第22話 誰かの記憶―⑤
その日、四月十二日未明。
僕が入っている、この"身体"――読み通りであれば、その正体は根来優斗――は、近所のコンビニへ買い物に出ていた。夜ももはや三時近い、深夜と早朝の境目あたり。こんな時間に高校生がひとりでコンビニへ行くというのも、いささか妙な話ではある。
けれど記憶を見ている僕には、身体に
この身体の主――根来は、半年ほど前から学校に行っていなかった。
消えない焼き印を首元に刻まれて、消えてほしいと何度も願った。何かの偶然で転校でもしないかと。目覚めたらそこは泥藤のいない世界、今までいた世界は夢だったんだと。今ここにあるどうしようもない絶望は、全部一夜限りの悪夢として溶けてなくなってしまうものなのだと。早くそう気づかせてほしいと。
どれだけ願っても、政治家の息子。
傍若無人に振りまかれ続けるどす黒い悪意はどういうわけだか、もっと黒くて深い闇へと塗りつぶされて無罪放免。誰もそれを指摘できない。
親でさえも嘆くばかりだった。
自分が逃げる以外に手がなくて、根来は家にひきこもるようになった。
一日の大半を布団の中で過ごした。
夢に泥藤が出るようになった。
毎晩のようにいじめを夢に見て、眠ることが難しくなった。
自然と生活リズムが崩れる。
不登校に加えて昼夜逆転、日の当たる世界は遠ざかるばかりで――
――深夜、ちょっとした菓子かジュースを買いに、誰かから隠れるようにこそこそと、コンビニへ向かうことだけが。
ギリギリのところで根来に残された、社会との接点だったのだ。
「……あ、あの! すいません、ちょっと……来てください!」
「え」
――入口のところで止められていた。
長い茶髪をポニーテールにして、メガネをかけた女性店員。水色の縦縞が入ったコンビニの制服、胸元の名札には「べにもと」の字――
――紅本都じゃないか!
先ほど、僕とエビルの前に姿を現したときとそっくりそのままの格好で、入店しようとする根来の前に立ちはだかっている。
立ちはだかられた根来だけでなく、その中の"現在の僕"も動揺した。
――根来と紅本の間には、接点があった!
けれど、これは過去の記憶。
僕が思案を巡らす間にも、状況は進展していくわけで――
どうやら相当慌てているらしい様子の紅本は、どうしていいのかわからずに立ち尽くしている根来の両手を、ほんの一瞬ためらったのち、取った。
「い、今はですね! 今はその、ちょっと、店の中に入れないんです。……立て込んでて! で、ですから」
「え、あ、え、え……?」
親とすら長らく話していない根来が、まったくの他人を退けられるかという話で。
混乱している根来を、紅本は店の裏手へと引っ張っていく。
客やバイトの原付や自転車が雑多に停めてある駐車場――低い音を立てながら回る空調の室外機、その隣に根来を押し付けるようにして、紅本は目を血走らせた。
「……し、しばらくここで待ってましょう! たぶん、たぶんすぐ済むんで……」
けれど押し付けられた根来はそれどころではなく目を見開いた。
紅本の肩越しに、その背後に、見てはいけないものを見たから。
ずっと何かを恐れるように歩いていた根来の、まさにその"何か”が、
紅本の背後に立っていたから――
「なにしてんの? おまえ」
いつも泥藤と会うのは学校だった。
だから、学校とは縁遠いこの時間、この場所――深夜三時の暗闇の中に、ゆらりと現れた、その瞬間の泥藤は。
根来からしてみれば、冗談抜きに異界の死神のように見えたのだ。
うそ、とつぶやいた紅本の言葉がアスファルトを蹴った足音で掻き消える。
ほとんど反射で根来は逃げ出していた。
驚きに凍り付いた体をすぐさま恐怖がいっぱいに満たして、泥藤に背を向け、紅本など忘れて、なりふりかまわず根来は走った。ろくに動かしていなかった足を、必死に、懸命に、前へと出して――
なぜか突然右足の感覚がなくなって、アスファルトの地面にすっ転んだ。
味わったことのない感覚だった。
ふくらはぎのあたりがまるごと熱いような、それとも痺れているような――
――右のふくらはぎに、ひと振りのナイフが刃の半ばほどまでぐっさりと突き刺さっているのが見えて、
痛みを感じるよりもまず先に、何よりも、血の気が引いた。
ジャージの裾と靴の間、くるぶしのあたりに太い血の筋が伝うのが見えて、それは文字通りの意味でもあった。
「――っはははははは我ながら! いや我ながら! マジで刺さるとは思わねえじゃん、天才か!? 天才か俺、天才かもしれん!」
アンダースローの姿勢のままでしばらく硬直していた泥藤は、そのまま背中から地面にひっくり返ると腹を抱えて笑いだす。けれどそれは一瞬のこと、すぐさま体を跳ね起こすと根来のもとへと駆け寄ってきて――ナイフを引き抜いたそこでやっと、根来は、喉の奥から悲鳴を上げた。
「な、なん、んで、こんな」
荒い呼吸と粘ついた唾液で根来の声はもったりと響き、泥藤はいっそう滑稽そうにナイフの柄をつまみ上げた。振り子を揺らすようにゆらゆらとナイフを揺らしていた泥藤が、そっと手を放し――すとん、とまっすぐに落ちた刃先が綺麗に根来の腕へ突き刺さり、再び悲鳴と笑い声。
いくら泥藤が悪人といえども、これは根来の予想を超えていた。
痛めつけられることはしょっちゅうだったし、ナイフをちらつかせたのだって初めてではない。でもこれはさすがに冗談にならない。
刺された場所はもはや熱いとしかわからない。それが逆に怖い。出血でジャージがありえないほどの広範囲にわたって滲むのを感じる。
このままだと、このままだと、
死んでしまう――
「なんでか。なんでこんなことするかってか。なんでかなあー……」
血にまみれた刃を目の高さまで持ってきて、それから少しにおいを嗅いだ。
「うちの学費、いくらか知ってるか?」
臭ぇ、と笑いながらまるで脈絡のないことを言い放つその姿は――
もはや、この世のものではない。
「三百万くらいっつってたかな、三年で。……いや待て、違ったかもしれん。これ私立の平均だった気がする。うちはもうちょい高かったかも」
血のしずくを撒き散らしながら、泥藤はナイフをもてあそんでいた。
「俺んち、母親のほうはそんな金持ってるわけでもなかったからさ。親父に事務室呼びつけられて、おまえひとり高校から大学まで行かせるのにこんだけかかる、って言われたときは、ああこれ嫌味かなって思ったわけよ」
ブーメランを投げるように回転をかけて、ナイフを真上へ放り投げる。
くるくると円形のシルエットを描きながら落ちてくるナイフを器用につかみ取って、また放る。血に染まった刃を素手で掴んで、手が汚れるのも構わずに続ける。
「でも違ったんだな。おまえは将来、こんな学費など端金に過ぎないような大金を動かす地位に着く――私の跡を継いで。って、そういうふうに言われた」
根来は足をやられて立てない。
でも、たぶん傷がなくても逃げられはしなかっただろう。
あまりにも異様な泥藤の姿に――刺された痛みすら忘れてしまうほど、根来は震え上がっていた。理解を完全に超えた奇態。
早鐘を打つ心臓がむしろ限界を超えて止まったようにさえ感じられる。
泥藤はちらりと根来の顔を見た。
「それだけの価値が俺の血には流れてる。それだけの価値を俺は持って生まれた。だから、人より上を行くだけの、価値ある人間になることだって。そーいう説教だったわけ。それが全然意味わかんなくてな」
すんげえプレッシャーだった、とこぼした。
そもそも価値ってなんなんだよ。ガッコーの勉強は点数見えるからいいけど、価値って何? 何の数字? 預金残高? ステータス画面開けば見える?
話す内容と声色だけを見れば友達との雑談のようで、
しかし話す間泥藤は何度も何度も執拗に根来を刺した。
「だから、俺なりに考えた。私立の学費三百万って言うだろ? だったら、うちの生徒ひとり殺せば、それまでにかかった学費とかが全部無駄になるわけだろ。人ひとり育てるだけの金が全部無駄になって、それを無駄にしたのは俺なわけだから、その数字がそのまんまスコアになるわけだろ。俺の」
上がる悲鳴など意に介さずに、
表情ひとつ変えることなく、本当に、なんでもないことのように。
「子供ひとり大学まで育てるのに、二千万だか三千万だかかかるらしいんだよ。ってことは十人殺せば三億。三億無駄になったことになる! プラス三億もマイナス三億もやべえってとこは変わんねえよ。大金動かしてるのは同じだ!」
頬に飛び散った血をぬぐい取って、それから泥藤は笑った。
「そーいうわけだから、俺のスコアになってくれ。二千万の"価値"になって、俺の上に積み上がってくれ。たのむ!」
深夜のコンビニに響く高笑い。
視界はかすみ頭は揺らぎ、今際の際の意識の中で、根来の中に渦巻く感情――
――なんでだ、
――なんで、
――なんで、こんな――
「まあ気の毒だとは思うよ俺も。クソみてえだったもんなおまえの人生」
この泥藤と出会ってから、いいことなんてひとつもなかった。
誰も助けてくれなかった。
なにひとつ報われることがなかった。
嫌で、痛くて、苦しくて、逃げて、
――逃げた先にも泥藤がいて、結局僕はこいつに殺される。
一から十まで泥藤のせいで不幸な思いを強いられて、
死ぬときまでも泥藤の都合だ。
こんな結末しか待っていないのなら、僕の人生に何の意味があった?
こんな、こんなことになるくらいなら――
「いっそ生まれてこないほうが幸せだったかもしんねえって思うよな」
――生まれてきたくなんて、なかった。
「落ちてくれりゃよかったのになー隕石。それで全部ぶっ壊れてたほうがみんないろいろ楽だったんじゃねえかって、俺もたまに思うんだ」
倒れ伏した根来の目から静かに涙が流れ落ちて――それでもなお、泥藤は世間話でもするかのようにしゃべり続ける。
――なんで、こんな理不尽なんだよ。
何様なんだよ、この男は。
ここに至ってようやく湧いた憤りが根来に拳を握らせて、しかしその力は悲しいほどに弱弱しい。
遠のく意識を懸命につなぎとめようとして、最後の力で顔を上げた根来は――
コンビニの建物の陰から顔を出して、
絶望しきった表情で、こちらをうかがっている、
紅本都の姿を最期に見た。
――なんだよ。
――何してるんだよ、そこで。
――見てるだけか。
――助けてくれないのか。
――助けて、くれないのかよ。
どいつも、こいつも―――――
死に際、根来の中に渦巻いていた感情――吹き荒れていた感情の正体は、
憎悪、であると僕は思った。
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