勇気を出して

 日が改まっても、真夏ちゃんのこわばった顔が頭から離れない。


 その日は先生も私も仕事が手に付かなかった。

 人の命を預かる医師として看護師として、それでは余りに危ないから、慎重をきするため何度も声を掛け合いながら診察をしたんだけど、そのせいで診れない患者さんがたくさん出てしまい、私達は診察室の前で何度も頭を下げて患者さんに謝罪した。

 皆いいよいいよと言ってくれたが、親しい間柄でも患者さんなのだ。本当に申し訳ない。

 ここ数日、私達はアチコチで謝り続けている気がする。



 真夏ちゃんはまだ小学生だから、スマホも携帯電話も持っていない。

 会うには直接家に行くか、自宅に電話をするしかないのだけれど、その簡単なことが私には出来なかった。

 お昼休みにトートからスマホを取り出し、ボタンを数個押すだけでいい。

 でも、真夏ちゃんを受け止める自信が私には無い。


「お母さんが、出たらどうしよう」


 私は真夏ちゃんのお母さんが大切に守ってきた、乱暴に扱うと崩れてしまうポルポローネみたいな家庭を壊してしまったんだ。

 その瞬間を目の当たりにして、テーブルの向こう側で小さくうつむいていたお母さんに、どうお詫びをしていいかも分からなかった。


 でも……

「真夏ちゃんに会いたい」

 そう思いながら5日が過ぎてしまった。


 思い余った私は先生に相談して、小学校が終わる時間に病院を抜けて真夏ちゃんを待ち伏せすることにした。ストカーじみてるって思うけど。

 先生は随分困った顔をしてたけど、なにせ自分が全力で蒔いた種なのでノーとも言えず、早く戻ってきてねと一言だけ注文をつけて私を送り出しくれた。


 学校が終わる時間を狙って校門の前で待つ。

 一年生かな二年生の子かな? 低学年の子達がランドセルを揺らして駆け出してくるのを門柱にもたれながら微笑ましく見送る。

 ちっちゃい子は、後ろなんて振り向かないから私に気づかない子もいる。真っ直ぐさか初々しい。

 真夏ちゃんも、ああだったんかなー。


 晩夏の風に吹かれながら小一時間も待っただろうか、帰る人もまばらになった頃に真夏ちゃんが俯きかげんにトボトボ歩いてくるのが見えた。

 来た!

 なのに私ときたら反射的に隠れてしまった。

 どうしよう、何て言おう、どんな私で会ったらいいの、『ハーイ、真夏ちゃんっ』て? ムリムリ絶対おかしいでしょ。

 今の申し訳ない気持ちは隠さない方がいいのかしら?

 でも今の私は生きるお通夜だよ。

 やっぱりここは出来る限りフツーで。でもフツーの私ってどんなんだったけ? あう~思い出せないよ~

 わーとなって頭をボリボリかきむしっていたら、真夏ちゃんとバッタリ目が合った。

「あっ」

「あっ」


「こ、こんにちは、ぐ、偶然だねぇ。こんな所で会うなんて」

「お姉ちゃん」

「こ、ここは、よく来るのかな? 真夏ちゃんは……」

「うん、学校だもん」

「そ、そうだねぇ! あはは」


 だめ、真っ直ぐ真夏ちゃんを見れない。


「お姉ちゃん、待ってたの?」


 それに比べて妙に冷静な真夏ちゃんがワタワタする私をこっちの世界に引き戻してくれた。

 うう、アホなお姉ちゃんでごめんなさい。


「……うん、家に連絡も出来なくて、でも逢いたくて。どうしようもなくてここで待ってた。会わせる顔もないけど」

「お姉ちゃん!」


 その声に伏せていた目をあげると、真夏ちゃんが私に飛び込んで来た。

 屈んで受け止めると、私の胸にビッタリくっついて離れない。

 ポニーテイルの小さな頭だけが、無言の何かを語りかけてくる。そんな私に身を預ける真夏ちゃんが愛おしくて、その頭をそっと抱いた。


「お姉ちゃん、やわらかい」

「えっ」

「お姉ちゃんは、暖かくてやわらかいんだ」


 何を言ってるんだろう、確かに私、胸はおっきい方だと思うけど、え、そういうこと? それとも二の腕?

 はっ! もしかして真夏ちゃん、この5日間家で孤立してるんじゃない?

 どストレートだけど聞こう。


「真夏ちゃん、あの後、真夏ちゃんちはどうなったの」

「……」

「……」

「大ゲンカになったよ」


 ぎゃーーー!! やっぱり!! だよね。そうだよね。予想通りの展開とはいえ全身に鳥肌が立った。

 この鳥肌、真夏ちゃんにも伝わっちゃったかしら。


「……だよね」

「お父さんがお母さんに凄い剣幕で怒って、お母さんが小っちゃくなって謝って、それでもお父さんの怒りが収まらなくて、私も大声で怒鳴られた」


 もう真夏ちゃんを抱く手を放して顔を覆いたくなった。

 先生、大変な事になってるよ。あなた、なんてことしてくれたの!

 オー、ノー!

 これ、どんな修羅場なの。どこぞの家政婦ドラマよりひどい展開だよ~。


「ごめんなさい。私のせいで」

「ううん、いつかはそうなると思ってたから。お父さんはあんな調子だし、お母さんはなんとか波風立たないようにしてたけど、それがお父さんには気に入らないみたいだったし」

「そ、そうなんだ」


 私の家はママは適当でお茶目な人だったけど、しっかりしたパパがそんなママを受け止めてたから家庭は円満だったんだ。

 パパは時々ママに「お前は自由すぎる」と怒ってたけど、そんな激昂する姿なんて見たことなかったし、私が羽目を外した時も注意されても怒鳴られることはなかった。


「実は私、あの話をするときさ、もしかしこうなるかもって思ってたんだ」

「えっ」

「でも、もう5年生だから。もう繰り返しは嫌だから今回はちゃんと話そうと思ったんだ」


 そうだったんだ。

 あのナポリタンの時の、何かつっかえている感じはこれだったんだ。グルメマップを作るのって真夏ちゃんにとってその出口だったのかもしれない。


「真夏ちゃん、いま家でどうしてるの?」

「お父さんともお母さんとも口きいてないよ。どうせお父さんはお仕事が忙しいから夜遅くじゃないと帰ってこないし、いっつもお酒飲んで帰ってくるから、朝しか会わないし」


 ちゃんと真夏ちゃんと話そう。場所を移そう。こんなところで込み入った話はできない。

 けどウチに呼ぶのはマズそうだし、人気のないところがいいんだけど……。


 閃いた!

 カラメールに行こう!

 あそこの奥の部屋なら!

 店長もそういうのに口が堅いし。


「真夏ちゃん、ちょっと場所を移そうよ。時間ある?」

「あ、はい。どこに行くんですか?」

「カラメールよ」

「え、でもあそこは洋菓子屋さんですよ」

「奥に部屋があるのよ。そこならゆっくり話せるから」


 別に隠れる必要はないんだけど、人目を避けて裏道からカラメールに向かう。遠くに人影が見えたら物影に隠れたりして駆け落ちか逃避行みたいだ。

 そしてお店に人がいないのを見計らって、真夏ちゃんの手を引いてカラメールに入った。


「いらっ……、ああ、梓くん久しぶり。どうしたの? かわいいお客さんの手なんか引いちゃって」

 もうこの商店街に来て6年になるが、私の事を梓くんと呼ぶのは店長だけだ。

 この街で最初にお世話になった? いや敢えて言おう。お世話した人。


「店長、お久しぶりです。……なんか太りましたね」

「相変わらずきついなぁ。確かに太ったけど」

「お腹まわり、すごっ」


 いやぁ貫禄貫禄。あのほっそりした店長の姿はいったいいずこに。ギャルソンエプロンの面積が随分増えるんですけど。


「これは菓子屋の宿命だね。今回の新製品の開発で一気にきたよ。8キロだよ。8キロ。梓くんのことバカにできないなぁ」

「人聞きの悪い! そうだ、店長と話してる場合じゃないんです。すみません。昔のよしみで奥の部屋を貸してもらえませんか?」

「ん、いいけど。タダとはいかないなぁ」

「うぁ、商売上手になってるよ」

「そう教えてくれたのは梓くんでしょ」


 う、確かにもっと貪欲に儲けろと言ったのは私だけどそれを自分に適用されると痛い。

 だけど、私だけ例外にしろとは真夏ちゃんの前では恥ずかしくて言えないし。


「分かりましたよ。買いますよ。どうせ食べたいと思ってたし。ねぇ真夏ちゃんはどれがいい」

「いいんですか?」

「もちろん!」

「真夏ちゃんって言うんだ。よろしくね。さあ、どれでもどうぞ。この3,000円のホールケーキとかどうかな?」

「店長!」


「優花理ちゃーん、お客さんだよー」

 真夏ちゃんと私がケーキを選び始めるのを見て、店長は奥の部屋で一休みしていたであろうバイトの子を呼んだ。

 いまは優花理ちゃんって子なんだ、まぁ店長の趣味からして男の子のバイトはないよね。


「はーい」

 奥から鈴のように澄んだ声がする。ここ1ヶ月で来たバイトちゃんだと思う。前は違う子だったから。今度はどんな子かしら。


「あら、梓さんでしたか。こんにちは」


 えっ誰? こんなさらさらヘアーの清楚な子、全然記憶にないんだけど。

 いつ会ったっけ、やばっ。知らないって言えないよ。

 なんとか自然にもちろん知ってますオーラを出さないとっ。


「こ、こんにちは。ここでバイトしてるんですね」

「あら、私の事をご存じでらして?」


 ご存じでらしてなんて、お嬢様言葉を使う知人なんて私にはいないぞ。あわわ、本当に誰よ?


「ええ、もちろん……だと思いますです、わよ」

「うふふふ、私の事はご存じないですよね。梓さんは茜商店街では有名ですから私は存じておりますけど。たぶん初対面だと思いますわよ」


「へ? そうでございますか」

「ほほほほ、梓さんは思った通り面白い方ですわね」

「そ、そうですか。あはは、そうかもしれませんね」


 やだ、もう恥ずかしい。初対面なら早く言ってよ。ドキドキしちゃったじゃない。

 でも私の適当な応対を気にしてないみたいでよかった。

 しかし店長。趣味変わったな。

 お嬢様をバイトに使うとは侮れん。昔はおっぱいの大きい子が好きだったのに。いやこの子も相当大きいか。新しい属性を開拓するなあ。


「お姉ちゃん、わたしこれにする」

「ん、どれ。ふわふわチーズケーキか。これおいしいよね。口のなかでふわふわチーズが雪みたいにとろけてさ」

「お姉ちゃんは、どれ?」


 一杯あってどれがいいか決められない。新しいケーキも随分増えてるし。これはバイトの子のアドバイスをもらってみるか。


「んー、優花理さん、最近のおすすめはどれですか?」

「では新作がよろしいですわね。んー、このクーヘンはいかがでしょう」

「わお、真夏ちゃんのふわふわチーズケーキの対極にあるようなどっしり感」

「ええ、とてもおいしいのですが、見た目のとおり非常にカロリーフルで」

 この後、優花理ちゃんは私の耳元で、「この試作で店長はずいぶん太られたみたいですわよ」と教えてくれた。


「これ毎日食べたら、すごいことになっちゃいそうだね」

「ええ、もう実証済みですから」

「で、優花理ちゃんはそれを私にオススメするんだ~」

 ちょっとからかっちゃう。


「ええ、とってもおいしいですし、きっと梓さんなら大丈夫だと思って」

 可愛く言ってもダメだぞ。でもおいしそうだから食べちゃう。


「じゃ、そのクーヘンとふわふわチーズケーキをお願いします」

「はい、あいがとうございます」


 こんなかわいいお嬢様が、なんでこんな店長の元で働いてるんだろう。日を改めてじっくり聞いてやろうっと。


「じゃすみません。奥の部屋を少し借りるんで、休憩中にごめんなさい」

「いいえ、では後ほど奥のお部屋にお持ちいたしますわ」

「ありがとうございます」



 私と真夏ちゃんは、奥の部屋にある懐かしいちゃぶ台の前にちょんと座って向き合った。


「真夏ちゃん、ちゃんと聞きたいんだ。さっき言ってたこうなるかもって思ってたこととか、今のお家の事とか」

「うん」

 真夏ちゃんは、そう自分に言うと意を決したように言葉を紡いだ。


「別にお父さんもお母さんも仲が悪いわけじゃないんだ。でもお父さんがあんなだから、お母さんいっつもビクビクしてて、お父さんはそれが凄く気にいらなくて怒るんだ」


「お父さんは怖いの?」

「不機嫌な時は怖いけど、普段はそんなことないよ」


 見た目もそうだけど、むらっけが多そうだったもんな。

 ちょっとまてよ。まさか……

 聞くのが怖いけど、これだけは聞かなきゃいけない。


「まさか、叩かれたりとか」


 もし、そうだったらどうしよう。胸がドキドキいってる。


「ううん、それはないよ。お母さんにも」

「はー、よかっかった」


 全身の力が抜けるように胸をなでおろした。

 あのガタイで叩かれたら部屋の端まで吹っ飛ぶよ。元ラーガーマンだもん。


「お母さんは?」

「お父さんに怒鳴られてから、私と二人の時も元気がないの。それが心配で」


 優しい子。やっぱり真夏ちゃんは天使だよ。

 こんなときもお母さんの事を心配してるんだもん。


「そうなんだ」

「でも、お父さんの言うのも分かるんだ。だからお母さんに『このままでいいの』って話したんだけど」

「そしたら?」

「お父さんはああいう人だからって」

「諦めちゃってるの?」

「うん、そうかもしれない、でも……」


 行間の想いがヒシヒシと伝わってきた。

 健気な真夏ちゃん。こんなに小さいのに戦ってる。

 力になりたい。でも、その私のお節介がこの結果なんだけど。だけど。


「それがずっと繰り返してるんだね」

「うん、それにお父さん、『俺の言うとおりにすればいいんだ』って口癖だから、ずっと変わんない」

「真夏ちゃんをそれを変えたいの?」


 真夏ちゃんは声なく、うんと頷いた。


「それで、お父さんとお母さんとも口をきいてないんだ」

「うん」


 真夏ちゃんは腹に決めたときは、無言でうんと頷く癖がある。だからこの『うん』は本意ではない、迷いだと私には分かった。何とかしたいが、どうしたらいいか分からない。うつむいて歩いていたのは迷っているから。

 なんだろう、このとき私はそれがスッキリと分かった。

 真夏ちゃんの勉強の時と同じだ。何とかしたくてあがいてるけど、やり方が違う。


「真夏ちゃん、今度はお姉ちゃんからなにも言わない。真夏ちゃんは本当はどうしたい?」

「わかんない。けど、お姉ちゃんとの食べ歩きは続けたい」


 うーん、そのどうしたいとは違うけど、それも大事なことだよね。でも真夏ちゃんの中では何か動き始めてるんだ。信じよう。


「それは私も同じ。続けよう。最後まで作ろう」


 今度は真夏ちゃんを待とう。

 私はお姉ちゃんなんだから。


「あの、お取込み中によろしいかしら。ケーキをお持ちしてもよろしくて?」


 あら、優花理さん私達の話が終わるのを待っててくれたんだ。

 この子、お嬢様なのに良くできた子だな。

 ん? 待てよ? 本当にお嬢様なの?

 まぁ初対面じゃ失礼で聞けないけど。



 おすすめのクーヘンはとってもおいしかった。

 真夏ちゃんと一緒に食べたんだけど、真夏ちゃんは超おいしいけどこれ絶対ヤバい、絶対太ちゃうとお大騒ぎだった。

 カロリーが高いほど、おいしいほどきゃあきゃあ言っちゃうって真夏ちゃんも女の子だなぁ。

 高カロリーケーキありがとう。元気をくれて。


 あー!! 病院! 先生待たせっぱなしだーー!

 やー、怒られるー、先生に!

 もうほんと謝ってばかりの1週間だよ。

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