第25話 誰かの記憶とその正体―⑦
いい加減これも何度目だろう。
「起きて。……起きて」
「…………」
誰かが身体をゆすぶる感触、背中で芝生がこすれる感触。
目を開けると、サレス――と、その後ろでおずおずと立っているメリル――が、倒れた僕を不審げに覗き込んでいた。
さすがに、そろそろ悪魔かなにかが憑いていると疑われてもしょうがない。傍から見たら完全に意味不明だろうという自覚は持っている。が、それでも考えてしまう。
「……結局」
「うん」
「……あのスライムは、何を知ってたんですかね……?」
「うん?」
百パーセント初対面の相手に『おまえは誰だ』なんて聞かない。
なにか僕を見て感じ取るものがスライムの中にはあったはずなのだ。
けれど、僕が見た記憶の中に出てきたのは泥藤と紅本のふたり、それにスライムの
では、なぜ? ――この問いに、当然ながらサレスは首をかしげるだけである。
「……何を知っているかというか、まず何の話をしているかわからないけど」
「……すいません。なんでもないです」
「ひとまず、あのスライムをどうしたものか」
腕組みをして見つめる先には、居心地悪そうに(そう見える)小刻みな膨張と収縮を繰り返しているピンク色のバランスボール。メリルはそれをなだめるように、なにやら身振り手振りを交えてスライムに話しかけているが――スライムのほうは、どんな返事をしているのだろう?
これという案もなく、ふたりの異種族間交流をぼんやりと見守っていた僕らのもとへ、公園の人払いをしていた兵士がひとり寄ってくる。
「あの、サレス様……」
「……むしろ私が聞きたい。どうすればいいと思う」
「えっ」
呼びかける声からにじみ出ている「アレ、どうする気なんです?」という問いを敏感に察知して、サレスは疲れた声で先手を打つ。振られた兵士は一瞬うろたえて、しかしすぐに平静を取り戻したのは国軍の意地というべきか。
「……退治してしまうというのは、難しいのでしょうか。たしかに我々の剣や槍では、水などすり抜けてしまうだけですが……」
「消し去るだけなら、難しくはない」
気の抜けた声でサレスが言うと、手の中に握られていた杖が紫色の光をまとう。
この異世界にやってきてからというもの、僕は何度も何度も激しいマジカル剣戟アクションに巻き込まれてきた。
たぶん本当に大したことはないのだろう。
このスライムが魔法剣を手にしたユースの前に出ようものなら雑魚キャラその一以上の活躍なんて望めはしないだろうし、戦う相手がユースじゃなくてサレスだった場合でもたぶん同じ。
魔法使いがいる以上、別段恐れるような相手ではない。
それは間違いのない事実なのだろう。
「難しくはない、はずだった」
事実なのだろう、が。
兵士とサレスの会話を耳ざとく聞き取っていたメリル王女様は、弾かれたように振り返ると同時に両腕で大きな×印を作った。ふるふると首を横に振って懇願する。
「……昔から、お優しい方だった」
「は、はあ……」
兵士のほうは階級上大っぴらに愚痴るわけにもいくまいが、サレスはといえば構うことなく大きなため息をついている。
妙な方向に話が転がったものだ。
一応、あのスライムが転生者であることは間違いないはずだ。となれば僕の立場からして、スライムを殺してしまえというのは避けたほうがいい事態、ではあるはず。ここはメリルの博愛主義に感謝したほうがいい場面かもしれない。
が、スライムを助けたとして、しかしスライムの記憶から特に何もわからなかったこの状況――
ここから、僕は何をすればいい?
ううむと頭を抱えたところで、タイミングよく雷が落ちた。
本当に唐突な雷鳴だった。
青天の霹靂という表現がふさわしい。
耳がおかしくなりそうどころか目から涙がにじみ出すほどの、痛みすら感じる轟音、激音。突如鳴り出して今なお断続的に響き続けるその音に、公園にいた全員が耳をふさぐ。
音の出どころを探して見上げた空にはぱっくりと亀裂ができていた。
「――結界が……!」
そう叫んだのが誰だったかわからないくらいに耳がイカレた。
空の亀裂は火花を散らしながらどんどん広がっていって、
どうやら都市をドーム状に覆っていたらしい結界がてっぺんから割れ始めている。
ひび割れの向こうで照る太陽が一瞬ふっと翳った。
とても大きな、太陽を遮るほどのなにかが宙から降ってくる――――
地震!
「おおおお……っ!」
隕石でも降ったのかと思うほどの衝撃と爆音がとどろき、ここより少し離れたところに落ちたはずなのに地面が揺れた気さえした。
公園に控えていた兵士たちは何事かと右往左往して、でも紫色の魔法使いは今の一瞬見たものに目を見開いていて、
紅色のドレスを着た王女様は、世界の終わりを見たような顔をしていた。
「……今のって……!」
言うが早いがメリルは世界の終わりに向かって駆けだした。サレスも唇をきゅっと引き結んでそれを追う。
なにか白くて大きなものとしかわからなかった僕は、いったい彼女らには何が見えたのかと疑問符を浮かべながらその後に続き――
――僕もたいがい察しが悪いなと、改めて自覚した。
噴水の女神像は完全に砕け散っていた。顔の半分がかろうじて原型をとどめたまま転がっていたのでたぶんこれは女神像の破片なんだろうと推測できただけだが、
炊き出しのテントや噴水をすべてなぎ倒して、竜の巨体が広場に横たわっている。
全身から流れ出る血が白い体を赤の縞模様に染めていて、もはやぴくりとも動かない。いや、今一瞬鼻先で長いヒゲが震えたように見えたから、まだかろうじて息はあるのかもしれない――
メリルはその赤いドレスを血で二度染めすることも厭わずに竜へ縋りついている。
「そんな……! どうして……」
「……この白竜が、なぜこの場所に……」
広場はパニックに陥っていたが、しかし傷ついた竜を抱く王女の姿は人々の興味を惹いたようだ。遠巻きにメリルと竜の様子を伺う群衆というこの構図は、絵画にでもすれば大層なタイトルとともに後世に残るかもしれない。
そんな群衆の視線をかき分けるようにして、サレスと僕も竜のそばへと歩み寄った。血に濡れていない白い皮膚に恐る恐るといった調子で触れ、紫色の魔法使いは青い顔でつぶやいている。
人を助けた心優しい白竜、
僕にだけ敵意を剥き出した白竜を前にして、
このときの僕はほとんど何も考えていなかった。
ただ僕は、サレスやメリルがそうしているのと同じように――
そっと、血まみれの体に手を触れた。
* * *
汚い部屋だなあ、と一目見てまず無遠慮にそう思った。
僕は――この身体の主、竜の
小さな座卓の上にノートパソコンが置いてあって、その周辺だけはいくらか片付いている。でも、それ以外はプリント類だとかゴミ袋だとかお菓子の空き袋だとか、本棚からこぼれた漫画本やら衣装ケースからはみ出した衣類やら、もう本当に足の踏み場もないほど散らかりきっている。その中に女物の下着が混じっているのが見えて、つまりここは女の部屋なのだと思うが――竜の
窓の外は暗いけれど、月が出ていた。
ここは二階の部屋らしい。
ふうと息をついてクレセント錠を下げ、竜の中身はベランダに出た。洗濯物は干していない。物干し竿のところどころに点在する丸っこい洗濯ばさみは日に焼けてボロボロになっていて、これ大丈夫かよと手で触れてみるとはさみの部分のプラスチックがぽろぽろと崩壊していった。一瞬焦るも、こんなになるまで放置した部屋の主が悪いと開き直り、ベランダの柵に肘をついて月を見た。
どうやらずいぶんとだらしない生活をしているらしいこの部屋の主は、現在、トイレに席を立っている。
どうしてこんなことになっているんだろう、と思わず苦笑した。
引きこもりの男子高校生が見知らぬ女子大生の汚部屋にお邪魔するなんてイベントが、いったいどんな経緯をたどれば発生するというのだろう。
発生したんだからしょうがない。
二十年足らずの経験ではあるが、人生というのは奇妙なものだと改めて実感する。
いいことなんてほとんどなかった。悪いことばかり死ぬほどあった。
それでも、生きていればこんな不思議な事態に遭遇することだってある。
いいことがある、とまでは言えなかった。この汚い部屋を見る限り、これがいいことなのかというと、そうでもなさそうだったから。
けれど、不思議な晴れやかさが胸の内にあった。
ベランダで月明りを浴びていたこの身体の主、竜の中身は、
そこで大きく反り返って伸びをして――
――突如、首元に熱と衝撃を感じて、咳き込んだ。
飛んできた
その勢いのままベランダを跳ねまわった
柵の隙間を通り抜けて落ちていく。
「おわ、あぶねっ」
からん、とまたアスファルトの地面に跳ね返って音を立てたそれに、階下から聞こえる焦った声。
こちらとしてはそれどころではない。
咳き込むたびに切られた首から血が飛び散ってベランダを汚す。
傷を押さえる手の指の隙間からぽたぽたと血が垂れ落ちる。
「ダーツの才能あるかもしんない。ダーツじゃねえなブーメランか。両方?」
ひし、と震える腕で柵を掴んで、柵に血の手形を残して、
なんとか体を立ち上がらせたこの身体の主が、
柵の向こう側に見たものは――
「よう。すっげー偶然じゃねえ?」
切っ先に今も血を滴らせる、刃渡りの大きなナイフを、拾い上げて――
にたにたといやらしい笑みをこちらに向けている、泥藤。
* * *
「うそ……。うそ、うそ!」
「――!」
メリルの泣き声で我に返った僕は、自分がその場にまっすぐ立っていることにまず驚いた。
記憶の再生は中途半端なところで止まった。どころか、そもそも僕が吹っ飛ばされていない。気絶もほんの短い時間。
隣に立っていたサレスを見ると、彼女は金色の光を自分の腕にまとわせていた。その腕で竜の白い肌に触れ、しばらく目を閉じ――首を振る。
「……だめ。もう息がない」
それを聞いたメリルはいっそう顔をくしゃくしゃにしてくずおれた。
――死んだのか? この竜が?
――六人の転生者のうちのひとりである、この竜が?
だから記憶が変なところで止まったのか、と一瞬考えてそれどころではない。
そもそも、ひとり欠けて収拾がつくのか?
というか、
というか――
「そーいうわけで、それ、おみやげね。気に入った?」
――この竜を殺せるやつって、誰だよ。
聞くまでもない愚問にまるで答えてくれたかのように空が暗くなった。
「いや、空間転移ってもっとサクサクいけるもんだと思ってたけど、やってみるとだいぶめんどくさいな。しかもデカいの抱えてるし結界まであるしでもー面倒で、結局全部ぶち抜いちまったよ」
それはコウモリの羽のように、
しかし太陽を遮るように大きく広がる――黒い瘴気。
「つーわけで、来てやったよ。俺が魔王だ」
破れた結界の亀裂を背景に、魔王は空に立っていた。
「で?」
広場は今度こそパニックになった。
魔王を見たことがない民衆でも一目見て
天高くに陣取った魔王はきょろきょろと下界を見回してから告げた。
「五つ目のゴミ掃除が終わったから、最後んとこに来てやったんだけど……あいつは? あのかっこいー剣持ってる、あいつ。どこ行った?」
サレスの舌打ちが耳に届く。
最悪だ。
ユースは現在戦えるような状態ではない。いや――そもそもの話、
プロメテウスで戦ったとき、ユースは魔王に歯が立っていなかった。
ベストコンディションで戦ったところで勝ち目はもとから薄いのだ。
あげく白竜は魔王に殺されてしまった。
滅亡までの秒読みが始まっている。
この状況をどうすればいい?
「いないのか? なんで? え、おまえこの前もいたやつだよな。あそこにいた」
当の魔王は気楽な調子で、サレスを指で指している。
「で、そこのおまえもこの前いたやつじゃん?」
続いて、竜のそばでうずくまっているメリルを指さし、
「で、そこのおまえが……」
最後に、呆然と突っ立っていた僕を指さして――
止まった。
「蓮川?」
現世と異世界、両方の記憶をひっくるめても泥藤のこんな顔を見た覚えがない。
闇の瘴気を背負って太陽を覆い隠した大魔王は、
今、ハトが豆鉄砲を食らったような顔をして、
ぽかんと大口を開けて、間抜けな表情で僕を見つめている――
今なんて言った。
「っはは」
「はは、っははははははははっひははははははははは……」
「っははははははははははははははは………………」
「……っすかわあああああああああああああぁぁぁぁぁあ……!!」
――今、なんと言った?
「――いるじゃねえかよ、蓮川!! ははははははそりゃそうだよ! なんだ、おまえも死んだのか!? 当たり前か! そうだよ、俺が死ぬってことはおまえみてえなカスが死んでねえわけねえんだよそういえば。んだよ、
狂気じみて豹変した泥藤に恐怖を覚える暇もなく、
僕はただただ混乱していた。
明らかに、泥藤は僕を見ている。
違う。
後ろで横たわっている竜の死体に目をやる。
蓮川は僕じゃなくてこの竜だ。
じゃあ、なんだ。
「なあ蓮川。なあ、蓮川! おまえがいるってことはいるだろ、あの女も。あの女も死んでるはずだろう!? そうじゃねえとおかしいもんなぁカスは死ななきゃおかしいんだから! いるんだろ、あの女! 出せ!!」
「――おまえと、あいつと! おまえらふたりだけは絶対に殺してやるってずっと決めてたんだよ、俺は……蓮川ァ!!」
この男は、いったい何を言っている?
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