第29話 魔王に捧ぐ供物
幼いころから母とふたりで暮らしていた泥藤は、実のところ自分の両親がどんな人間であるのか、今でもよく知らない。
母はどんな人生を歩んで今どんな仕事をしているのか、
父は、いったいどこにいるのか。
幼い彼はなにひとつ知らなかったし、知ろうとも思わなかった。
ただ、なんとなく察していただけだ。
勉強ができるかできないか、それだけで人の価値は決まらない。
大学出たやつにだって有象無象の雑魚は掃いて捨てるほどいるのだ。
誰が上で誰が下かは、生まれや経歴なんかじゃ決まらない。
母から何度も何度も繰り返し言い聞かされてきたその言葉を――
もっともなことを言っている、と。泥藤はそう受け止めていた。
けれど、母の口癖はそこで終わりというわけではなくて、
「舐められたら終わりだよ、省吾」
必ず、この台詞で結ばれる。
誰が上で誰が下かは生まれなんかで決まるものではない。
だから、積極的に決めに行かないとすぐに下へ追いやられてしまう。
おまえは決める側に回るんだと口を酸っぱくして母は語り、そのための処世術まで教えてくれた。自分より下の人間をひとりクラスに作って、それを叩けばいい。叩く側に回れたのなら、その内部で一番上を目指すのはそう難しいことではない、と。
自分が中学高校と、クラスでの立ち位置を築くのにどんな手段を使ってきたか――まるで武勇伝のように語られたそれは、たぶん母なりの帝王学。
貧民上がりの、帝王学。
「上か下かは自分が決める」――そんな呪文を唱え続けていないと自分を保てない。母はそういう環境で過ごしたそういう人間で、たぶん今でもそういう場所にいるのだろうと、なんとなく察した。
ちなみにこの呪文、父のもとで暮らすようになって以降は「おまえは名のある大学に行け」と内容が変更された。
なんにせよ周りを見ないと価値ってわからないんだなと泥藤は思っていた。
思えば父とはまともに話した記憶がない。
「価値ある人間になれ」と言われたあれっきり、夕食すら一緒にした記憶がない。
それ自体は別にどうでもいいと泥藤は考えているけれど、おかげで泥藤家の家庭事情について”小耳に挟んだ”レベルの知識しか当の息子が持っていないのも事実――
前か前の前かその前か、いつかの内閣では大臣まで務めたとかいう泥藤父。この男と母の間に生まれたのが自分であるのは、まあ間違いない。
ただ、母が最初の妻ではなかったというだけの話であって。
死に別れたという説もあったし、揉めて家を出ていった説もあった。どうして自分の父の話に”説”なんてあやふやな言葉を使わねばならんのかとひとりおかしくなるが、とにかく父は何かトラブルを前妻との間に抱えていた、というのが泥藤の知るところである。
そういう経緯で母の肩書が愛人から後妻に変わった。跡取りは欲しかったらしい。
そういうわけで、「価値ある人間になれ」という父からの指令である。
泥藤はずいぶん頭を悩ませた。なんだろうね価値って。なんなんだ?
とりあえず勉強はがんばることにしたが、それだけではまるで実感がわかず――
だから泥藤は、それまでと同じように。
高校に入っても母の教えを継続することにしようと決めた。
自分が上だと実感するために必要だった踏み台の、何代目かはわからないがその一台――根来にまつわるエピソードを、泥藤はよく覚えている。
根来本人はなんのことはない、なにひとつ価値のなさそうなゴミ。いることに何の意味もない、たぶん生きていることにも意味がない、腐臭の漂う生ゴミだ。
ただ、その根来についてきたゴミはやや珍しい臭いを漂わせていた。
下水か生ゴミか程度の差だが、違いは妙に鼻についた。
「三栖くん、三栖くん、三栖くんよ」
「な……なんだよ?」
「いや、聞きそびれたから。そーいや結局聞いてないなと」
「……だから、なにが」
「三栖くんは、蓮川くんの友達だって聞いたんだけどぉー、ほんとなのかなって」
「っ……」
「おまえ、ほんとにあいつの友達?」
『やめろよ』と蓮川が割って入ったその日のうちに。
泥藤は三栖ひとりだけを呼びつけると、満面の笑みとともに聞いた。
「……別に。そういうわけじゃ、ない」
「へえ。なら心配いらないなあ!」
「…………」
「いらないなあ!」
三栖は蓮川を売った。
蓮川との友情、自分の身の安全。
三栖はこのふたつを天秤に乗せ、後者のほうが重いと判断したわけである。
要するに――蓮川という人間の価値は、三栖の安全よりも安い。
人間の持つ”価値”というものが、この上なくはっきりと、目に見える形で示されたような気がして、だから泥藤はこのことをよく覚えていた。
三栖と蓮川が友達じゃなくなったのは、ともかくとして。
根来と蓮川がもともと友達ではなかったというのも間違いないらしい。となると、蓮川の目的は――友達になること、だったのだろうか?
「自分の身の安全」「根来と友達になる」、ふたつをはかりにかけた結果、蓮川は根来との友情を欲した。そちらのほうが重いと考えて、身の安全という札を切った。
そしたら根来はどうしたかというと、そっぽを向いて転校した。
払い損。
身の安全を手放すだけ手放しておいて、しかし欲しいものは手に入れ損なった。
アホ。
というか、カスだと思う。
結局、「根来の友情」という札は「蓮川の安全」程度では買えなかったということで、つまり蓮川の価値はとても低いのだ。
一連の流れの中で、一番価値のない人間は誰か?
決まっている。
根来も三栖も大概ゴミだが、誰が一番終わってるかって、それは間違いなく――
「――蓮川だと俺は思うんだけど、そのへん元友人としてどうよ?」
血まみれで足元に転がった三栖は汚い悲鳴を上げるだけで答えなかった。
本当につまらない男だなと、泥藤はナイフ片手に思う。
さあ今年から俺も三年生だ、と白々しく意気込んだ泥藤は登校早々に校長室への呼び出しを受け、行ってみると退学届を手渡された。普通こういうのって俺の側から出すんじゃねえのと困惑しているうちに、校長と担任は手早く説明を済ませる。
退学届を出したのは、父。
そこそこ名の知れた高校だから、当然学費もそれなりに高い。コストを払うだけの価値がないと俺は判断されたらしい――
教師ふたりは内心気が気でなかった。力の源泉である父は消えた、しかしこのときの泥藤はいわば不発弾。ふざけるなと激昂して刃物を振り回すくらいはしてもおかしくないと、校長も担任も黒ひげ危機一髪気分で慎重に言葉を選んだ。
けれど泥藤はおとなしく退学を聞き入れて家に帰った。
それがなぜかというと、だいたいの察しは既についていたというのもあるが――
単純に、この爆弾はもう少し導火線が長かったというだけの話だ。
玄関を開けて早々に飛んできた酒瓶をしゃがんで回避、背後でガラスの割れる音を聞きながら泥藤は案の定とつぶやく。金切り声を上げながら部屋の中を荒らして回る母を止める気にはなれず、でも質問をすれば時々支離滅裂ではあるけど答えが返ってくるので、泥藤は出来の悪いAIと会話するような気分で情報を拾い集めた。
簡潔にまとめると、父にはもうひとりちゃんとした息子がいたらしい。
正妻は死んだわけではなく、父の子を身ごもったまま逃げた。まああの父に問題がないとは思えないからたぶん父のほうが悪いのだろうが、しかし正妻はつい最近病に倒れた。で、背に腹は代えられないと、息子の世話をよろしく頼むと父に託して先に逝き――
「あ、ひょっとして俺もういらない?」
「何ヘラヘラ笑ってんのよ」
そこで飛んできた灰皿を泥藤はズタボロに引き裂かれたクッションで叩き落す。
父は正妻のことをまっとうに愛していたのかもしれない。愛人を作るような男にも、情というのは湧くのかもしれない。
でなければもっと単純に、そっちのほうが素行か都合がよかったというだけの話かもしれない。
「まあ、いいんじゃない? 俺らだって別に消されるわけじゃないでしょ」
「ちがう」
「ほら、愛人とその子供って絶対めんどくせえじゃん政治家は。隠すと思うんだよ、普通は。そりゃまあ今までとまったく同じに行くかどうかは知らねえけど、さすがに殺されはしねえって。最低限の面倒くらいは見られるんじゃねえかな」
「ちがう……」
別に母を説得しようという意思はなく、これは本心。
あまり焦ってもいなかった泥藤は淡々と推測を述べるが、母は空気が抜けたようにその場でへたり込んでしまった。
「……私が必要だって言ったの。あの人は」
「うん。うん? 親父?」
「嬉しかった。あんたが生まれたとき」
「俺かあ」
「梯子ができたって」
「はしご? 何?」
「あの人をつなぎとめるものができたって……。上へ行くための、梯子が……」
「えーっと。じゃあ……」
つぶやく言葉は、言葉というより魂が漏れ出ているようで。
要するにこの母は思ったより父に依存していたらしい。正妻の座が欲しかったらしい。成り上がる道が欲しかったらしい。
そこから外れた道には、価値を見出すことができなかったらしい。
となると、つまり――
「これ、全部俺が悪かったりする?」
母は疲れた顔で微笑むと、ぼそりと、一言だけ。
「あんたなんか、生まれてこなかったほうが、いっそ、楽だったかもしれない……」
父と母をつなぎとめる楔というのが俺の設計思想で、
けれど俺はそのコンセプトをまっとうすることができなかった。
ある目的のために作られておきながら、その目的を果たせなかった。
ごく単純に考えて――役立たず。
価値がない。
なるほど、もしかして一番価値がないのは俺だったのか、と数日部屋にこもって考えているうちに、いつの間にか母は姿を消していた。
誰も捜索願なんかは出さないだろうと泥藤は思うし、そもそも行方不明というのも、自殺体が見つかるまでの仮の名称に過ぎないという確信があった。
「そういうわけでだな、価値を手に入れられなかった人間……価値のない人間ってのは、結局死ぬしかないんだよ。わかる?」
「あ、ああ、あ」
「けど、この理屈だと俺が真っ先に死ぬわけよ。もっと積んでかないとだめだ」
これからどうしたものかとそのあたりをぶらついていた泥藤は、偶然にもふたり連れ立って歩いている三栖と笛木にばったり出くわした。
ちょうどいいと思ったので、殺した。
この状態から"価値"を積み上げるにはどうすればいいかと考えた結果、泥藤はスコア制を採用した。殺した結果発生した損失の合計額を己が価値とするシステム。
あわよくば父の顔に泥が塗れる、という狙いもわずかにだがあった。
とにかく、転がる笛木の死体と切られた自分の右腕とを見て、暗い路地裏に追い詰められた三栖はうめき声を上げるだけである。
「蓮川もこんな気持ちだったのかなー。どう思うよ、元友達の三栖くん」
「う、ううう、うう」
「あっはっは。つめてぇー友情」
三栖は、以前蓮川を売った。「蓮川との友情」を下に置いて、「自分の身の安全」をそれよりもずっと上のほうに位置づけた。
ということは、「三栖の身の安全」をあっさりと奪う俺は?
さらに上位。
蓮川の友情<三栖の安全<俺。
「順調だ!」
その後すぐ三栖はとどめを刺された。
だから、三栖と笛木が連れ立って歩いていた理由を泥藤が知ることはない。三年生になってもまだ学校に出てこられない蓮川に、謝罪と礼をしなければならないと、被害者の友人同士で手を取り合ったことなど知る由もない。
だから泥藤は、ふたりぶん積み上がったスコアを胸の中にたしかに感じつつ、そこでいったんは家に帰った。仮眠を取り、身支度を整えて、当面の金をどうしようかと考えて――
近くのコンビニを襲うことにした。
ふと、泥藤の思考をかすめる――ひらめき。
価値のない人間は死ななきゃならない。
なら、一番死ぬべきなのは誰か?
わかりやすいのがひとりいるはずだ。
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