エピローグ:side heaven

第41話 きっと夜は明ける


 この部屋はなんなんですかとサレスに聞いてみたところ、彼女は「私室」とだけ短く答えた。私室。プライベートルーム。

 天井はたぶんボールを投げても下手をすれば届かないほどの高さで、そこから釣り下がるシャンデリアにはきんきらきんの金と権力を感じる。

 紅色のテーブルクロスがかかった巨大なテーブルはそれはもうここを食堂と勘違いしていないか疑うほどに巨大で、そのテーブルを挟むように両サイドに置かれたソファに座って僕とサレスは向かい合っているのだが、実際のところ本当にテーブルが巨大すぎるのでいまいち距離感がよくわからないことになっている。

 総括すると「王城ってすごいんだなあ」の一言に落ち着く状況、もしこれが今日ではない別の日の出来事であったなら、部屋中から匂い立つような王家の威光を前に僕は緊張してガチガチになってしまっただろうが――


「おつかれさま。飲む?」

「……すっ……ごい、緊張しました……」


 もっと緊張する出来事が、この日は、直前にあったので。

 サレスの淹れてくれた紅茶のカップ、でこわばった両手を温めて――漂うハーブの香りに、ただただ僕はリラックスしていたのである。



 さて、何がどうなったかという話。

 異世界に吹き荒れた未曽有の大災害。泥藤という魔王を倒してから、そろそろ一か月になるだろうか。紅茶に口をつける前に、いったん席を立ち――窓際、とてもやわらかく滑らかな手触りのカーテンをそっと開ける。

 眼下に見渡す景色――魔王の襲撃を受けたカイロス王国は、お世辞にも元通り回復したとは言えない状態にある。叩き壊されたというのも生やさしい、なにせ文字通り粉々の粉になるまで粉砕の限りを尽くされたのだ。倒壊した建物の修復工事はあちこちで行われているし、今だって現場の工夫たちがしきりに怒号を飛ばす声が聞こえてくる。


「おやめくださいユース様! 自分の傷がひと月そこらで癒える程度のものではないとなぜいまだに自覚できないのです!」

「やっかましゃーい! じっとしてるとむしろ活力が有り余って死にそうになる!」


 そう、このように。

 鞘に包んだ刀をぶんぶん振り回しながら、城の中庭を半裸のユースが駆けていく姿が見えた。お付きのメイドだか医者だかがホウキや白衣を振り回して後を追う。

 しばらく真顔で眺めていた僕を見て、サレスはカップをかちりと鳴らした。


「身内の恥、というのは置いといて。……あの剣は、いいの?」

「ああ、それは全然かまわないです。僕が持ってても、まあ、しょうがないので」


 無事一命をとりとめたユースは、まだ傷もろくに治らないうちから街の復興作業に顔を出しては使用人に渋い顔をされている。それでも、国の王子である彼が率先して姿を見せるというのは、残された民の立場からすれば十分な希望の象徴となるらしい。次期国王にふさわしいだけの人望をユースは集めているし、ふらりと竜殺しの旅に出たっきりほとんど帰ってこなかった彼をひそかに心配していた王も、この現状にはほっと胸をなでおろしているとかいう噂だ。

 その王だ。


「……にしてもですね、『勇者』はほんと、いくらなんでも言いすぎですよ」


 なにがあったかというと。

 もはや誰にもどうにもできない世界の終わりだと思われた魔王。その魔王を倒したのが僕であると息子から知らされて、カイロス国王は――

 なんとまあ、僕を直接玉座の間までひとりで呼びつけて。

 そこで頭を下げたのだ。

 一国の王が。たかがガキひとりに。

 国を挙げてその功績を称えようなんて言い出した王様を必死に、本当に必死になだめて、それでも引き下がってくれなくて、とにかくこの場はいったん持ち帰らせてくださいとだけ言い残して去るのが精いっぱいだった。そうして精根尽き果てた僕をお疲れさまと私室に案内してくれたのがサレスというわけだ。

 今日の彼女はいつもの紫色の魔法使いローブではなく、純白のドレスを身にまとっている。長いつややかな黒髪は後ろでひとつくくりにしていて、なんだろう、それが正装なのだろうかと僕は少し首を傾げた。


「それだけのことを、したと思うけど」

「って言われてもですね。別に僕の功績ではないというか……いやまあの功績ではあるんですけど……」


 わけのわからない悩み方をする僕に不可解そうな視線を送って、

 ふと、サレスは窓の外を見た。

 ふっと部屋の中が暗くなる。部屋がまるごと何かの陰になったように――


「――許可が出ました。それではですね! あらためて、プロメテウスに生存者がいないかを探しに行こうと思います。そういうわけですから、全速力でお願いしますよドラゴンさん! スライムさんも! ……スライムさん? あれ? スライムさん? どちらに――」


 五十メートル超の長大な体長を誇る白竜が、その腹だけを僕たちに見せながら、大空をばっさばっさと飛び去って行った。その上で吠えているのであろうきゃいきゃいとした声だけが、少し遅れて降ってくる。

 ……その後しばらくして、小さくなっていく竜のシルエット、その尻尾の先のほうで丸くぷっくりと膨らんでいた何か別のシルエットが――風圧に耐え切れなくなったかのように、ぽろりと、落ちた。

 水しぶきの飛び散る音が聞こえたような気がした。


「……まあ、やはり気になるのだろうと思う」

「いや、まあ、いいんですよ、別に。僕は」


 魔王をなんとか打ち倒し、カイロス王国はなんとか守られた。けれど、魔王がすでに滅ぼした五つの国が帰ってくるわけではない。

 人が大勢死にすぎた。

 亡んだ五国が再生することは、たぶん、もう、ないだろう。

 それでも、かつて健在であったそれらの国の姿を目に焼き付けた生き残り――避難民たちが、カイロス王国にはきちんと流れ着いているし。

 彼らはきっとこれからも生き続け、その人生の価値を、生きてゆく価値を、後世へと伝え続けるのだろう。


 なお、スライムとドラゴンはどちらもなぜだかメリルによくなついた。

 どちらも同じ僕なのに、わからないものだなあと思う。不思議な分岐をしたものだ、と。

 でも、それはまあ、たぶん。

 そうした驚きの進化を遂げるだけの可能性を、かつて現世を生きた”蓮川創”というひとりの人間が内包していたのだろう、という――僕という人間の、価値の証明として。そういうふうに、受け取っておこうと思う。

 サレスは懐から色とりどりの薬瓶を取り出して、それらをテーブルに並べながら、僕に聞いた。


「結局、あなたと、あの剣とあの竜と、スライム。……どういう関係かって聞いても、まだ、教えてくれない?」

「……なんて説明するかがまとまったら、ちゃんと言おうとは思ってるんですけど」


 魔法使いというのはやはり好奇心旺盛でないとやっていけない商売なのだろうか。きらきらと輝く瞳をちらちらこちらに向けるサレスを見ていると、いつかはちゃんと話さなければならないと、そういう気分にはなるのだが。

 なんと説明すればすとんと理解してもらえるか、まったく思いつかない。

 だからたぶん一生真相を話す機会は来ないだろうと、僕はそう考えている。


 だから、僕はたぶん、一生。

 この責任を、ひとりで背負い続けていこうと。そう、考えている。

 



 魔王を倒した直後、いくらかける四したとはいってもさすがに気力と体力を使い果たした僕は、そのまま死んだように眠り込んでしまった。

 そうして目が覚めた場所は、会議室。


 それまでがどうだったかは忘れた。異世界での僕の体の変化が、天国、会議室での僕の体に、フィードバックされていたかどうか――それまでのことは忘れたが、

 そのときの僕の手は、魔王の左胸を刺したときの血で、真っ黒に染まっていた。

 ありがたいだと思った。


 紅本はホワイトボードの前に置かれた椅子に座っていた。

 椅子の上で体を縮めた、体育座り。


 見ていてくれたのだと信じて、その背中に、小さく声をかける。


「……僕は、あいつのことが嫌いでした。憎かった」


 あまり多くを語る必要はない。というか語ってはいけない。

 いろいろあったので忘れそうになるが、基本的に僕らは他人なのだ。


「それでも、あんまり、いい気分じゃなかった。……人間を、殺すのは」

 

 友人でも恋人でもない。ただ一日だけ接点があっただけの、他人。

 だから、贈る言葉はシンプルでいい。


「嫌な気分になっただろうと、思います。……本当に、大変だったろうな、って」


 紅本は何も言わない。


「でも、少なくとも、僕は……あなたに、感謝しています。とても」


 こちらを振り返ろうともせず、聞いている。



、ありがとうございました」



 この一言で止めることにした。

 言いたいことはいくらでもあった。感謝の言葉はいくらでも出てきた。

 でも、ぐだぐだ言葉を重ねるより、ここで切ったほうがいいと思った。


 灰の山が風に吹かれて散っていくように――

 紅本の体は、少しずつ薄く、透けていって、そして――消えた。


「戻ったんでしょうか」

「……たぶんね」


 窓際で黙って立っていたエビルが、それを見送ってから歩み寄ってくる。

 しばらくの間沈黙があった。

 何か言おうと口を開いて、閉じて、もごもごと、また開く。

 やがて神は、短く、二言だけ――


「ありがとう。すまなかった」


 その二言だけを神は言った。

 その二言のどちらを先に言うか、悩んでいたようだった。




 あの後、紅本がどうなったのかは、実のところ僕にもわからない。

 だから僕は今でも警戒を続けている。今でも待っている。


「……私も、実を言えば、感謝してる」

「へっ?」


 唐突にサレスが切り出した言葉に、テーブルに戻った僕は紅茶のカップを半端に上げて止まった。


「ユースは、たぶん……死ぬつもりだったんだと、思うから」

「……」

「ユースは、とても強い。そして、自分でそれを自覚している。それがずっと負い目になっていた。母と、妹を守れなかったことを、ずっと」


 エリス様も、この香りが好きだった――はるか過去へと記憶を飛ばして、彼女は、静かに言葉を続けた。


「……自分にもどうにもならないくらい、強大な敵が相手なら。負けてもしょうがない相手なら。何の責任も感じることなく、楽になれるって。たぶん、あの男はそう思ってた」

「……その気持ちは、少し、わかります」


 自分にはどうにもできなかった、だから自分に罪はないのだ。そう言いたい気持ちは、とてもよくわかるし――罪を背負った人間が、往々にして、それを自死によって償おうと試みることも。今となっては、よくわかっていた。

 でも――僕はそれでも、紅本に生きていてほしいと思った。

 だから、ユースが助かったことも、喜ぶべきことだと思う。


 という思考をサレスがどこまで察しているのかは知らないが。

 白いドレス姿の彼女は、ここに至って改めて、僕に頭を下げた。


「兄を、助けてくれて。ありがとう」

「いえ、そんな……」




「兄?」

「のようなもの、というのが後に続くけど」



 さて。

 ぽかんと大口を開ける僕に、「前にも言ったような気がするけど」とサレスが解説したところによると。

 カイロス王国というのは、もともとはクロノスとカイロス、二柱の神を信仰していた王国。それはつまり、クロノスを信仰する家とカイロスを信仰する家のふたつがあったということで、そしてその二家が交互に王権を握っていたということで。

 でも、かつて魔王を封じた勇者が現れて以降は、カイロスが国の柱になった。

 カイロスを信仰する家が絶えず王位につくようになり、クロノスの家は次点に墜ちる。といってもかつての王家である以上、その威光は決して消え去ったわけではない。つまり――


「ざっくり言うなら、ナンバーツー」

「なるほど……」


 今の時代、継承権とかその手の話はまあ微妙なところだが――

 ユースとは兄妹だとサレスは軽い調子で言った。

 妹と違ってあまりユースとは、幼いころから本当にそのくらいの距離感で接していたのだと。


「まあ、今となっては世の中がこの有様だから。私も、いろいろ面倒な話に巻き込まれることが予測される」

「面倒な話ですか」

「例を挙げるなら、結婚相手。すでに面倒な縁談がいくつか来ている」


 二番手とはいえ王家は王家、しかも今はこの人手不足、国土復興の真っ最中。いろんな思惑が裏にあるのだとため息をついて語りながら、サレスは手に取ったピンク色の薬瓶のふたを開け、ちっとも飲んでいなかった僕の紅茶のカップに中の液体を垂らした。


「たとえば、世界を救った勇者なんかを夫に迎えることができれば、それは王家にとってこの上ない獲得になるだろうと思われる」

「ああ、なるほど……」


「なるほど?」


 ふと、僕はサレスが手元に並べている無数の薬瓶を見た。

 一本、見覚えのある色があった。水色の瓶。眠り薬だ。

 中身が減っている。

 なぜ――と考えて、気づいた。

 水色だけではない。他にもいくつか、中身が減っている瓶がある。


「……」

「……」


 そういえば、僕はいまだにこの紅茶をひとくちも飲んでいない……。


「……あのう」

「なに?」

「眠り薬……あるじゃないですか。水色の。なんに使うって言ってましたっけ?」

「気に入らない相手に飲ませていたずらをしたり、気に入った相手に飲ませてイタズラをしたりする」


「…………」

「…………」




 ――――そんな修羅場がありつつも。僕は、いまだに警戒を続けている。


 いつかまた、五人目の僕だとか、二人目の泥藤だとか――紅本だとかが。この異世界に、転生してくるのではないかと。

 もしそんなことになったら即座に保護しなくてはならないと、僕は、いつの間にか出来上がっていた王家とのコネを使って、異世界中に目を光らせている。


 でも、今のところ、転生者らしき人物が現れたという報告は、ない。


 毎日、毎日、今日も異常はありませんでしたという報告を耳にして――

 今日も大丈夫だったかと。安心して、僕は眠りにつく。

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