真相:side neutral

第28話 そこにいたことの責任―②


 高校二年の秋、根来と蓮川は別に友達ではなかった。それは間違いのない事実だ。

 ただ、別に友達じゃなくたって、

 弁当箱をひっくり返されたり、

 代わりにゴキブリの死骸を食わされたり、

 たまに死んでないやつも食わされたり、

 殴られたり、

 サッカーボールにされたり、

 首筋に焼き印を刻まれたり、

 そういうことをされているやつが同じクラスにいたならば、「下手にかかわると僕も同じ目に遭わされるかもしれない」という保身をちょっと超えるくらいには、「気の毒になあ」と思う気持ちも自然と湧いてくるものである。

 これはそれだけの話だった。

 どこかに消えた外靴を探して下駄箱周りをうろついていた根来と、たまたま通りがかった蓮川の目が、偶然合ったというだけの話だった。


「……じゃ、じゃあ。バイバイ、根来……くん」

「………」


 最初は、これだけ。

 でも蓮川は、これ以降ひとりの根来を見かけたらできるかぎり話しかけるようにしようと、そう意識するようになった。

 たとえば、自販機の前で出会ったら、ジュースをおごるくらいのことはしたし――

 誰も通らない非常階段で根来は日々の昼食をとっている、と知って以降は、さりげなく同席することだってあったのだ。

 それが自分にできる精いっぱいだと思ったから。

 表立って逆らうのは怖い。自分にも火の粉が飛ぶかもしれない。だいたい僕ごときが泥藤に立ち向かったところでなんになる。きっとあいつは歯牙にもかけない。

 止めることができないのなら、せめて裏で支えになるくらいは。

 それが自分にできる精いっぱいだと蓮川は思ったし、

 そうしているだけ、自分は善人だと――

 根来を取り巻く環境に対し無関心を貫くことはせず、

 我がことのように胸を痛めているだけ自分はだと、

 そう内心で考えていた。


「……ひどい、よね。泥藤のやつ」

「…………」


 そんな蓮川に根来が言葉を返したことは一度もなかった。

 さんざん、さんざん痛めつけられた根来の目は暗く濁って、言葉ではなくその目だけを向けられるたび蓮川は怯えていた。


 その程度で償えたつもりか。

 何の行動も起こさないくせに。

 罪悪感だけ軽減して、自分は善人ですって面をするのか。


 なじられているような気分になるのが、たまらなく嫌だった。


「……三栖」

「んだよ?」

「泥藤……どう思う?」

「泥藤なあ。やべーよなあいつ。あれでノータッチなんだからやばすぎ」

「……」

「根来、マジで死ぬんじゃねえかなって最近思う……。つーか、いっそそのくらいまで行かねえともう誰も止めらんねえんじゃないの」

「…………」

「……どした?」

「いや」


 友人は、その程度ひとごとの距離感。


「新聞見た? 武蔵運送の従業員。上司が五年も殴ったり蹴ったり、五年よ五年、五年もいじめ続けてたって」

「いい大人が子供みたいなことをな。情けない」

「しかも同席してた人もいたのに止めなかったって。もうその人もほんと……」

「同罪みたいなもんだろう」


 母と父が語っていたのは、たぶん人として当たり前のこと。


「……中学んときから、根暗なやつで。いつか、誰かに、目付けられるんじゃないかとは、思ってた」

「……今、どうなってるか」

「知ってるよそのくらい」

「笛木くんは……なんとも、思わないの」

「なんでそれ俺に言うわけ」

「え」

「同じクラスだろうがよ、おまえも。おまえだってなんにもしてねえんだろ。なんで、俺だけ……俺にだけ、止めなきゃ悪いみたいなこと言うんだよ。何様だ」

「…………」


 泥藤と同じクラスになるのは、根来にとって友人を失うことを意味したらしい。




 目を閉じるたび脳裏に浮かぶ、根来の、あの暗い瞳。

 瞼の裏に彫り込んだあと、さらに炎で焼き付けたように、

 どうしても忘れることができない。




「――――やめろよ!」




 だから、蓮川は叫ぶことにした。




「友達かって聞いてんだけど」

「ち、がう」

「違うらしいぞ」


 違っても構わないと思った。痛みを負う覚悟のない自分は根来の友人などではなかった。そもそも友達になりたいわけでもない。

 ただ蓮川は許されたかった。

 自分は取るべき行動を取った。

 力不足でも構わない。

 助けが必要な人に手を伸ばすという、人としてやるべきことをやった。

 結果共倒れになってしまっても、自分はをきちんとこなしたのであると。そう声高に主張できるなら、それでいいと思っていた。

 とはいえ、ほんの少しだけ期待していたのもまた事実である。

 それは、もしかすると泥藤が止まってくれるかも、なんて朧げな希望ではなくて、

 何を言っても一言たりとも言葉を返してくれなかった根来も、

 実際に行動を起こした今なら、会話に応じてくれるのではないか。

 そんな、淡い期待だった。



 蓮川が声を上げた翌週、根来は遠くの高校に転校した。

 結局蓮川は一度たりとも根来のを聞くことがなかった。





 善人であるための資格さえ残れば、あとは報われなくても構わない――

 そんなほのかな信仰心は、泥藤という邪悪を前に、あっという間に砕け散る。

 根来という生贄を失って、しかし二匹目の羊はあまりにもタイミングよく現れた。

 当然、そのままスライドするだけ。

 根来にしたのとを泥藤は蓮川にした。


「――あれ。これ根来のよりひとつ多いかなもしかして」


 どうだっけと泥藤は取り巻きに聞いて、それから蓮川本人に聞いた。

 聞かれても蓮川は答えられない。

 根来の首筋にいくつ根性焼きの跡があったかなんて知らないし、自分の首筋につけられた焼き跡がこれでいくつめかというのも、もはや「痛い」としかわからなくなった皮膚感覚では判別できない。

 根来は何を生きがいに日々学校へ来ていたんだろうと不思議になった。

 その疑問はすぐに膨らんでいって、高校二年の冬、蓮川はどうしても学校に行けなくなった。

 さすがの泥藤も家にまで押しかけてくることはしなかった。

 もはや蓮川に関心などなかったのか、それともを見つけたのか。

 前者であればせめてもの幸い。後者であっても、もう知るものか。


 どうしてこんな目に遭っているのかと、蓮川は何度も自問した。

 自分は何か悪いことをしたのか? 違う、悪いのは泥藤だ。

『止めなかったやつも同罪だ』とわかったような顔で語るやつがいる。

 死ね。

 そんなことを言うやつがいると考えただけでどす黒い憎悪があふれ出す。

 僕はただ泥藤と根来と同じクラスにいただけだ。

 

 そもそも悪いのは全部泥藤だ。そこだけは間違いないはずなのだ。

 僕はただ、泥藤が邪悪を働く場に居合わせただけなのだ。


 その場に居合わせたというだけで、僕には責任が生じるのか。

 ただというだけで、『止めなければならない』という責任が生じる。

 その責任を果たさないなら、同罪。

 ふざけるな。


 本当は嫌だったんだ。

 怖かった。

 泥藤が怖くてしょうがなくて、自分も同じ目に遭うかもと考えたら腹が痛くなって、根来なんて見捨ててしまいたかった。

「やめろよ」というあの一言を叫ぶのがどれだけ嫌だったと思うんだ。

 それでも罪を背負いたくないから僕は叫んだんだ。

 なにもしないのは同罪だと言うから。




 ただというだけで、こんなにも重い責任が生じる。

 これが理不尽でなければなんなんだ。



 かつては人として当たり前のことを語っていた両親は、壊れてしまった息子を見て、嘆くことこそあったものの――泥藤の家を相手に事を構える気概は、ついぞ見せなかった。

 深く刻み込まれた傷は寝ている間も痛むようになって、夢の中さえ蓮川にとって安全な場所ではなくなった。

 崩れるリズム、入れ替わる昼夜、もう高三になるというのに、学校へ戻る目途は立たず――それでも、なんとか、夜中であれば。コンビニへ軽い買い物をしに出るくらいのことはできるようになった。

 なにかに怯えるようにして。

 そこの角から泥藤が顔を出したらどうしようと、

 絶えず恐れながらの歩みではあるが。



 四月十二日そのひの深夜も、蓮川は何かに怯えるようにコンビニへ向かった。

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