第9話 誰かの記憶―①


 意識を取り戻してから、目を開けるまでのわずかな間――その間に直感した。

 ここは、異世界じゃない。

 寝ている間魂が抜けるとエビルは言った。気絶でも似たようなものだろう。

 ということは、また会議室に戻ってきてしまったのだろうか?

 起きてから大して経っていないのに、早々に帰ってきた僕を見て、エビルはどんな顔をするだろう――


 ――でも、開いた目に飛び込んできた景色は、会議室のそれではない。


 跳び箱。ライン引き。ハードル。高跳びのバー、マット。カゴにぎっちりと詰まったボール。重ねられたカラーコーン。

 セメントの床は土と石灰でざりざりしている。

 体育倉庫だ。

 僕は今、体育倉庫の床に、頬をべったりとつけて倒れ込んでいる――

 ――なぜ?

 立ち上がろうとするが、身体が動かない。金縛りにでも遭ったかのよう――と、いうよりも、そもそも自分の身体ではないかのように、まったく自由がきかない。

 なんとかならないかと懸命に力を籠め、うめき声を上げ、……ようにも、声を出すことさえできない。もがくことすらできないまま、もどかしい気持ちを抱えていたそのとき――



「――私立の学費ってさ、高いらしいな」


  

 寝転がった頭を強く踏みつけられ、出なかったはずの声が滑り出た。

 髪の間に落ちる砂粒の感触。靴底に食い込んだ小石がそのまま頭皮にも食い込んで、鋭い痛みにのたうち回る。

 頭を押さえつけていた脚力が、そこで少しだけゆるんだ。

 助かった、と思った次の瞬間――


「ま、額は知らねーんだけど。払ってんの俺じゃないし」


 頬骨のところを蹴り飛ばされて、勢いよく床を転がった。

 なにか硬いものにぶつかったと思ったのは高跳びのスタンドで、折り重なって倒れたそれが無遠慮に全身を打ち付ける。舞い上がる石灰の白煙――

 全身の痛み、床に崩れ落ちる僕、下卑て裏返った笑い声、床を伝わって耳に飛び込む、複数の足音――僕と、僕を蹴り飛ばした男と、ほかにも数人いる。


「でも、この学校にいるってことは、俺も、おまえも、おんなじだけの学費を学校に払ってるってことだよな。俺とおまえに、同じだけの金がかけられてるってこと。そうだろ?」


 なんとか、スタンドを押しのける。しかし僕が立ち上がるよりも先に、ふたりの男が僕の両腕を掴んで無理やりに立ち上がらせた。

 連行される犯罪者のような格好になった僕は、ひとりの男と向かい合う形になる。 体育倉庫の入り口、閉め切ったドアにもたれかかっているひとりの男――


「それが不思議なもんだよなって、いつも思うんだ、俺は」


 さっきから僕に語りかけているのは、どうやらこの男であるらしい。




 着崩したブレザーの制服。ネクタイはしていない。ツンツンに立てた金髪がいかにも不良というオーラを漂わせているが、ユースの金髪を見た後だと、安っぽい色にしか見えない。

 顔にほほえみを浮かべてはいるが、それは「ニタニタ」とか「意地悪い」とかそういう形容がつくタイプの笑顔。ハイライトのない真っ黒い瞳が、閉め切った倉庫の薄闇に溶けている。

 ひどくガラの悪い生徒だと、"僕"は思った。そして――

 僕のようで、僕じゃない。まったく自由のきかない、この”身体”は――

 心の底から、震え上がるほどの恐怖をこの男に感じていた。今すぐここから逃げ出したいという思いが全身を駆け巡っている。

 他人の身体に乗り移った幽霊のような気分だった。

 ”身体”のほうが感じていることを、他人事のように、”僕”も感じている。


「おまえも、不思議だと思わねえ? 俺もおまえも、おんなじだけの金払って学校来てんのにさ……」


 金髪の生徒は、そこで顎をしゃくった。すると――

 右隣の男が、僕の脇腹に強烈なボディーブローを叩きこんだ。声を詰まらせて崩れ落ちそうになるが、左隣の男がそれを許さない。

 その一発を皮切りに、倉庫にいた他の生徒たちもぞろぞろと集まってきて――僕の全身に、殴る蹴る殴る蹴る蹴る蹴るの暴行を執拗に加えた。

 ぼろ雑巾のように転がされた僕へ、遠くから言葉が振ってくる。


「俺は、こうやって学校生活エンジョイしてるっていうのによ。おまえのほうはまるっきり逆で、サンドバッグ生活満喫中か? まあ不公平だろ、普通に考えりゃ」


 金髪がポケットから煙草を取り出した。それを見て、僕を取り囲んで笑っていた生徒たちのうちのひとりが、金髪に向けてライターを投げる。

 一本、口にくわえようとして――なにかを思いついたように、やめた。

 手の中の煙草とライターを、金髪は交互に眺めまわして――


「根性焼きって、言うよな……」


 取り巻きの生徒たちが、甲高い、下品な叫び声を上げた。

 背骨を一直線に貫く恐怖がその下卑た声にはあった。

 あまりの恐怖に我を忘れて、僕は弾かれたように走り出した。がむしゃらに腕を振り回して、止めようとする周りの連中を必死に振り払って、一直線に出口を目指す。

 ドアの前には金髪が立っている。

 走り来る僕を腕組みして見ている。にやにや嫌な笑みを浮かべて――

 ――それを見て一瞬、自分が何がしようとしているのかわからなくなった。

 とにかくここから逃げ出したいのか、

 それとも、

 憎いあいつを殴り飛ばしてやりたいのか。

 

泥藤でいとう……」


 コントロールできなくなった気持ちが言葉になってこぼれ出た。

 口に出さずにはいられなかった。

 叫ばずにはいられなかった――



「――泥藤でいとおおおおおおおおおおおお!!」



 体当たりでドアを蹴り破ってそのまま逃げるつもりだったのか、泥藤に飛びかかって押し倒してマウントポジションで殴り続けるつもりだったのか、自分でももうわからない。わからないが、とりあえず僕は――

 泥藤の繰り出したハイキックがカウンターの形で顔面に入って、ほとんど一回転するほどの勢いで後ろにひっくり返った。


「――っはははめちゃくちゃきれいに入った! すげえ! なあ、おい、泥藤”さん”だろ? ”泥藤さん”だろうがよ、な?」


 泥藤は倒れこんだ僕を蹴る。二度、三度とリズミカルに、心の底から楽しそうに笑って、僕を何度も蹴りつける。


「太陽、さんさん、おはようさん。偉い人には”さん”を付けましょう! いやマジ悪いこと言わないからさ、価値がないなら礼儀くらいは持ってないといろいろつらいよぉー。困るの自分なんだよぉー」


 震える腕でなんとか身体を起こそうとすると、セメントの床に血がこぼれる。蛇口をひねったみたいな鼻血が涙と混じって垂れ落ちていた。


「で、……ああそう価値の話。いや、不公平だよなあほんとに。おまえの親御さんだってさ、まさか息子を雑巾にしようと思って金出してるわけじゃないだろう? でも現実はこうなってる。なんでこうなるんだと思う?」


 噴き出す鼻血を手で押さえる僕の前に、泥藤はかがみこむ。

 小さな子供にそうするような姿勢と声色で、

 出来の悪い生徒に言って聞かせるような口調で――


「それはな、おまえに”価値”がないから」


 泥藤はなめらかに言い切った。

 淀みも、迷いも、疑いも、何もない、澄み切った、朗々とした声。

 

「おまえには生きてる価値がない。俺には生きてる価値がある。俺は、おまえより価値ある人間。だからこーいうことをしてもいい。ま、つまり俺のほうが偉いんだよ」


 うずくまっている僕の背中を泥藤は踏みつけた。うぐ、と声を漏らす間もなく、泥藤は僕の後ろ髪をつかんで――顔面を、床に叩きつける。


「いや、俺だって悪いとは思ってるよ。正直自分の価値なんざ実感ねーし。でも、まあ、あれだ。あれだよ……」


 ハンコを押すみたいに血が広がった。それを見て泥藤は少し笑った。

 もう一度後ろ髪をつかんで、顔を無理やりに上げさせる。そして、今度は叩きつけるのではなく、首をねじって、後ろを向かせて――

 泥藤は、僕の顔を見た。


 

「子供は、親を選べねーんだ。だから勘弁してくれ。な?」



 一転の曇りもない、漆黒の瞳が――

 僕を、まっすぐに見据えていた。




 泥藤――泥藤、省吾。

 同じクラスの、泥藤省吾でいとうしょうご

 こいつは政治家の息子だった。それも一人息子。二代目を確約された息子。こいつ以外、後継者がいない。

 血のつながった一人息子は政治家にとって重要だった。

 だから、泥藤の起こした問題は、ほとんどが金と権力によってもみ消され――



 結局、僕の見ているこの映像は――

 この記憶は、いったい、なんなんだ?

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