第39話 泥より出でて泥に染まらず―③
落ちてくる黒い太陽を大輪の蓮は完璧に受け止めきった。熱した鉄を油の中に放り込んだような甲高い音を立てながら、黒炎ははじけて消えていく。
役目を果たした蓮はバラバラにほどけて散って舞い落ちる。
魔王の邪悪さを象徴するかのごとく赤黒く濁った空から、
雪のように、蓮の花弁が舞い散る――
「……なんだよ、それは。なんだ? 蓮? 蓮川だから蓮出すか。んだそれ」
憎まれ口を叩きながらも、泥藤は警戒しているようだった。
『蓮川だから蓮』に関しては、まあ、僕も同意する。
「コード:ロータス」
あらためて呟き、折れた剣の柄を掲げる。刃の根本から生えていた蓮のつぼみ、丸く重なった花びらの隙間から白い光が漏れ出して、花がゆっくりと開いていく。
竹を切ったら中に光る女の子が入っていたように、
つぼみが開いたその中では、折れてわずかに残った刃の断面が黄金色に輝く。
花びらが開くのに合わせて、黄金の刃がぐんぐんと伸びていく。
やがて満開となった蓮の花が光の粒子になって散ると同時に、刀身を覆う黄金の光も夢のようにかき消えて――
折られ、砕かれ、死んだはずの魔法剣は、今、元通り――再生した。
泥藤が眉をひそめ、サレスがあんぐりと口を開け、ユースが思わず身を起こそうとして傷の痛みに崩れ落ちる中。僕が話しかけた相手は、その誰でもない。
「ねえ」
『……』
しばらく答えは返ってこなくて、次に口を開いたのは、ユース。この剣の元持ち主である彼は、血の気の失せた白い唇を震わせて、信じがたいと語る。
「あの剣の銘は、ロータス。剣が自分でそう言った。……剣が、自分でその名を伝えた相手以外に……
それなのに、俺が使うより、ずっと――出力が高い、とでも言いかけたのか知らないが、ユースの言葉は吐血して止まった。慌ててサレスが体を支えるが、彼女も不思議そうにちらちらと僕を見ている。
そして、どうやら魔法剣には銘という概念があるらしいと今新たに知った僕は、改めて。
手の中の彼に、聞いてみた。
「
『…………銘を教えてくれって、言われたとき』
頭の中に響く剣の声は、僕とまったく同じ声をしている。
頭の中にもうひとりの自分がいて、それと話をしているような感覚。
とても不思議なその感覚に、僕は――
『……とっさに、思い付かなかった……』
「……なるほどなあ」
さんざん言ってきたけれど、僕も神様のネーミングセンスを笑えないな、と。
こんな非常事態だというのに、僕はほんの少しだけ、笑った。
ばきゃん、と硬い音がして、握っていた刀が粉々になった。
まっすぐ突き出した泥藤の指先から硝煙のような煙がたなびいている。
静かな殺意を瞳に宿らせている泥藤をしばらく見つめて、それから僕はさっきと同じように、また刀を再生した。
「手品が得意か? 教室じゃあ見たこともなかった」
「今さっき覚えたばっかだよ」
プラスチックバットを振り回すように、僕は無造作に刀を振るう。
四番バッターのホームラン予告みたいに、切っ先を――泥藤、ではなく。
さっき泥藤が無造作に放り捨てたまま放置されていた、白竜の死骸へと向ける。
この場の全員、泥藤すらも、そちらに視線を奪われた。
白竜の体をすっぽりと包みこんでしまうほどに巨大なつぼみ――蓮のつぼみが、大地に突き立つ。
やはり、内部からまばゆいばかりの白光を漏れ出させるその蓮が――
ゆっくり開花していくのに合わせて、竜が、長い首を持ち上げる。
満開と同時に白竜は吠えた。
さっきまで死んでいたその翼を一度力強く羽ばたかせ、広場のあちこちで燃え続ける黒い残り火をすべて風圧でかき消して、その琥珀色の瞳で泥藤をにらみつけながら咆哮した。
血のような赤い空に雷雲。
蘇った竜の叫びに呼応して、黒雲の中で稲妻が渦巻く。
「……うそ。うそ! あれは絶対、死んでた。……死んでたのに!」
傷ついたユースを地面に投げ出して「ぐえっ」サレスが身を乗り出したところを見る限り、たぶんこの世界には死者を蘇生する術なんてのはないのだろう。
泥藤は機嫌の悪そうな顔をしていた。
人を殺すときですらへらへらと軽薄に笑っていたこの男が。
「なあ、蓮川」
「……なにかな」
「なんだ、おまえは?」
泥藤が、僕の目をここまでまっすぐに見据えて言ったのは。
僕を、ひとりの人間として見たのは。
現世と異世界ひっくるめても、これが初めてだった気がする。
スライム、魔法剣、ドラゴン――他の三人は最期の瞬間、現世に完全に絶望しきって、生まれてこなければよかったと考えた。
そもそも、蓮川創というのはそういう人間であるはずだった。神が定めた"転生救済システム"、その模範的対象者。典型例であるはずだった。
ミスフォーちゃんが不幸と記録し、リンカネくんが転生を認めた。そんな蓮川創という人間が死んだなら、そのとき蓮川は必ず現世に生まれたことを悔やみ、こんな世界に生まれてきたくはなかったと嘆くはずだった。
実際、前三人はそうだった。
けれど、最後のこの僕だけは、死の瞬間『もっと生きたい』と望んだ。
やや陰のある歳上のお姉さんにある日突然遊園地に誘われ、しばらく楽しく遊んだ後で、自分の悩みを聞いてもらって、そして慰めてもらった。
なんだかんだで僕も健全な青少年だったからだろうか。
単純なものだと自分で思うが――たった一日、そんなことがあっただけで。
人生も、案外悪くない――そんなことを考えてしまった。
紅本都には変えられなかった。人が死ぬという結果は変えられなかった。
でも、彼女の行動は変えた。
僕という人間を変えていた。
ただただ世界と運命を恨んで不幸に死ぬはずだった蓮川という人間の人生にも、
ちょっと歯車の噛み合いがズレれば、それだけで「生きるのも悪くない」と前を向いて生きていける可能性があった。
その可能性を紅本は証明した。
現世でずっと不幸だった人間に、今度こそ幸せになってもらうため。そのために必要となる力を、神は転生者へと与える。転生者が欲する力を、欲するままに、そのまま与える。
では、僕に与えられる力は?
『生まれてきたくなかったと望んだ』という根本条件からまず外れて、リンカネくんのエラーを引き起こして、それでも事態の調査のためにと無理やり転生させられた僕から、転生救済システムはいったいどんな願望を汲み取った?
救済システムが叶えてくれた僕の願望とは――なにか?
そんなものは決まっている。竜も、スライムも、魔法剣も。みんな死に際に何を考えたかが転生先のベースとなっている。
僕は、死に際になにを考えた?
死にたくないと望んだからには、能力もそうなるに決まっている。
「
たとえそれ以外の可能性がすべてカスのような不幸さだとしても、
たとえ、無数の可能性の中のたった一本に過ぎないとしても。
「僕という可能性が、この世に存在する限り!」
それでも、僕は前を向けたのだという事実が、そこにあるだけで――
「『蓮川創』は――絶対に、死なない!!」
何度だろうと再生する。
何度
何度不幸な死を迎えようと、
我らは幸福にもなり得たのだという
何度だろうと、
スライム、ドラゴン、魔法剣――
死んでしまった他の僕を、僕は生き返らせることができる。
そのままの姿で即座に転生させることができる。
「なるほど。ぜんぜん聞く気しなかった!」
という説明を泥藤はまったく聞いていなかった。ぱちぱちと気のない拍手をこちらに送って、でもいつものようにヘラヘラしているのかというとそうではなく、目には明確な殺気がこもっている。
でも僕のほうだってもう泥藤のことなんか気にしちゃいない。
金魚を飼っているようなものだと神はたとえた。人間は魚だ。
つまり、僕もその中の一匹。
今、この場には僕とよく似た複数の魚が同時に存在して、
僕だけ、ちょっと色が違う。
それは、これから戦いに臨む自分を奮い立たせる言葉――
「――ぼくが目になろう」
小さく呟いて刀を振り上げた。
「僕の名の下に、僕が集う。――蓮川創の名の下に!」
叫ぶのなんて慣れてないのに、精いっぱい張り上げた声。
僕を支えるように竜が吠え、それで改めて深く息を吸い込んだ。
「集え、すべての蓮川創!!」
そりゃまあ本当に来たらかっこいいなと思いはしたものの、正直なところを言えばこれは自分自身を鼓舞する台詞であって、そこまで期待していたわけではなかった。
なかったのに、なぜか来た。
どこか近くに隠れていたのだろうか。蓮の花を見て飛んできたのだろうか。
どんな勇敢な冒険をしてきたのかは、わからないのだが――
「わ、わっ、わっ、ちょ、ちょっと! すら……すらいむ、さん! きゃあっ」
水のたっぷり詰まったゴムボールが跳ねるような気の抜けた音を、荒野にぼよんぼよんと響かせて――薄桃色、バランスボール大の水のかたまりが、崩れた建物、炎の陰から、バウンドしながらやってきた。
その背中にはなぜかメリルが必死の形相でしがみついていた(どういう理屈で水のかたまりにしがみつけているのだろう?)が、バランスボールにしてはやりすぎなほど高く跳ねるスライムは容赦なくお姫様を振り落としてしまった。それでも一応サレスの隣に投げ出したのはせめてもの温情と言えなくもない……かもしれない。
僕の隣へと転がり込んできたスライムは、なにやら体をねじり上げると(そう見える)その場でぴょんぴょん飛び跳ねてみせた。なんらかの意思表示であるのは間違いない。けれどいかんせん言葉がしゃべれない。
本当にただの着色水でしかないその姿――これが最初の僕の行き着いた果てだと理解した上で見ると、何かシュールな気分にすらなる……が。
手の中の魔法剣を見る。
十メートルをゆうに越える高度からこちらを見下ろしている竜の頭を見上げる。
それから、改めてスライムを見る。
最後に、自分の体を見る。
これが全部同じ人間なのだと、
全部、蓮川創というひとりの人間から派生したのだと思うと――
これから魔王と戦うというのに、まず僕はこみ上げる笑いをかみ殺すので手いっぱいになった。
しびれを切らした泥藤が、腹立たしげに足元の瓦礫を蹴る。
「……おまえが笑ってんの見るとよぉ、無償に腹立つよな。何がそんなに楽しい? わかんねえ」
「わかんなくても、別にいいよ」
たぶん泥藤にはどう話しても一生理解できないと思った。
三栖は、助けてくれなかった。
根来は、話すらしてくれなかった。
両親も、何もしてくれなかった。
それでも、この世にたったひとりだけ、助けようとしてくれた人がいた。
「僕は、絶対負けないってことだけ。それだけわかってれば」
「だからね、なんで負けないのかがわかんないっつってんですけど?」
「なんでかぁ。なんでかな……なんでかというと……」
できうるかぎり噛み砕いて説明しようとするとどうなるか考えて、思い付いた文面に思わず苦笑してしまった。だって――
こんな台詞を、文字通りの意味で口にする日が来るなんて、
生きていたころはまったく考えたことすらなかったわけだから。
「僕は、ひとりじゃないから、かな」
現世と異世界、ふたつの世界にまたがって続いた泥藤との因縁。
決着をつけるときがついに来た。
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