第38話 泥より出でて泥に染まらず―②
「くっ、そ……!」
瓦礫を跳ねのけて立ち上がったつもりだったのだが、実際に僕が跳ねのけたのは椅子だった。ここは会議室。また気絶したのか、畜生と床を打って立ち上がると――
窓際にもたれかかって腕を組んでいるエビルは、メガネを外していた。
それどころか白衣を脱いでいた。黒い、薄手のインナーがあらわになっていた。
夏場のやり手サラリーマンがスーツの上着をそうするみたいに、脱いだ白衣を肩にかけている。
「ご苦労だった。本当に」
しばらく瞑目していたエビルが、ゆっくりと体を起こす。
潮時だ――と、そう言った。
「……なんですか、潮時って。メガネは。どうしたんですかその格好」
「責任を、取ることにした。本気モード解放ってやつかな」
「なんの責任です」
「創った責任」
その後、エビルは小さく言い換えた。
最後まで面倒を見る責任、と。
「どっちの世界も、いったん、ぶっ壊す。それでもう一回創り直すか……それか、壊してそれっきりか。どっちにしても、もう、壊す。決めたよ」
魔王はあたしが処分するよと言い捨てて、すたすたと歩きだす。
そのむき出しの肩を必死に掴んだ。
「何を言ってるんですか?」
「決めたよ」
「神が直接下界に降りると、世界がぶっ壊れるって、さっき」
「だから、壊すって言ってんだろう」
「――何を言ってるんですか!?」
肩に置いた手が振り払われて、驚くほど冷たい薄青の瞳がまっすぐ僕を見た。
こんなときだけ神様らしい目をしないでほしいと思った。
それでも、ここで目をそらしてはいけないと、僕は息を呑んで耐え――
結局、エビルのほうが、どこか遠くを見るように視線を外した。
「……あたしはさ、面白くなればいいなって思ったんだ。『こんな世界に生まれてきたくはなかった』って、何度も、何度も言われて。それが本当に嫌で。だから、もっと面白おかしい世界が、あればいいなと思って……創った」
許してほしかった、と消え入りそうな声で神は付け足した。
企画段階では、楽しかった。
転生者にはボーナスとしてとても強い力を与えよう。それで普通は倒せないような強い魔物も倒してしまって、成り上がるのだ。ドラゴンなんてどうだろう。異世界の住人ではとても倒せないような強い黒竜を、転生者があっさりと倒してしまう。そうして、転生者はヒーローになるのだ。
かつての不幸な魂が、そのくらい幸せになれたなら――
そのときは、許してもらえるだろうか。
現世という地獄に人間を放り込んでしまった神の、つまりそれは償いだった。
「……そんなことばっか考えてるからさあ。異世界にも、ちゃんと、その世界で生きてる人間ってのがいて。理不尽に強い黒竜に、殺される人ってのも当然いて。家族をそれで失う人ってのも、当たり前にいるんだってことが……頭から、抜け落ちてるわけだよ。……馬鹿みたいだろ? 笑うか殴るかしてくれていいよ」
そんな思いから創った異世界にも、今、悲しみの嵐が吹き荒れる。
この神はけじめをつける気だ。
「あたしみたいなのが世界なんか創ろうとしたのが間違いだった。無責任に手をつけていいことじゃなかった。……清算は、するから」
勝手なことを言うなと思った。けど、もはや状況はそう言ったところでどうにもならないのだと気づいて、拳を握るだけにとどめた。
竜は死んだ。魔法剣は折れた。スライムに何ができるとも思えなくて、竜殺しの英雄はもうズタボロ。頼みの綱の
異世界は、もう終わるのか?
そして、異世界が滅びゆく様をまざまざと見せつけられた紅本は、よりいっそう罪悪感を強め――能力を制御することはできず。連鎖で、現世も終わるのか?
冗談じゃない。
冗談じゃないが、これが、目の前にある――現実か?
泥藤のひとり勝ちという現実をどうにかするためには、もはや『すべて叩き潰して消毒する』――それ以外に、もう何もないのか?
焦燥感に駆られた僕は、意味もなく部屋の中を歩き回る。質のいい絨毯を乱雑に踏み荒らして、テーブルの周囲を旋回する。
リンカネくんのキャタピラを蹴っ飛ばしてしまって躓いた。
舌打ちをしてディスプレイを殴りつけると、画面に光がともった。表示されていたのは、おなじみの――
――――――――――――――――――――――――――――――
【転生ログ@リンカネくんver1.03】
転生先 転生者名 転生時刻
1. スライム / 蓮川 創 2017/04/12 3:22:51
2. 魔法剣 / 蓮川 創 2017/04/12 3:22:51
3. ドラゴン / 蓮川 創 2017/04/12 3:22:51
4. 魔王 / 泥藤 省吾 2017/04/12 3:22:51
5. ---- / 蓮川 創 【ERROR】2017/04/12 3:22:51
6. ---- / 紅本 都 【ERROR】2017/04/12 3:22:51
――――――――――――――――――――――――――――――
この画面をじっと眺めているうちに、頭が冷えた。
ディスプレイに叩きつけたままのこわばった手から、力が抜けていくのを感じる。
『現世で不幸な死を迎えた人間は、異世界に転生する』――――
「あなたの言う、『不幸な死を迎えた人間』、その定義は……」
そっと視線を向ける先で、エビルは目を伏せていた。
「死に際に、『生まれてこなければよかった』と考えた人間」
「そうだよ」
消え入りそうな声での、肯定。
その声に重ねて、僕は聞いた。
「あなたから見て、僕は……不幸な人生を送って、不幸な死を遂げたように。そう、見えましたか?」
「あたしだけは、そこから逃げちゃいけない」
エビルは半端な答え方をした。その答え方がつまり答えだった。
「あんたを、理不尽な運命の中に放り込んだのは、あたしなんだから。あたしだけは……あんたのことを、不幸だって言わなきゃならない。言って、受け止めなきゃならない。……悪かったよ、本当に」
「わかりました」
――さて。
必死に押し隠してはいたけれど、そろそろ眠気が限界だ。気絶はほんの短い時間、僕はもうすぐ異世界で目覚めることになる。
でも、その前に。
どうしても、これだけは言っておかなければならないことがあった。
「――神様」
「なんだい」
「もう少し、もう少しだけでいい。せいぜい、僕が死ぬまでの間でいいですから……壊すのは、もう少し、待ってください」
「……いいんだよ、もう。無理は、しなくて」
「いえ。お願いですから」
「でも、これ以上は……」
「受け止めなきゃならないって言うなら、受け止めてください。最後まで」
渾身の力を振り絞って出した、めいっぱいのきっぱりした声に、エビルは黙った。
その隙に、もう一言だけ。
「あと、……ずっと、思ってたんですけど」
「……?」
「謝るの、やめてください」
そこで限界を迎えた僕は顔面から絨毯に倒れ伏してしまった。
だから、エビルが最後にどんな顔をしていたのかは、わからないままだ。
* * *
妙に息苦しく感じながら目を開けたところ、僕は泥藤に胸ぐらを掴みあげられていた。そして持ち上げられていた。にやついた泥藤の顔が少し下に見える。
「おはよう、蓮川」
直後、泥藤のその手が小爆発を起こし、僕は吹っ飛ばされる。顎に感じた強烈な熱にうめき声を上げる暇すらなく、背中をざりざりと擦りながら荒れた地面の上を滑っていく。
咳き込みながら身を起こす僕に追撃を気にする余裕はなかったが、泥藤は余裕しゃくしゃくの笑みとともに下卑た声を上げるだけだ。
「いや、思えば遠くに来たからさあ……殺すのは別に一瞬だけどよ、一瞬すぎて楽しくないな。いざ殺したいやつに出会ってみると」
視界の端で、気を失ったユースを支えるサレスが見えた。本当に気を失っただけなのか死んでいるのかの判断は、まだつけない。
「で、蓮川。あの女は? どこ?」
「……知る、かよ」
「はっは反抗的な口調。なに? おまえの彼女とかじゃねえの?」
まあいいやと泥藤は腕を組んだ。
「俺はね、やっぱわかったよ。価値のない人間ってのは死んで当然なわけ。んで死ぬとこっちの世界に来る。だから三栖と笛木もどっかにいるだろうと思うんだけど……おまえ、知らない?」
知らないというが泥藤の理屈はそもそも出だしから間違っている。三栖と笛木の姿がないのは、たぶん彼らが「生まれてこなければよかった」とまでは思わなかったからだ。「まだ死にたくない」とでも望んだ、神基準だと不幸ではない死者。その場合どう処理されるのかは知らないが、とにかくふたりは来ていない。
「まあ、どうでもいいんだけど。なんかおまえ見たら全部どうでもよくなった」
本当にどうでもよさそうに泥藤は言った。
『殺しそこなったやつがふたりいる』『どうしても殺らなきゃ気が済まない』――そんな台詞を吐いていたのが嘘のように、楽しそうに笑っている。
この会話、傍で聞いているサレスにはまったく意味がわからないだろうなと、そんなことを考えた。
「素でゴミなのは根来だけどよ。でもな、ゴミの根来を頼まれもしねえのに庇って、そのせいで三栖にも愛想つかされて、結局自分もいじめられるようになって、んで根来のほうはひとりで逃げたわけだ。おまえ不登校になってんのにな」
ずびしと僕を指さして、魔王の低い声で宣告する。
「誰が一番ゴミかって、おまえだよ。おまえが一番クソみてえなことしてるよ。一番ヘタクソなことやってる。一番、生きる価値がない!」
「そうかも、しれない」
そう答えてから、ようやく僕は気づいた。
自分が、折れた魔法剣の柄を、気絶している間から、ずっと――
ずっと、握りしめていたことに。
「よーく、認められました。ここまで来るの長かったねーえらいえらい」
泥藤は人差し指と中指で銃の形を作ると、その指先にピンポン玉ほどの炎の球を灯らせた。黒い稲妻が絶えず表面でほとばしっている、
狙いをつけるように片目を閉じ、数秒、やっぱり閉じた目を開いて、
小首をかしげて、わざとらしいウインクをひとつ、僕に飛ばした。
「えらいついでに、腐れ縁ついで。なるべく楽に死なせてあげよう」
ばん、という
着弾までたぶん一秒もない。
それでも僕は、
口の中で、小さく、
しびれた腕に血が通うようなじわりとした温かさがあって、
僕の目の前で展開された、薄桃色の光の壁が――炎弾を、遮った。
「は?」
遮ったとはいっても、壁の真裏にいた僕には全身まんべんなく殴られたような圧力があって、こらえきれずにのけぞってしまう。
でも踏みとどまって耐える。
瓦礫と砂利に靴底をすり減らしながら、ゆうに三メートルは後ずさりながら、それでも、必死に、立ち続ける。
泥藤はぽかんと口を開けて間抜け面を晒していたが、
「……どういう、ことだ?」
これは泥藤ではなく、サレスに抱えられたユースが苦しそうに呟いた台詞である。
喋れる程度には生きていたことに安堵して、けれど僕が答える言葉は、その問いに対しての答えではない。
「あるかないかで言ったら、たぶん、僕に価値なんかないんだと思う……でも」
「でも、かばってくれた人がいたんだ」
たぶん、泥藤にこんなことを言っても、あいつは絶対に理解できないだろうと。
そう内心で感づいてはいながらも、僕はただただ独白を続けた。
襲われている人を助ける義務、親を失望させない義務。
その場に居合わせたというだけで、責任というものは発生する。
生まれてきたというだけで、必ず、責任は発生する。
なにもかも責任で雁字搦めで、生きていたころ、僕はよく考えた。
こんなことなら生まれてこないほうがよかったと、何度も考えた。
「嫌だよ。嫌に決まってるんだよ、人助けなんか。助けるのもしんどいし、助けられなかったら自分の責任だし、誰だってそんなの嫌なんだよ……」
二十年にも満たない僕の人生は、おおむね最悪だった。
でも――
抵抗もできずボロ雑巾のように殺された最初の僕は、自分に価値なんかないと思った。
逃げろと言われてわけもわからず混乱したまま殺された二番目の僕は、すべてが憎くてしょうがなかった。
知らない女に手を引かれて逃げ出した先で殺された三番目の僕は、自分にもっと力があれば何もかもうまく行くんじゃないかと考えた。
十八年の人生のうち、最後の一日に何があったか。
それが少し変化しただけで、こんなにもたくさんの分岐が生まれる。
最後の一日何があったか。そこが少し変わるだけで、死に際に何を考えたかというのもずいぶん変化するらしい。
では、今この場に存在する――最後の僕は、何を考えた?
すべての真相が明らかになって、すべての記憶を僕は取り戻した。
僕は、あのときなんと言っただろう。
『転生候補者:蓮川創。あなたは――こんな世界には、生まれてこないほうがよかったと。そう、最期に考えたことが、ありますか?』
五回目の四月十二日、この僕が会議室を訪れたとき。
油が切れたような、妙にぎこちない動作で、リンカネくんは聞いてきた。
この問いに、僕はなんと答えただろう。
『そう、ですね……。その、よく考えてました。こんな世界に生まれてきたくなんかなかったって。毎日。家で、しょっちゅう……』
そう答えた沈黙の後に、僕は、なんと付け加えただろう?
『……でも、まあ、正直言うと』
『もうちょっとだけ……生きてみたいかなって、思ってたとこは、あります』
その台詞を言い終えた瞬間に、リンカネくんのディスプレイは火を噴いた。
「……したくないんだよ、人助けなんて。でも、でも、そのせいで……そのせいで、もうちょっと、生きててもいいかなって! そう、思ってしまった!!」
遊園地でしばらく話したあのとき。『被害者を助けずに強盗から逃げるのは悪いことか』と紅本が切り出したあのとき。
唐突にそんな話を始めたものだから。
僕自身にも、
もしや、この人にもそういう悩みがあるのかと、親近感を抱いてしまった。
だから、ほとんど赤の他人と一緒に遊園地にいるという奇特なシチュエーションも手伝って、僕は自分の身の上話を洗いざらいぶちまけてしまったのだ。
そしたら――
『……大変、だったね。今まで』
深い意味なんかなかったかもしれない。
ただ適当に言うだけ言った安い慰めの言葉かもしれない。
でも、これが初めてだった。
僕の取った行動を、きちんと認めた上で、ねぎらいの言葉までかけてくれる――
そんなことをしてくれた人間は、紅本以外、いなかった。
我ながら単純なものだと思うが。
紅本というひとりの人間の暖かさに触れた最後の僕は、
もう少し生きていたかった、と。
生きるのも、案外悪くなかったのかもしれないと、最期にそう考えた。
そんな独白だったのだが、泥藤はまったく聞いちゃいなかった。
「……ああ、なに? おまえもそういうの使えたんだ? そういうのもらってたか、おまえも」
大げさに肩をすくめて言ってからノータイムで火球を三つ生成する。
この光景を神は見ているだろうか。
受け止めなきゃならないと言ったからには、見ていてくれなくては困る。
聞いていてくれなくては、困る。
「――謝ってほしいわけじゃない」
「『生まれてきたくなかった』って、『産んでくれなんて頼んでない』って。そういうことを言うのは、別に、謝ってほしいからじゃない。だって……」
一球、二球と炎を受け止め、三球目で壁が割れた。僕も後ろにひっくり返る。
土の混じった唾を吐いて、僕はまっすぐ前を向く。
「産んで悪かったって、
生みの親に泣かれたら、もうどうやったって失敗作じゃないか。
リカバリー不能の失敗作じゃないか。
そんな失敗作を、ボロボロになるまで駆けずり回って助けようとした彼女が、バカみたいじゃないか。
おまえの人生はゴミのようだったと、神までもが認めてしまったら。
ゴミを助けるために身を削った紅本を、誰も救えなくなってしまう――
「はい、演説ご苦労さん。なに言ってるかひとつもわかりませんでした」
泥藤の頭上に黒い太陽。ここにいても前髪の先が焦げるのを感じる。
その熱気も、黒い瘴気も、全部ひっくるめて飲み込んでしまうように――
大きく息を吸う。
右手に握った
折れた刃の根元から、刃の代わりに、蓮のつぼみが生えてきた。
「コード――――――――」
落ちてくる太陽に向かって、吠える。
「――――――:ロータス!!」
大輪の蓮の花が咲いた。
魔王によって破壊の限りを尽くされた荒れ果てた広場を――
幾重にも重なった薄桃色の巨大な花びらが覆った。
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