「許す」


 家に帰る途中、私たちは無言だった。

 ただ、私は絶対にアーサー君が離れて行ってしまわないようにアーサー君のパーカーの袖の端を握っていた。


 商店街の中、私たちが初めて会った場所を通り過ぎて、私の住むマンションにたどり着く。


「あれ」

 

 玄関のオートロックを開けるとき、後ろからそんな声が聞こえて振り返るとお隣さんだった。ジョギングにでも行くのか、上下ジャージにイヤホンを耳に誘うとしたところで私たちを発見したようだ。ぶらん、と首からイヤホンが鎖骨のあたりに落ちる。


「お兄さんおかえり。よかった」


 本当に私のことを心配してくれていたのか、お隣さんはほっとしたような顔で笑ってくれていた。


「ありがとうございます。行ってらっしゃい」

「行ってきます」


 リズミカルに走っていく姿を見送って、私たちは玄関に入った。

 エレベーターの中も無言だったけれど、アーサー君が黙ってついてきてくれたことだけが私を安心させてくれた。部屋の鍵を開けて、扉を開けたとこ

ろで私は、はっと気づいた。


「アーサー君、先に入って」

「は? 何で」

「いいから」


 アーサー君は多分理解できていないといった様子で、私はそれでもよかった。靴を脱いでアーサー君が部屋にきちんと入った頃を見計らって、私も中に入る。


「アーサー君」

「ん?」

「ただいま」


 私の部屋にアーサー君がいて、それで私が「ただいま」って言ったら「おかえり」って言ってくれるアーサー君がいるのが私にとって一番大事なことだ。それを理解してくれたのか、アーサー君は笑って、「おかえり」と返してくれた。


「帰ってきたのは、俺なんだがな」

「それもそうだね。おかえり」

「ただいま」


 アーサー君がそういったとき、私は心の底から安堵していたことだと思う。

 帰ってきてくれてよかった。帰ってきて、私に対して「ただいま」と「おかえり」を言ってくれたことが嬉しくて、涙が出てしまった。


「アーサー、くん」


 この間のように私は廊下にへたり込んでしまう。それでも、前みたいに一人じゃなくてアーサー君が目の前にいるんだということが嬉しくて、また涙があふれた。


「どうした」

「アーサー君、何で、何で黙って出て行っちゃったの……」

「……すまない」


 謝ってほしいんじゃない。


「何で鍵返したりしたの、もう帰ってこないつもりだったの? 私のこと放っておけないっていうの嘘……?」

「それは違う」

「じゃあ何で」


 質問攻めにしてごめんね、アーサー君。

 でも口から勝手に出てくるんだ。ごめんね。アーサー君。


「お前が、俺が出て行ったことに対して、ショックをあまり受けないんじゃないかと思った」

「何で、私、アーサー君が必要って言ったよ?」


 その言葉に嘘なんてないのに。


「そうは言っても、やはりどこかお前は、俺が勝手に出て行くことを予想していただろう? だからそれに賭けた。お前が俺のことを気にしていないと判断したらもう戻ってこないつもりだった」


 そのために私の近くにいて連絡を取り合ってる國橋君の家にとどまることにしたのだという。

 なんて、勝手な理屈。そのために私がどれだけ苦しかったかアーサー君はわかってないのだ。私がどれだけアーサー君を必要としているか、アーサー君はわかってない。


「ただ、そんなに悲しんでくれるとは思っていなかった」

「アーサー君の、ばか」


 馬鹿は私もだけど、でもそれにしたって、アーサー君は馬鹿だ。

 へたり込んだ私の前に座るアーサー君の懐に入り、私はアーサー君の胸を殴った。

 かなり力を抜いていたからたぶん、痛くはないと思う。


「すまなかった……」


 私の背中に手をまわして、アーサー君は力を込めた。

 私は抱きしめられる形になって、顔がアーサー君の胸に押し付けられて、メガネのフレームが少し痛い。けど、力を込められた手が優しくて、アーサー君の声が近くに居ると感じられるから。


「許す」


 と私は言ってしまった。 

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