいつもうまくいかなかった。ここに来て死ぬのすらうまくいかないのか? ――そんな考えが俺を突き動かし、何故か「何とか森の外に出てやる」という考えが頭を占めていたのだ。だがそれも長くは続かなかった。
二十四日目。女が首を吊った。それも俺の持っていたロープでだ。
三十五日目。ビデオカメラの男も首を吊った。
「お前はどうする?」
薪男はビデオカメラの男の遺体を下ろしてやりながら尋ねてきた。彼によれば、こんな事態はもう何度も見てきたのだという。話を聞くと、彼はかつて登山者だった。この森に来て、出られないことを知り、山小屋を建てて過ごしてきた。つまり、何度も何度も出ようとしたのだ。そして諦めた。ここに棲むことにしたのだ。
その事情を俺は知っていた。一か月以上も小屋で寝泊まりさせてもらったのだ。最初の頃に感じた『性根が曲がっている』という感想は消えていた。彼は同志だった。だが、だからこそ許せなかった。
「あんた、何だかんだでこの森を気に入ってるよな」
薪男は何も返さなかった。しかし分かる。何年もここで暮らしているのだ。おまけに登山者だ。山と一体になれた――そんなことを考えているのかも知れない。だが。
「俺はこの森が嫌いだ」
ビデオカメラの男の墓を掘りながら、俺は呟いた。俺の人生は何もかもうまくいかなかった。死さえもうまくいかないのかも知れない。
「それだけは嫌だ。絶対に」
いつか彼らと出会った日のように、夕陽が森に射しこんでいた。
●
自分は無気力だった。事情は色々あったが、とにかくもう、死のうと思った。だからここに着た。森へ――この入ったら出られないと言われる自殺の名所へ。
入り口にはやたらめったら「命のことを考えて」とか「両親のことを思い出しましょう」とか看板が張り出されている。もうこんなところに来たのだ、そんな声の無い言葉が通じるわけもない。自分がそう看板を笑った時だ。
「入るのかい?」
声がした。看板たちの裏、森の――中から。
驚いて、前方を見る。
「入ってもいいよ。もう出られるから。ただ、ここはもう、完全な森ではないがね」
ひげ面の老人はそう言って、手にした斧を持って笑った。自分が老人の背を見ると、確かにその背には――モーセが開いた海のように、森を割る様に――樹が一本も見当たらない。
「見える限り根こそぎ切り倒してここまでやって来てやった。何が返さない森だ。じゃあ一部分だけでも『森』では無くしてやるまでだ」
歳は六十を過ぎているだろう。しかし、筋骨隆々のその肉体には、生気が満ち満ちている。自分はただ「はぁ」としか言えなかった。そんな自分に老人は言った。
「で、どうする? 見たところ自殺志望のようだが……」
老人はそれから呵々大笑した。
「意外に悪くないぞ。下手くそに生き永らえるのもな」
人の言うことを聞かなさそうな男だな、と、何となく自分は思った。
アリアドネ カント @drawingwriting
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます