第33話 そこにいたことの責任EXTREME⑤⑥


 遊びに行こうと紅本は思った。

 とにかくはしゃいでまわりたい気分だった。


「ここに遊園地のチケットがあります」

「……」

「二枚あります」

「……は、はあ」

「私、実は今彼氏がいなくて」

「……はい」

「行く相手が、いないんです。誰も。ちらっ。ちらっちらっ」

「……あ、あの」

「なんでしょう?」

「……あの、そこのコンビニの……店員さんですよね? バイトの」

「そーですよ」

?」

「それだけですね」



「あの、なんで僕……」

「それだけじゃ、ダメでしょうか?」

「え」

「ダメでしょうか? 本当に? ダメ?」

「え……えぇ……?」



 端的に言って現実逃避だった。

 だいたい何を言っても押し切れると前回前々回で学んだ紅本は、目覚めて早々チケットと宿の手配を済ませると、蓮川を隣県の遊園地へと連れ出した。

 自身の高所恐怖症も忘れて観覧車に乗り(蓮川も高いところが苦手だったらしく、結局ふたりしてうずくまっていた)、嫌がる蓮川を無理やりジェットコースターに乗せたらむしろ紅本が吐き、ウォータースライダーで死ぬほどずぶぬれになった蓮川に名物Tシャツを買ってやり、コーヒーカップで実は蓮川が年下と知って愕然とし――

 まだ高校生だったのかと思うと、急に、胸の中がからっぽになったような、そんな気分になった。

 そんな気分になっているときに、とうとう蓮川は聞いてきた。何のつもりでこんなことを、と。

 なんでこんなことしてるんだろうと、自分でも不思議に思った。

 何か考えようとするとすぐ泥藤の死体が頭をよぎって、殺したのが自分だということを嫌でも思い出してしまって、だから頭の中は常に空っぽにしていた。

 人を殺した罪というのは、時間を巻き戻せば消えるのだろうか。

 私が人を殺したことをこの世の誰も知らないのだから、別にいいんじゃないか――

 なんの救いにもならなかった。

 なにより自分が覚えているのだ。人を殺してしまったことを。

 周りが罪と認定するかどうかはこの際関係なくて、

 自分の中のが、犯した行為にとても耐えられない。

 とんでもないことをしてしまったと思い出すたびに怖くなって、

 だから、何も考えないようにしていた。



「私、実は時間を巻き戻せるんだ、……って言ったら。信じて、くれるかな?」



 だから、つい、こぼしてしまった。

 何も考えずに、ぽろっと。

 


 当たり前だが蓮川はぽかんとした表情を浮かべるばかりで、紅本もさすがにごまかすしかなかった。

 でも一度こぼれてしまうと止まらなかった。


「たとえば、だよ。たとえば、バイトが長引いたかなんかして……夜中、ほんとに誰もいないような夜道を、ひとりで帰ることになったとして、だよ」


 適当に立ち寄ったレストラン、料理が来る前から紅本は喋り倒していた。


「そこでなんか悲鳴が聞こえて、なんだろうと思って行ってみたら……女の人が、刃物を持った男に襲われていた! ……みたいな。そういうシチュエーションが、あったとして」


「私が『うわっ』って思った瞬間、女の人はこっち見て叫ぶわけじゃん『助けて!』って。で、その次に男のほうもこっち見るわけじゃん。『見られた!』って」



「ここで逃げるのって、悪いことかな?」



 突然何の話を始めたのかと、蓮川は混乱しているだろう。

 自覚はしていた。

 けれど、限界だった。



「周り誰もいないし、きっと警察呼んでも間に合わないし。男のほうもすごい背高くて、筋肉もあって、刃物持ってて。私なんか助けに入っても何もできないじゃん、ってときにさ」


「むしろ、自分も殺されるかもしれないって、怖くなって」


「それで、私が逃げたらさ……それは、罪に、なるのかな」



 今のところ、泥藤に殺されているのはすべて蓮川だ。

 つまり、泥藤を引き寄せているのは、蓮川のほうではないのかと。

 ひとりなら逃げられるんじゃないかと、ずっと紅本は疑っていた。

 その告白だった。

 了承を取ろうと思った。

 まだ何も知らない蓮川からどんな言葉を引き出そうとそれは欺瞞だ。

 でも言ってほしかった。「そんなことない」と。

「誰だってそんなことになったら逃げる」と、被害者の口から聞きたかった。


 蓮川は黙って聞いていた。

 その肩が時折小さく震えるのがなぜか、当初、紅本にはわからなかった。


「……僕も、同じようなこと、考えたこと……ありました」


 蓮川が語り出すまで、わからなかった。



 泥藤や根来といった個人名は蓮川の話に出てこなかったし、紅本も前夜フロントで聞いた名前を覚えていたわけではなかった。けれど、蓮川の話を聞いたとき、ふたりはそういう関係だったのかと、すとんと理解できた。

 正直嫌だったと彼は言う。他人のことなんか放っておけばよかった。無視してしまいたかったと。


「でも……何も、しないのは、それだけで、悪いことなのかなって、思うと……それも、嫌で」


 でも、自分は己の中の罪悪感に従ったのだと、絞り出すように蓮川は続けた。

 それまでまったく知らない他人であった蓮川の境遇を、ここに至って紅本は知る。

 人並みに同情などしている余裕は今の紅本にはなかった。

 それでも、これは無理だと思った。

 そんな目に遭ってきた少年を、今、ここで「見捨てられる側」に回らせては絶対にいけないと、紅本の中の罪悪感が、人並みに備わった良心が、ちくちくと紅本を責め立てた。

 ひとり逃げようと考えていた自分は、足場を失い、宙ぶらりんに。

 それでも嫌なものは嫌だったけれど、嫌と言ってはいけないのだと、紅本は自分を奮い立たせる。



「嫌、だったよね、正直」


「自分はただ、その場にいただけなのに。たまたま居合わせただけなのに、それだけで、助けなきゃならないって義務ができる。……嫌だよね、そんなの」


「無視して、逃げて、なにが悪いんだって、それが罪なのかって。……私はさ、たぶんそれは『罪』ではないと思うんだ。悪いことじゃない。ただ……」



 誰に向かって言っているのかもう自分でもわからなかったが、

 ひとつだけ確かなのは、



「ただ……『責任』が、あるんだと思う」



 これが、蓮川を慰めるつもりで言った台詞ではなかったということ。



「生まれたときから、ずっと。生きてるだけで『責任』って発生するんだよ、たぶん。ただそこにいたっていうだけで、助けなきゃならないっていう『責任』が生まれる。『人としてそうしなきゃならない』っていう『責任』。それができなかったら、別に逮捕されて裁判にかけられたりするわけじゃないけど……ずっと自分の中で、見捨てたっていう、罪の意識が。ずっと、ずっと残り続ける」



 紅本の中にある罪は、世界の誰にも指摘できない罪だ。誰からも糾弾されない罪。

 けれど他ならぬ紅本自身が自分のことを許せない。


 きっと真実を知ればみんな自分を人殺しと責めるに違いないし、

 仮に「君は悪くない」と言ってくれる人がその中にいたとしても、そいつだって内心では「とんでもないことをした女だ」と自分を蔑んでいるに違いない――


 たとえ世界中すべての人間が紅本のことを許すと言っても、

 紅本自身が自分を許すことができないかぎり、

 紅本にはその言葉が信じられない。



「――"そこにいたことの責任"。……嫌になっちゃうよね、ほんと」



 長い沈黙が生じた。ずっとうつむいていた紅本には蓮川の表情がわからなくて、どんな顔でこの話を聞いているのだろうと、少しだけおかしくなった。

 最後に一言だけ言っておこうと、紅本は不意に思いついた。



「……大変、だったね。今まで」



 重くへばりつく唇を開いて、なにげなく、紅本が言った一言に――

 蓮川は、雷に打たれたような顔をした。





 その夜もやっぱり泥藤はやってきて、やっぱり蓮川は殺された。

 ひとつの決意を紅本は固めた。





 六回目の四月十二日、03:20。

 紅本はので、深夜のコンビニにはとまるっきり同じ光景が広がっていた。

 カウンター越しに紅本へナイフを突きつける強盗と、

 そんな修羅場のただ中へ、うっかり飛び込んできてしまった蓮川。

 かつての知り合い同士、短い言葉を交わしている蓮川と強盗を見ながら――

 紅本は、体に力を入れる。



 蓮川が死なずに済んだのは、四回目。泥藤を殺してしまったあのときだけだ。

 殺す側がいなくなったのだから、当たり前と言えばそうだが――

 紅本がどれだけ居場所を変えても、泥藤はその先に現れた。神のいたずらを疑うレベルの不条理が、そこにはあった。

 おまえが死ぬのは運命で決まってるんだよと、いつだか強盗は言った。

 その言葉を信じそうになるほど何度も蓮川が死んだことを思うと、

 あの一回だけ死を回避できたのは、むしろ不自然な気がした。


 そこから紅本が導き出したのは、ろくな根拠のない、都合のいい推論。



 2017年4月12日午前3時22分、

 運命によって定められているのは、

 この時間にということ、それだけなのではないか。


 のではないか?



 そんな結論に至ったのは、別にこの仮説に自信があったからではない。


 死ねばこのループも終わるのかなとか、

 人殺しは死んで償うべきじゃないのかなとか、

 いっそ死んだほうが楽になれる気がするなとか、


 同じ日を六周して溜め込んだ、鬱屈とした感情が――混ざり合った結果だった。




 03:22、

 蓮川の首を切り裂こうと強盗が駆け出すその直前、

 紅本は風のように飛び出して――


 蓮川の身代わりになって、刺された。





 最善手を打ち続けた――とは、お世辞にも言えない結果だった。

 同じ日を何度も繰り返せるという前提がそこにあるのなら、もっと他に試すべきことはあっただろうし、もう少し諦めずに続けていれば、あるいは誰も死なない結末を迎えることも、不可能ではなかったかもしれない。

 が、紅本都は昔から要領のよくない人間だったし、

 人並みの良心を備えてもいれば、罪悪感だって持っていた。

 結局のところ、これはそういう話だ。

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