やさしいクマさん
真夏ちゃんハブから二ヶ月。
仁木さんが北海道から上京してきた。
忙しい先生のことを配慮し直接病院にいらっしゃったようだ。
「伊藤先生!」
低いハスキーな大声が病院に響く。
「よう、仁木!」
「お久しぶりです。お元気そうでなによりです」
「仁木、ちゃんとやってるか?」
何てアンバランス。仁木さんは先生より15センチ以上は大きいし体重も倍くらいありそうなのに、ちんまい先生の方が呼び捨てなんだもん。
「先生から教えて頂いたこと、私の支えになっとります」
「ああ、忘れるなよ。お前はデキが悪いからな」
「先生、それは昔の話じゃないですか」
あははと威勢よく声を上げて笑う先生が、まるで別人のように思える。
なんか覇気があるというか、身振り手振りも大きくていつもと全然違う。
その先生が、身のこなしも軽く椅子に座り直して仁木さんと向き合う。
「今日は何で来たんだ」
「学会です。ウイルス感染における転写阻害剤の」
「あれか。俺は出られないが副作用が気になる。報告してくれ」
「はい」
先生が俺って。
それに私の分からない話がポンポン交わされて、なんだかポツン……。
「学会は明日だろ。今日はどうする?」
「先生の手紙に、ここはウマイものがあると書いてましたんで、それを楽しみにしとりました」
「なんだ、俺の周りは食いしん坊が多いな」
それって私のこと?
先生は、私の方にくるっと椅子を向けると
「梓! もう5時だ。上がっていいから仁木君をおいしい店に連れて行ってくれないか」
「あ、はい」
「ああ、あなたが」
「ああ仁木には紹介してなかったか。妻の梓だ。お前に負けない食いしん坊だから、なんでもリクエストしてやってくれ」
「よろしく梓さん」
「は、はい。よろしくお願いします」
そう言って差し出した手は大きく分厚くて毛むくじゃらだった。
私の手だと握手しても届かないほどに。
私は仁木さんを連れて病院を出た。
初対面でいきなり店に連れて行けって、ちょっと無茶ぶりだよ~。
「梓さんは、随分お若いですね」
うわぁ、腹に響く声だな。
「はい、いま24です」
「おー、先生と随分離れてますなー。朴念仁かと思ったらこんなキレイな方と。先生もなかなか。あはははは」
頭の上から大きな笑い声が聞こえる。
今日はブーティだけど、仁木さんの頭は遥か見上げる高さ。
私も160センチはあるから女性としては小さくないと思うけど仁木さんが大き過ぎるんだ。
「あの~、仁木さんは何が食べたいですか?」
「そうだ、そうだ、それが目的だ。いきなり甘いものでもいいですかな」
「仁木さん、甘党ですものね」
「お恥ずかしながらそうなんですわ。北海道生まれだからですかな。わはははは」
風貌に似合わずおしゃべりな人だ。
北海道の人ってみんなこうなのかしら。そしてみんな甘党なのかしら。
「いつも、お菓子を送って戴いてありがとうございます。おいしく頂いております」
「ああ、伊藤先生が奥さんが食べるのが大好きだと言うておりましたので」
先生、会ったこともない人になんてことを!
でもそのおかげで、おいしいものを食べてきたんだからいいのか?
「お恥ずかしい。甘いものも揚げ物もな何でも好きです……」
「わははは、同じですわ」
「では私が昔アルバイトをしていた洋菓子屋さんはどうでしょう。クーヘントルテのお店ですよ」
「おー! 本格的ですな。これは楽しみだ」
「でも喫茶店ではないので、ちょっと変な所に入りますけど」
「変な所?」
「行けばわかりますよ」
カラメールの扉を開けると仁木さんは大喜び。大きな身をかがめてショーケースの中を嬉々として覗きこむ姿はまるで子供の様だ。
優花理ちゃんが、ちょっと驚いた表情で私たちを見ている。
「優花理ちゃん、仁木さんっていって先生のお友達なの」
「まぁ、先生のご友人でしたか。ぜひゆっくり選んでくださいまし」
聞きなれない言葉づかいを聞いたからだろう仁木さんが徐に顔をあげた。
「おー、かわいらしい店員さんですな。さすが都会は違いますわ」
「そんな、かわいらしいだなんて、ありがとうございます。でもわたしくもう25なんですよ」
「えっ! 優花理ちゃん、私より年上なの!?」
「ええ、そうですわよ」
「なんで言ってくれないの! やだ、ちゃんづけで呼んじゃってごめんなさい。てっきり二十歳くらいかと」
「うふふふ、ごめんなさい」
「じゃいっそう、何でこんな所でバイトしてるのよ」
「盛り上がってるところ済みません。注文してもよろしいですかな」
「あら、申し訳ございません。おっしゃってください」
「イチゴショートとバウムトルテと、ザッハトルテとチョコレートクーヘンをお願いします。梓さんはどうなさいますか?」
「えーと、レモンパイを」
「梓さん、1個でいいんですか」
「いいの! いいの!!」
初対面の方を前に優花理さん、大食い前提な質問しないでよ!
「わははは、好きなだけ食べてもいいですよ。結構食べると聞いとります。ここは私が払いますから」
顔が真っ赤になったのが自分でも分かった。
先生、何をいらない事まで。
う~。でもシラをきるのはムリっぽそうだ。大人しく白旗を上げよう。
「発酵バターのクーヘンも……」
「はいっ」
そんな快心の笑顔で「はいっ」て言われても。優花理ちゃん。あなた……。
「もしかして奥の部屋を使われますか?」
「うん、お願いします」
例の奥の部屋に仁木さんを案内する。
ちゃぶ台に並ぶケーキ達を見て仁木さんはホクホク顔だ。
「こんなお店があるんですなぁ。都会は面白いサービスがありますなぁ」
「いいえ、ここはお店のサービスじゃないんです。昔のよしみで使わせてもらってます」
「ああ、そうでしたか。わはははは」
なんでも大声で大笑いする人だ。ちょっと耳が痛いけど気持ちがスカッと晴れちゃう。
「さて、どれどれ」
ショートケーキをぱくっと食べる。手が大きいからフォークがおもちゃみたい。それを器用に使っているのを見ているとなんか熊の曲芸みたいだ。
ごめんなさい。
「おー、なかなか最近では味わえない味。たしかにドイツ系だ」
「分かりますか?」
「昔ながらのクリームの作り方ですな。これは面白い」
「ですよね。ちょっと重いですけど香り高くて」
「梓さんは、なかなか食通ですな」
「いえ、それほどでも」
「先生はついて来れんでしょう」
「いえ、そんなことは。一緒にご飯に行きますよ」
「あの方はそれほど食にこだわりはありませんから。それより医の僕ですわ」
え、そうなの? だって私、中学の頃から一緒にご飯食べてるし。
ほんと?
「先生、おいしい店いっぱい知ってますよ」
「調べてましたわ。私も何度も聞かれたことがありますよ」
この人は先生の事を知ってる。私の知らない先生のことを一杯知ってる。
聞きたい!
「先生は、大学病院の先生はどんな人だったんですか」
ケーキをはみながら仁木さんが昔話でも語るように教えてくれた。
「腕のいい内科医でした。でも努力の方です。もともとは劣等生だったとご本人がいっておりました。私もデキが悪かったので親近感があったのでしょう、私は先生には随分かわいがられました」
「劣等生……」
「私に医師の志を教え込みたかったのでしょう、厳しい方で随分怒鳴られました」
怒鳴る!? 先生が!?
「そんな伊藤先生が若かった頃の話をしたことがありまして、自分の力不足で命を救えなかったと。先生の名誉のために言いますがミスではないのです。たとえ経験を重ねてた医師でもすべての病気が分かる訳ではないですし、手遅れならば救える命も救えないのは必定です。ですがその後悔が先生を動かすんでしょうな」
「だから責任……」
他にもいろいろ聞いたが、そこには私の知らない先生がいた。
医の僕とは至言だった。
燃え滾るような使命感と責任感で患者さんと向き合ってる。
そんな先生と働く私が、ぷらっと病院を抜けてテレビに出るなんて「お前は何をしてるんだ!」と言いたくなるのもうなずけた。
そうか、お風呂の道具を取りに取りに戻った時の先生の微妙な感じは、土曜日も患者さんのところに行きたい思いを飲み込んでた顔だったんだ。
私に言いたかったのに先生は我慢してくれてた。
「梓さん、どうなさいました。止まってますよ。フォークが」
「い、いえ。先生の知らない一面を知ったもので」
「そうですか。逆にあんな熱い人が家庭でどうなってるのか、こっちが知りたいところですわ。わははは」
「……とっても優しい方です。私の事をいつもに気にかけてくれて。私の我儘を全部聞いてくれて。私は俊介さんと一緒になれて本当によかったと思ってます」
「そうですか、それは良かった。がははははは」
私達はケーキを食べた後、先生がイチオシだと手紙に書いていたかつ丼を食べ、仁木さんはイチオシってほどじゃないですな、がはははと大笑いし、こんどは私がイチオシのナポリタンを紹介し、これはウマイ! これは北海道では食べられない! と感動させ、ならばとお寿司のおいしいお店を紹介し、マグロはやっぱりこっちがうまいと唸らせた。
「梓さんは食いますなぁ」
「あら、まだ全然ですよ。もう2,3軒行きましょうか?」
「私はもう腹いっぱいですわ。豪快で素晴らしい! また行きましょう、是非!」
「こちらこそ」
なんて意気投合して、また病院に帰ってきた。
仁木さんは、また先生の前で膝をそろえてお話ししている。
本当に先生の事を尊敬してるんだ。
いろいろ私にも事情はあったけど、看護師として向き合う姿は一方的に私が悪い。
先生はずっと私に言いたいことがあったのに我慢していたに違いない。
それが分かってしまった。
でもさ、言いたいことがあったら言えっていったの先生じゃない。だったら先生も言えばいいと思わない?
ねぇ。
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