第30話 そこにいたことの責任EXTREME①②


 紅本都は昔から要領のよくない人間である。

 大学へ入るにも一浪したし、入ってからも課題を忘れテキストを忘れで優等生とは言いがたい。

 といっても、それはコンビニ店員のバイトがどやされながらもなんとか務まる程度の不器用さであって、とんでもなく深刻な欠点というほどのものではない。まあどっちかといえば不器用なほうだよね、そんなテキパキした子ではないよね、その程度の評価である。

 つまり彼女は普通の大学生なのだ。小遣い欲しさにバイトもすれば、単位を取るのにあっぷあっぷする。本当に、普通の大学生。

 しいて言うなら、変わった特技をひとつ持っていただけだ。


「特技は何?」と聞かれて「二度寝」と答える人間はそうはいない。

 が、紅本はそういう人間だった。


 八時に起きなければならない日に、目を覚ましたのが六時半だったとする。もう少し眠れそうではあるが、しかし二度寝してしまうと寝過ごしそうで怖い。でもまあ、まあ大丈夫だろうという根拠のない自信を胸に抱き、紅本はもうひと眠りする。そして、改めて目覚めた紅本が時計を見ると――時刻は、八時半。案の定、寝坊した!

 こういうとき、紅本は開き直る。どうあがいても遅刻は確定してしまっているのだから、むしろ今から三度寝しても構わないだろう。一時間遅れが二時間遅れになったところで知ったことか! 布団の中、力強いガッツポーズとともにもう一度眠りについた紅本が、次に目を覚ますと――

 なんと、時計は七時半を指している。

 半日寝過ごしたとかではなく、正真正銘朝の七時半。

 寝ぼけた頭をしばらくかしげて、やがて紅本は結論を出す。

 つまり、自分は夢を見たのだ。「八時半まで寝過ごしてしまった!」という夢を。

 いつもそんな調子だから、紅本は寝坊というものをしたことがない。「寝過ごした夢」ならしょっちゅう見るが、目を覚ますと必ずちょうどいい時刻。「寝坊してはいけない!」という無意識の危機感が夢を見せているのだと紅本は理解していたし、それで時間通りに目を覚ませるのはつまり自分の特技だと、そういうふうに考えていた。

 紅本自身は、そう考えていた。


 これが単なる夢ではなかったというのが、すべての発端になる。

 一連の騒動はすべて究極の偶然。

 蓮川と泥藤と紅本と、ちょっとばかり普通じゃない連中が同じ場所に居合わせた。

 そんなかすかな蝶の羽ばたきが、裏側の世界で魔王を生む。

 一本目のナイフで黒ひげがポンと飛び出してしまったような、そのくらいの偶然から――世界の終わりは始まっている。

 



 四月十二日、深夜三時を回ったコンビニで――カウンター越しにナイフを突きつけられた紅本は、しかしとても冷静に、この状況に至る経緯を思い出していた。

 そもそも、本来この日のこの時間は自分の受け持ちじゃない。ただ春風邪だか花粉症だかでたまたまダウン者が続出して、代わりに入ってくれないかと店長が泣きついてきたのが今朝だった。LINEを適当にあしらっていたら直接電話までかかってきて、このところ疲れがたまっていた紅本は前夜の三時ごろから朝十時過ぎまでぐっすり眠っていたのだが、その電話でたたき起こされたのを覚えている。

 そんなわけで、深夜のコンビニは人手不足。

 ろくに客も来ない中、ひとりぼうっとカウンターで突っ立っていたら――

 金髪の強盗が入ってきた。

 マスクくらい被ればいいだろうに、素顔。わりと若い。同年代かちょっと下。顔を隠そうという気が一切ないのはいっそ潔いなと、感心すらしてしまったほど――

 突如訪れた生命の危機に思考が麻痺しているだけといえばそうだが、ともかく、このとき紅本は冷静だった。初めてのコンビニ強盗体験。刃物を突き付けられている。実感が持てない。まるで持てない。持てないから逆に冷静だった。

 ――いや、さすがに殺しはしないでしょ。そこまではね、さすがにね。

 こういうときは素直に金を渡せとマニュアルにもあるのだ、と。ニタニタ笑う強盗を相手に、紅本はレジを開けようとして――

 自動ドアの開く気配がした。


 ひとりも客のいなかった店内に、ひとり、入ってきてしまった。

「よりにもよってこんなときに」の極みのようなタイミングで。

 

 入ってきてすぐ凍り付いたそのジャージ姿の青年には見覚えがあった。

 深夜のシフトでたびたび見る顔だ。よく見かけるから覚えてしまった。

 顔の感じからして、たぶん同年代。で、深夜のコンビニに入り浸っているということは、おそらく大学生だ。昼夜逆転気味の、自堕落な生活を送っているであろう大学生――そういう勝手な推測を、紅本は日ごろから巡らせていた。

 実際のところ大学生という読みは外れているのだが、このときの紅本がそれを知る術はないし――

 この客の名が”蓮川創”だということも、当然、知るはずはない。

 顔は一応知っている程度の、知り合い未満の距離感。

 蓮川と紅本の関係というのは、ただ、それだけの――希薄なものだった。


「おお。すげえ偶然!」


 が、「よりにもよって」はここに極まれり。

 強盗のほうはこの客となにか面識があったらしく、だからというのかどうなのか、

 ひとことふたこと、客と短い言葉を交わした強盗は――驚くほどあっさりと、

 何をためらう様子もなく、

 手慣れてすら見えるナイフさばきで、

 名も知らぬ客を殺害した。 


 ばたり、と体が倒れる音に、びちゃり、と床で血の弾ける音が重なって――

 その音とほぼ同時に、強盗はレジのほうへ向き直った。

 だから、呆然と見ていた紅本は、殺人者の目を真正面から見てしまった。

 それで紅本は絶叫した。

 もはや冷静でいられるわけがない。恥も外聞もなく後退りしながら叫び、嫌あ、来ないで、来ないでと叫び、叫び、叫んで、叫び散らして――



 ――枕元で鳴る着信音に、紅本は目を覚ました。



 寝巻が汗でぐっしょりと濡れていた。

 心臓が病気みたいに脈打っていた。

 そこは自分の部屋だった。いつだか友人に「人が呼吸できる場所じゃない」とかなんとか言われた、とても散らかった自分の部屋――

 カーテンの隙間から差し込む光が、布団に横たわる紅本を照らしている。

 荒れた呼吸が整うまでしばらく待って、それでも着信音が鳴りやまなかったから、紅本はそろそろと手を伸ばし、電話に出る。


「――あ、都ちゃん? ちょっと、既読付けたんならちゃんと返事しようよ。いや、今日ほんっと誰もいないの。人手ほんとに足りないの! おねがい! そりゃ急に夜勤入ってくれってのもなんだけどさ、でも、今ちょっとほんとに――」


 やかましい店長の泣き声に、紅本はスマホを耳から離して――

 右上に表示されている時刻を見ると、とっさに電話を切ってしまった。

 ホーム画面に戻る。

 10:29。

 4月11日(火)。


「……………………」




「……夢かあ。夢か。びっくりした。…………びっくりした…………!!」


 タチの悪い夢を見たものだと深く安堵の息をついて、それから店長に電話を掛け直した。

 紅本都は要領が良くない。察しだってそう良くはない。

 ただ、いくらなんでも「半日時間が戻っている」という非常識な事態を一発で理解しろというのは、たぶんこれが紅本でなくても、無茶な話ではあっただろう。




 線路内に人が立ち入ったとかで、大学へ向かう電車が少し遅れた。

 その後乗ったバスでは小さな子供を連れたおばあちゃんが降車ボタンを押した直後「まだ降りるとこじゃないよ」と子供から指摘を受け、すいませんすいませんと運転手に頭を下げていた。

 三限にひとコマだけ入れていた講義では、隣でうたたねしていた友人が寝ぼけて紙パックのジュースをひっくり返した。

 全部、既視感のある光景。紅本は、じわじわと気づき始める――

 ――夢の中で過ごした半日と、まるっきり同じことが起きている。

 いやに夢だったと、いまさらのように恐ろしくなった。

 人並みに科学を信じる紅本は、人並みにオカルトを否定する。でも、あんな異様な夢を見た後だ。オカルトなんて信じないと言いながらも、やはり人並みに怖くなる。

 もしや予知夢か何かを見たのか?

 となると、自分はこれからどうなる?

 ――馬鹿らしい。ただの夢に決まっている。

 そう頭を振ってみても、目を閉じれば浮かぶナイフの幻影。血のしずくがしたたり落ちる、刃渡りのとても大きなナイフ――

 での紅本は、大学から帰った後、インスタントのラーメンで適当に夕食を済ませて、それから夜勤に備え仮眠を取った。

 、紅本は夕食を適当なゼリー飲料で済ませると、夜勤までの時間を暗い部屋の中でうずくまって過ごした。

 それは紅本のちょっとしたではあったのだが、もっと単純に――

 蓮川の死に様と泥藤の狂気じみた目が脳裏に焼き付いてしまって、とてもじゃないが食事も睡眠もまともにとれる状態ではないという、それだけの話でもあった。



 22:00。結局、紅本は出勤した。

 23:00。何事もない。

 0:00。日付が変わる。

 1:00。バックヤードには誰もいない。

 2:00。客はひとりも来ない。

 3:00――――


 やっぱりとても恐ろしくなって、紅本は店の外へ出た。

 今にもあの強盗が店に押し入ってくるんじゃないかと不安でしょうがなかった。

 ちょっと隠れていればいいだけだ。今やり過ごせばそれで済むはずだ。隠れる。隠れる? どこに隠れよう――

 おろおろと周囲を見渡した紅本がそこで目にしたのは、強盗などではなく、

 上下ともに紺色のジャージを着て、背中を丸めるようにして、おどおどと歩いてくる――蓮川創の姿だった。


 その姿を一目見た瞬間、鼻の奥を血の臭いがかすめた。

 首を切られて、喉元にえげつなく開いた大穴を鮮明に思い出した。


「……あ、あの! すいません、ちょっと……来てください!」

「え」


 名前も知らないような他人でも、目の前で死なれれば思うところはある。

 あんな死体はもう見たくなかった。

 助けなければと強く思った。


「い、今はですね! 今はその、ちょっと、店の中に入れないんです。……立て込んでて! で、ですから」

「え、あ、え、え……?」


 紅本は目を血走らせながら蓮川を店の裏手へ連れて行った。

 ただの夢だったら後で謝ればいい。この場だけ、この場だけやり過ごそう。

 強盗に来て店員が誰もいなければ、レジを力ずくで叩き壊すか、別のコンビニへ行くか――でなければ後日、日を改めて来るはずだ。どこへ行ったとわざわざ店員を探し回ったりはしないはずだ。しないだろう。たぶんしない。私だったらしない。そんなこと、私だったら絶対しない――


「……し、しばらくここで待ってましょう! たぶん、たぶんすぐ済むんで……」



「なにしてんの? おまえ」



 この強盗は私じゃなかった。




 冗談みたいに無残な目に遭う蓮川を、紅本はどうすることもできず見ていた。

 首を締め上げられているみたいにまったく声が出なかった。

 足は震えてはいなかったけれど棒のようになって動かなかった。

 まぶたが動かない。

 眼球が動かない。

 目を閉じることも背けることもできない。

 だから、紅本は見てしまった。

 ――おまえは何もしないのか、

 ――おまえは、俺を助けてくれないのか、と。

 そう言わんばかりの蓮川の視線から、目をそらすことができなかった。


「死んだ。……死んだかな? 死にましたか? ねえ蓮川くん、君死んだ?」


 もはや呼吸もできなくなってしまった紅本を置き去りにして、泥藤はしばらく亡骸をもてあそんでいた。

 完全に死んだと確信を持つと、そこでようやく顔を上げる。


「蓮川、おつかれさまでした、と」


 そして、壁に張り付いたまま凍りついている紅本をちらりと見て――


「こいつの価値、いくらくらいになると思う?」


 返り血の飛んだ頬をぬぐって、屈託のない笑みでそう言った泥藤に――

 紅本は、ようやく悲鳴を上げた。









「もしもし? もしもし? 都ちゃん? 聞こえてるー? ちょっと、既読付けたならちゃんと返事――」


 そして紅本は、再び枕元の着信音で目を覚ます。

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