第37話 泥より出でて泥に染まらず―①


 目が覚めると、そこは地下神殿――風の気配がないから、たぶん地下だ。

 広く正方形に切られた地下空間。白く塗られたなめらかな壁、天井は高く、十メートルはある。その天井を支えるバカ長い円柱がいくつも等間隔で並んでいて、

 奥には、天に向かって手を伸ばす――女神像が屹立していた。

 噴水で見た像と同じ造形、しかしサイズがだいぶ違う。伸ばした手が天井に届きそうなほどこちらの像は大きくて、

 その手の中に握られているのは、六角形にカットされた、白い宝石。


「……急に寝たから。勝手に、連れてきた」


 宝石はひとりでに宙に浮いた。女神の手を離れて、羽根がひらひらと舞うようにゆっくりと、僕のもとへと降ってくる。

 大理石の床に横たわっていた僕がどうにか体を起こすと、隣のサレスは握った杖を紫色に光らせていた。

 見るからに神殿。白い宝石。

 つまり、あれが時の巻き戻しコード:カイロスのキーストーンというわけで。


「ふつうの魔導士には、触れることすら許されないもの。でも、あなたならきっと、これを扱えると信じてる」


 きっ、と唇を引き結んで、強い意志のこもった瞳を僕に向け、

 信じてる。

 その言葉は、サレスが使うにはなんだか台詞な気がして、

 これが最後の切り札なのだと、

 これでダメなら後がないのだと、ひしひしと感じさせられる。


 杖がこつんと地面を突くと、さあ手に取れと言わんばかりに、

 石は、僕の目の前で止まった。

 これを使って、魔王の出現より前に時間を巻き戻す。

 それが、世界の滅亡を食い止める最後の手段――なのだが。だが。


 当然、異世界でコード:カイロスを使っても戻るのは異世界の時間だけ。

 泥藤が死んだのは十五日、僕が死んだのは十六日。それより前の日付の異世界には、僕らはそもそも存在しない。が、現世は現世でフリーズ中。

 どこにも戻る場所がない。

 十五日より前に戻ったら、僕らはいったいどうなるのか?

 消えてなくなってしまうのだろうかと考えて、うすら寒くなった。

 全能でない神が作った、不安定極まりない足場の上――そこにかろうじて立っているのが、今の僕という存在だ。


 でも、それならそれで魔王退治にはなるかと僕は腹をくくって、

 ゆっくりと右手を伸ばし、宙に浮くキーストーンを握りしめ――




 ――手元でダイナマイトが炸裂したような衝撃があって、僕は弾き飛ばされた。

 心配はすべて杞憂に終わった。

 神殿の柱に背中から叩きつけられ、つぶれたカエルみたくなって床に転げ落ちた僕の姿に、サレスは絶望的な表情をした。


「……うそ」


 こんなことになるような気はしていた。

 プライマル・コード、コード:カイロス。その痕跡が僕の全身から匂い立つようだとサレスは言ったけど、それは別に、彼女が期待するようなことではなく――

 ただ単に、時間遡行コード:カイロスを発動させていた人間が近くにいただけ。

 騒動の真っただ中にいたから、その残滓がこびりついていたというだけで。

 原初の魔法なんて大層な力、僕に扱えるはずはないのだ――



 轟音とともに神殿が揺れた。


「……え。え!?」

「これは……」


 地震のように柱がぐらぐら揺れ、地下室で地震、どう考えてもまずい。

 が、この異世界にも地震があるのか?

 ぶつかった柱を慌てて振り返るが、まさか僕ひとりの体重で? 違う。じゃあまさか資格のない者が石に触れたから神の怒りに触れたとかそんな、

 とっさにあれこれ考えたのだがそんなことはどうでもよくて、

 天井に大きな亀裂が走った。


 がらがらと崩落する天井の瓦礫が女神像を直撃して、その右腕をへし折った。

 そこまで目にしたところで、サレスは僕の肩を抱き寄せて何事か呟くと杖で地面を殴りつける。青い魔法陣が足元に広がり、同時に視界が青く染まり――


 目を開けると、そこは地下ではない。

 赤黒く焼けた空の下に、僕とサレスのふたりは立っていた。

 そこここで炎のはじける音とその臭い。生物非生物を問わず、いろんなものが雑多に焼ける臭い。砂埃と煤を乗せて吹く戦場の風を頬に感じ――

 たぶん、噴水のあった広場に戻ってきたのだと、思う。

 あまり自信がないのは、広場にあったオブジェや建物が全部粉々になってしまっているから。それに加えて、もうひとつ。

 噴水があったはずの場所に、巨大な穴が開いていること。

 そこだけ四角く切り取ったような深く暗い穴が開いていて、穴の底にたまった瓦礫には、広場の石畳に混じって神殿の白い壁が――


「……真下にあったんですか!? 噴水の!?」

「頭、下げて!!」


 僕の疑問を押しつぶしながらサレスは僕を地面に押し倒した。

 ぶおん、と異様な音がした。

 なにかとても巨大なものが風を切る異様な音。


 僕を押さえつけるサレスの肩越しに空を見上げた僕が目にしたのは、

 赤く染まった空を背景に踊る、白い、竜の巨体――

 もはや爆発のような破壊音がした。

 すさまじい風圧に全身を押し出され、僕とサレスは地面を転がる。舞い上がる砂埃に咳き込んで、涙目で空を見上げた僕は、

 信じられないものを見た。

 

 

「はーっはっはっはァー! これが俺の魔法剣だ!」



 天高くを浮遊する魔王は、白竜の死体をその手に握っていた。

 五十メートルはある巨体を、尻尾の先あたりを握りしめて、振り回していた。

 積み木の城にぬいぐるみを投げつけて壊す悪ガキのように――

 モグラたたきでもするかのごとくやたらめったらあちらこちらを叩いて回る泥藤に、もはや逃げ場もなく僕らはただ身を固くして怯えているしかない。特撮のミニチュアセットみたいに軽々と壊されていく建物群、飛んでくる瓦礫、崩れる地面、そういったものから必死に逃げまどう。

 砂漠の砂嵐のように濃く舞い上がった砂埃の中、ギリギリ破壊されずに残っていた家屋を見つけ、その裏に身を隠した僕たちは――


「……おお。無事か!」


 同じように壁の裏へ滑り込んできたユースと合流した。


「いや、めちゃくちゃなことするね、あいつ。……俺にめちゃくちゃって言われんの、相当だぜ」

「あ……っ……」


 いつもの軽口に力がなかったことよりも、

 苦しそうに脇腹を押さえていたことよりも、

 押さえる右手の隙間から血がどくどくと流れ出していたことよりも、

 血まみれの左手がだらりと垂れ下がったまま動かないことよりも、


 その左手に握られた刀の切っ先が、折れているのが気になった。

 刀身の三分の一くらい――先端が、なくなってしまっている。


 血の混じった唾を吐き捨てて、どうだ、とユースは目で問うた。

 目を伏せ、黙り込んだサレスは、静かに首を横に振った。


 ユースは僕のほうをちらりと見て、それから――

 そうか、と言って少し笑って、砂嵐の空を見上げた。


「はーっはっはっはっはっはっ……飽きた。やりすぎだなさすがに」


 止みゆく地響きの音に重なって、魔王の高笑いが聞こえた。手にした白い竜の死体を無造作に放り捨てるシルエットが、黄色い砂煙に映る。

 その巨体が重い音とかすかな地震を起こして地に墜ちた瞬間、魔法の暴風が広場に吹き荒れ――砂嵐を一息に吹き払った。

「隠れてろ」と一言だけ告げて、ユースは壁の陰から出た。

 傷ついた身を、隠そうともせず更地になった大地に晒して。

 それでも、魔王と向かい合う。


「ちょっと遊んでみた」

「楽しかったか?」

「むなしい」

「だろうと思ったよ」


 天と地ほどの高度の差から、まるで友人同士のような短い会話を交わしたのち――

 どうでもよさそうに右手を突き出した魔王は、その手のひらから光線を放射した。

 動かない左腕を無理やりに動かして、ユースは吠える。石畳をえぐられ土がむき出しになった地面に刀を突き刺すと、巨大な虹色の壁が立ち上がった。

 真紅のレーザー砲が壁にぶつかって虹の表面を流れ落ちていく。あちこちへ飛び散った紅色の光は瓦礫に触れると黒い炎に化け、それが以前見た神の炎コード・プロメテウスの圧縮版なのだと理解する。

 壁の向こうからの息が詰まるような圧力、ユースは額に脂汗を浮かしていた。

 やがて光線ははじけて散ったが、同時に虹の壁も割れる。衝撃でユースは吹き飛ばされて、突き立てていた刀も回転しながら宙を舞い――


「それだ!」


 魔王がびしりと指さした瞬間、刀は空中で静止した。


「この剣、この剣。これが鬱陶しい。いや、強えか弱えかで言ったら弱えんだけど。どうにでもなるんだけど。なんか、無性に……」


 くるりと手のひらを裏返した泥藤は、五本の指に力を込めて、

 手の甲に筋を浮かして、ぎりぎりと、何かを握りしめるジェスチャーをする。


「腹立つ」


 がっ、とその拳が握られた直後、刀は根元からまっぷたつに折れた。


 柄と刃に分離してしまった刀はそれぞれ重力に従い落下して――

 トドメと言わんばかりに魔王が指を鳴らすと、刃のほうはもっと念入りに、

 粉々に砕け散ってしまった。


 きらめく鉄粉がふわりふわりと舞い落ちる中、ユースは残された柄を大儀そうに拾い上げる。そして、しばらくそれを耳元にあててから――


「……やってくれんなあ。黒竜に噛ませても折れなかったのによ」

「歯は丈夫なんだよな。昔からずっと」

「そうかいそうかい。付き合いは短いけどよ、これでも相棒だったんだぜ、俺の」

「文字通り短くなっちまったな?」

「違いねえ」


 諦めたようにため息をついて、ユースは柄を放り捨てた。

 それが、都合よく、隠れた壁の近くに転がってきたものだから。

 僕は柄をそっと拾い上げ、ユースがしたように耳をすませてみる。

 まったく、何も起こらない。

 なにか記憶が蘇ることもなければ、拒絶反応を起こしてぶっ飛ばされることもなく、もちろん剣の声が聞こえるなんてこともない。

 死んでしまったのだ。この剣も。

 竜と同じように、殺されてしまった。

 刃のない刀はずいぶん軽くて、その軽い柄を、手が痛くなるほど強く握りしめて、 僕は、震えた。


 現世でも、異世界でも。

 結局、蓮川ぼくは泥藤に殺されるのか?


 納得いくか。我慢がなるか。そんな運命を受け入れられるか。 

 刀に転生したこの蓮川は、攻撃性が前面に出た蓮川だ。

 残虐非道な行為に手を染め続けた泥藤を何様だと憎み、助けようとしなかった周囲の人間すらも同じように憎んだ。

 そんなぼくがもう一度泥藤に殺されるなんてこと、あっていいのか。

 ぼくだってそうだ。自分を、他人を守れるほど強くありたいと望んだぼくが、結局現世と同じように泥藤に殺されて納得できるか。


 それに、なにより、だって。

 だって、ここで泥藤に殺されるなんて、そんなこと我慢ならない。


 怒りを注ぎ込むように握った、手の中の、折れたぼくの柄が――

 ほんのりと、熱を持った気がした。


「で、蓮川は? いい加減出してくんない?」

「……そのハスカワってのが、まず誰かわかんねえんだけど」


 しびれを切らしたような魔王の言葉に、ユースは懐から小ぶりなナイフを出した。きっと魔法なんか何もかかっていない、貧弱なひと振り。

 泥藤もきょとんと目を丸くした。


「え、まだやんの。あれ抜きで? それで?」

「え、やんねえの?」


 ユースまできょとんとした顔を返したものだから、泥藤は――


「ははは」


 笑い出した。


「ははははは……」


 笑う泥藤の背後で一瞬光が渦巻いたかと思うと、渦はすぐに黒い球となる。

 そして黒い球はすぐに黒い太陽プロメテウスとなって熱波と衝撃波を撒き散らす。

 羽織った黒いマントの裾を、熱風にはためかせながら――高らかに、魔王は笑う。


「いや、面白い。面白いよ。こういう友達、蓮川も欲しかっただろうになあ……」


 とかなんとか言ってる間に熱と衝撃で隠れていた壁が崩れた。ぎょっとした表情を浮かべたサレスが対応策を打つより先に、僕は瓦礫の下敷きになる。

 いくら泥藤に憤ってみても、結局、この場においての僕は、何の力もない――

 雑魚だった。

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