第32話 そこにいたことの責任EXTREME④


 なにが夜の散歩だ、とスマホを放り投げた瞬間店長からの着信が入って、でも打ちどころが悪かったのか電池が飛び出して電源が落ちた。構うものかと思った。

 神のいたずらか何かだと思った。

 見えない力が邪魔をしたのだと思った。

 そうでなければピンポイントに家まで来るなんてことがあるものか。

 ひとしきり、煎餅布団のシーツを握りしめて震えた後で――

 紅本は、少しだけ落ち着いた。

 バイト先までは自転車通勤ができる程度の距離しかない。なにかの間違いであの強盗が通りかかることはあるかもしれないし、そのときたまたま蓮川がベランダに顔を出していただけなのかもしれない。

 偶然も、二回重ねるだけならまだ偶然で通るかもしれない。

 まさか本当に固定力みえないちからが邪魔をしているなんてこと、このときの紅本が気づくはずもなく。にじみ出す嫌な汗を拭って布団から出た彼女は、"次"を考える。

 離れよう。ここでは近すぎる。

 なけなしの貯金を何かに追い立てられるように下ろしてきて、それから隣町のホテルを探した。当日予約が可能なところを旅行サイトから見つけだし――

「大人ふたり」にチェックをつけるかどうかで迷って、ふと我に返った。

 

 別に額の問題ではない。手元の金でふたりぶんの交通費と宿泊費くらいは出せる。

 ただ、

 何をしているのだろう、と思っただけ――


 もし時間が巻き戻っていなければ、あのとき蓮川を殺害した泥藤は続けて自分を殺そうとしただろう。紅本はそれが何よりも怖かった。

 しかし、時間を戻して逃げても、泥藤は家までやってきて――また蓮川を殺した。

 ――この家に、殺人鬼が。

 思い出すだけで力が抜ける。

 この時間の巻き戻しだって、どういう原理でそうなっているか紅本にはさっぱりわからないのだ。いつ発動しなくなるとも限らない。

 何か有効な手を打たないと、いずれ自分は殺されてしまう。

 そう考えると本当に恐ろしくて、まず自分の安全が最優先で、


 ――蓮川は?



 ――蓮川も助けなくてはならないのか?

 ――こんな切羽詰まった状況で、

 ――意味のまったくわからない状況で、

 ――この上、赤の他人の面倒まで見なければならない義理があるのか?



 自分は、蓮川の何を知っている? 何も。バイト先の常連としか知らない。

 まず自分が生きるか死ぬかのこの場で、まったくの他人まで気にかけろと?

 無理だ。また家まで押しかけろというのか。支離滅裂な理屈を並べて、無理やり家から連れ出せというのか。

 頭のおかしい人間みたいだ。

 一度そう思うと、なにもかも嫌になった。

 

 構うことはない。見捨ててしまおう。

 他人の蓮川がどうなろうと知ったことか。

 今は、とにかく自分が生き残ることだけ――




 


 蓮川が殺されることを知っているのは、現時点で、私だけ。

 それを阻止することができるのも、今のところ、私だけ。

 




 ――この状況で。

 私が、蓮川を見捨ててしまったら――――




 ――――私が、殺したようなものか?







「蓮川少年! 旅行に行こう!!」

「は、……は、い?」


 結局、瞼の裏に焼き付いた死に顔から逃れることはできなくて、

 だから彼女は昼過ぎから蓮川宅のインターホンを十連打した。



 ほとんど初対面の人間が「お金は全額こっちで持つからちょっと遠出してみましょう!」どう見ても犯罪の臭いがするよなと紅本自身も思ったが、彼女はもうやけを起こしていた。それに押し切られる蓮川も蓮川だった。

 特急列車の窓側の席に座らせた蓮川は、体を固くして、ただ景色を見つめている。

 たまにちらちらとこちらをうかがっては、ため息をついている。

 気まずげに視線を逸らした紅本に、蓮川はついに言うべきことを言った。


「……あの、これ……どこ、行くんです?」

「どこ? ……どこ、行く?」

「えっ」


 ホテルは取ってあるが特にどこへ行こうという決定はしていない、と打ち明けると蓮川はいっそう怪訝そうな顔をした。

 百パーセント見知らぬ人間であるならまだしも、「よく行くコンビニの店員」程度の接点はあるから、むしろ反応に困るようで――蓮川は、ためらいがちに、聞く。


「あの……これ、なんなんです? なんで、こんな、急に……」

「…………」


 が、そろそろ紅本は疲れていた。

 同じ日を繰り返して四回目、人が殺されるのを三回も見た。

 なにか建前をでっち上げるのも忘れて、ぼんやりと、こんなことを口にする。


「……神様って、信じる?」

「え」

「なんか、朝目覚めたときに、なんかわかんないけどピンと来て。あの子と旅行行こうって。これもう神様のお告げかなー、って……」


 もう適当もいいところだなと自分で言って笑ったし、このタイミングで「神のお告げ」は言い逃れのしようもなく不審者だ。

 けれど、自分のこの状況は「神のいたずら」以外の説明がつかない――

 内心、紅本は本気でそう思っていた。


「……神、様、ですか」

「そ、神様。信じる? いると思う?」

「…………」


 もうどうにでもなればいいと、投げやりに紅本が問いかけた言葉に、蓮川は少しだけ考え込んだ。

 ぽつりと、こぼれ落ちるように、一言。


「いない……と、思います」

「まあ、いまどき神様なんて信じないか」

「……だって」

「ん?」


 その先の言葉は、列車の揺れる音に混じってよく聞こえなかった。

 いや、かすかに聞こえたけれど、どういう意味かよくわからなかった。


 ――だって、神様がいるとしたら、こんなことにはなってないはずでしょ。


 蓮川のどんな経験が、どんな過去がこの台詞を言わせたのか。

 当然、紅本にはわからない。

 けれど、今の紅本には――これから殺人を起こす人間が、今もどこかで野放しにされていると知っている紅本には――この台詞が、至極もっともなことを言っているように、聞こえた。



 結局、どこにも行かなかった。まっすぐホテルに向かって、コンビニで買いこんだ食料を蓮川に渡して「明日の朝まで部屋から出るな」と強く言い聞かせておいた。

 やっぱり犯罪の臭いがするなと苦々しく思うものの、蓮川はきょとんとした顔でうなずいた。ひとまずは、これでいい。

 そして日付は変わって深夜零時。

 やはり寝付けなかった紅本は、フロントで缶コーヒーを飲んでいた。

 いくらなんでもこんなところまで来るとは思えないが、それでも、怪しい人間がやってこないか見張っていようと考えた。

 一時。そもそも客が誰も来ない。

 二時。少しうとうとして、

 三時、

 けたたましいサイレンの音が聞こえて紅本は飛び上がった。

 五階で火事だと騒ぐ従業員たちの声。

 蓮川の部屋は、五階。

 ふざけるな、と紅本は手の中のスチール缶を握りしめて立ち上がり――


「すいませーん。今日、っていうか昨日予約取ってた泥藤っていうんですけど……いや、ほんと遅れてすいません、っていうか……」


「なんか、それどころじゃない感じ……ですか?」


 声が耳に入って、全身がこわばった。

 過去三度のエンカウントですでに見慣れてしまった金髪が、慌てふためく受付の従業員を捕まえて何事か話している。

 どうしてこんなところまで、と、紅本が運命への憤りを覚えるより、

 非常階段から降りてきた蓮川が、フロントに戻ってくるほうが早かった。



「……いや、なんつーの。傷心旅行? 傷心か? まあなんでもいいけど、ちょっとした旅行のつもりでね、遠出してみたのよ。そしたらこれ。ばったりだぜ」

「で、泥……え、なんで……」

「なんでって今言ったじゃん俺だってびっくりしたよ。偶然だよ。運命だよこれ。運命がおまえに死ねって言ってる」


 客も従業員も、上を下への大騒ぎをしている中で――

 蓮川と泥藤のふたりだけが、世界のどこか違う層にいる。

 手荷物からするりとナイフを取り出した泥藤を誰も気に留めないのが、その証左であるように紅本には思えた。


「なあ、蓮川。俺学んだよ。価値のない人間っていうのはな、死ぬしか――」

「いい加減にしてください!」

「ん?」


 死の恐怖よりも怒りが勝った。

 どうしてこんなところにまで現れるのだという理不尽への憎しみ。そして何より、

 それが悪いこととも思わず、平気で人を殺す――その態度への、憤慨。

 これで四回目。

 いい加減にしろ。

 そんな激情に突き動かされて頭が真っ白になった紅本は、ナイフを構えた泥藤と、震えている蓮川との間に果敢にも割って入ることにした。

 当然、泥藤は首をかしげる。


「誰これ。知り合い? 彼女? いい加減って何?」


 が、泥藤は立ちふさがった紅本をどうでもよさそうに突き飛ばすと、

 泥藤の構えたナイフを見てすっかり凍り付いてしまっている蓮川の元へ、

 ずんずんと歩いていく――――


「――や、やめて! やめて!!」


 どうも自分など眼中にないようだし、それに、もし何かあったとしても、

 今度だってきっと――そう信じて紅本は飛びかかった。

 泥藤の背中めがけて猛然と体当たりを繰り出したのだ。


 うおっ、と野太い声をさせて、不意を突かれた泥藤がバランスを崩す。

 その手から滑り落ちたナイフが大理石の床で跳ね返ってキンと音をたてた。

 タックルの勢いのまま、折り重なってふたりは倒れる。

 もみ合うようにしばらく床を転がった後、必死の思いで体を起こした紅本は――


 うつぶせに倒れたまま泥藤が動かないことをまず不審に思って、それから、

 ――その胸のあたりからどくどくと赤い血だまりが広がっているのに気づいた。



「え?」



 説明を求めるように蓮川を見るが、蓮川もぽかんと口を開けて紅本と泥藤――の、死体へと交互に視線をやるだけだ。

 いまさらのようにギャラリーが悲鳴を上げる。

 ――ナイフ。

 ナイフが突き刺さっている。

 泥藤の取り落としたナイフが、倒れてもみ合っているときに、なにかこう、とんでもない偶然が起きて、うまい具合に――刺さってしまったようだ。

 左胸。

 見る限り、即死。



「え?」


 

 ――これは、事故だった。

 少なくとも、そのときの紅本はを一切持っていなかった。


 でも、紅本は気づいてしまった。

 今まではだった強盗が、今、死体になって目の前に転がっているのを見て、

 思いついてしまった。


 ――強盗を先に殺してしまえば。先に、こちらが殺してしまえば。

 ――こちらが殺される心配は、なくなるのでは?


 紅本はそんな考えを抱いた自分自身を恐れた。

 いかに相手が殺人鬼といえど、いかに蓮川を守るためといえど。

 どんな理由があろうと関係ない。

 人を殺そうと思ってしまった。

 いや、それどころか『実際に殺してしまった』――

 重ねて言うが、これは事故。紅本がその発想に至ったのは、すでに事が起こった後。けれど紅本の中のは、都合よく順序をすり替えた。

 殺そうと思って本当に殺した。

 自分は、とても許されないような大罪人になってしまった――

 そんな錯覚が紅本の足の先から頭のてっぺんまでを貫いて、

 蓮川の死体を初めて見たときに負けず劣らずの叫び声を上げた彼女は――



 再び、自室の布団の上で、着信音で目を覚ますことになる。

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